昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

昨日に引き続きこんなこと書くのも何ですが、あえて。

2006-10-18 23:35:08 | ものおもい
昨日の報道で大きく取り上げられていた件です。

妊婦死亡で事情聴取へ 奈良県警、医療ミス調べる(共同通信) - goo ニュース

 奈良県大淀町立大淀病院で妊婦が分娩(ぶんべん)中に意識不明の重体になり、移送を要請した病院から次々に断られた末、大阪府内の病院で死亡した問題で、奈良県警は18日、業務上過失致死の疑いもあるとみて大淀病院から事情を聴く方針を固めた。
大淀病院によると、今年8月8日未明、分娩のため入院していた高崎実香さん(32)=奈良県五条市=が頭痛を訴え、意識不明になった。分娩中のけいれんと判断し県立医大病院(同県橿原市)に受け入れを求めたが、満床を理由に断られた。医大病院が18カ所の病院に打診したが断られ、19カ所目の国立循環器病センター(大阪府吹田市)に転送されたのは午前6時ごろだった。高崎さんは脳内出血で約1週間後に死亡した。
大淀病院の内科医は脳の異常の可能性を指摘していたが、主治医はコンピューター断層撮影装置(CT)にかけなかったという。

(引用ここまで)

 医療現場の問題については、前々回の記事で取り上げました。
 今回の話は、参考にさせて頂いた新小児科医のつぶやき様の最近の記事で懸念されていたことが、非常に悪い形で顕在化した、と言えそうです。
 ところで、私は養老孟司を愛読していますが、『カミとヒトの解剖学』か何かで、以下のようなことが書かれていました。
「いずれ、病院でのヒトの死は全て医療過誤として扱われ、医師の責任が追求されるようになる」
 1990年代始め位の文章です。当時は皮肉めいた警句だったであろうこの言葉が、いよいよ現実化したのではないか、と思います。
 このニュースを耳にしたとき、「ああ、やはりそうか」という気持ちと共に、正直、「病院は何をやっているんだ」という憤りが、心に浮かびました。
 残された御主人とお子さん、その他の遺族の方々には、同情の念を禁じえません。
 それでも、と、私は考えます。
 この感じ方には、前提として、以下の二点があるように思います。
  1)日本人は原則として国内で平等の高度な医療サービスを当然に受けられる。
  2)上の例外として唯一「費用負担による差」が存在する。
 さて、2)はよいとして、1)は本当に成立しているでしょうか。私が考えるに「否」です。
 差、すなわち不平等は他にも存在する。それも決定的な。それは「偶然性」です。
 たまたま、搬送された病院が受け入れ態勢が整っていなかった。
 たまたま、当直医が経験の浅い専門外の医師だった
 たまたま、その医師が夜勤続きでひどく疲れていた
 たまたま、患者の方の容態が急変した・・・・
 (今回のケースのことではありません、念のため)
 実際には、医療現場といえど、これらの偶然性から逃れられるものではありません。
 私達は、いつしか、医師、ないしは医療サービスに「完全性」「無謬性」を前提してしまっているのではないか。しかし、そんなものは「始めからない」のではないか。
 昨日の記事とも重なりますが、「相手だけが一方的に悪い、だから、罰は重ければ重い程いい」という風潮につながるのは、こういった「完全性」「無謬性」神話、言い換えれば「ゼロリスク」神話を前提としてしまっていることが、理由の一つであるように思えます。食の安全安心ヒステリー(と今名付けた)にも繋がる事ですが。
 生死に関わることで、だからこそ免許を与えられ、責任が重大であるのが医師であることは事実です。 
 しかしまた、医師も患者と同じヒトであり、ミスを犯す可能性は十分にあること、それが同じヒトであり、ヒト同士の社会の実態であること、こういったことを忘却したり、棚上げしてはいけない。これでは、社会全体として不幸が増すだけではないかと、思えてなりません。
 残酷ですが、現実は、実に実に、理不尽なものです。
 悲劇の原因が明らかに個人の不誠実にあるなら、相応に責められて然るべきでしょうが、制度のまずさや、医師・看護師等の医療従事者の過酷な勤務実態のような背景的な要因は、決して無視出来ないし、しかもそれなりに知られた事実のはずです。これらのことも考慮したうえで、ものごとを判断するように私は努めたいし、努めてほしい。
 当事者の方にとってはほんとうに厳しい話なのですが、少なくとも、とくに外野(なかでもマスコミ)にむけて、このように思います。
 と同時に、我々は互いにもっと信頼関係を高められるように、無理を承知で何とかもがいてみるべきでしょう。
 このままでは、「”社会的”不安神経症」対策に高コストを投じる、無駄の多い社会で、ギスギスしながら暮らして行くしかありません。これは、良くない。
 ヒト社会では、過去、哲学や道徳が、あるいはより伝統的には宗教が、これらの問題を解決したり緩和したりしてきたのしょうが、現代日本ではこれがうまく機能していない。だから、一人一人が、もっと深謀遠慮しなければ、と思うのです。自分の幸福のために。