昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

履修科目不足とか。

2006-10-29 22:23:45 | ものおもい
河北新報webサイトから。
http://www.kahoku.co.jp/news/2006/10/20061027t13026.htm

「この時期の補習痛い」受験生困惑 未履修、宮城でも
 大学入試まで3カ月を切った現役受験生に困惑が広がった。県内6校で26日に発覚した必修科目の履修不足問題。影響を受ける高校生は1800人に迫り、うち1000人以上が3年生。学校側は生徒に謝罪する一方、卒業に必要な授業の補習計画づくりに追われた。(中略)
 仙台三高は履修不足を補うため、3年生に補習を行い、2年生は本来の科目に戻す検討を始めた。「情報」の代わりに「数学」を教えることは県教委にも口頭で伝えたというが、高橋俊郎校長は「学校の認識が甘かった」と語った。
 県教委にうその授業計画を出してまで各校は受験対策に走った。学校側は「世の中が求める」(古川高の山本校長)、「需要がある以上、やむを得ない」(石巻好文館高の白旗宏喜校長)など苦渋の決断だったと強調する。
 佐沼高では、経済事情が厳しい家庭も少なくない中、塾や予備校に頼らない進学実績向上を目指す過程で履修不足が起きた。「情報や総合学習など新しい教科が増えた上に週5日制が導入され、受験科目の単位が減ってしまった」と、鈴木信也校長は背景を語る。
 県教委の黒川利司高校教育課長は県庁で記者会見し、「各校は生徒のためにやったのだろうが、結果的に迷惑を掛けた。本当に申し訳ない」とわびた。
2006年10月27日金曜日

 ありゃ、我が母校もでしたか。
 仙台三高は、理数科があり、早くから情報(パソコン)教育を取り入れていたはずです。
 でも、確か当初に導入していたのはマックだったはず。今はどうか知らないけど、もしマックのままだったら、将来、職業分野での利用に資する効果は余りないわね。
 (私は10年来のマカーですけどね)

 教育がらみでもう一題。同じく河北新報webサイトから。

 http://jyoho.kahoku.co.jp/member/backnum/news/2006/10/20061026t73014.htm
茶髪はふさわしくない…秋田経法大・方針に仙台市長共感
 「若者に茶髪はふさわしくない」。秋田経法大(秋田市)が学生の茶髪やピアスを禁止する方針を打ち出したことについて、梅原克彦仙台市長は25日の定例記者会見で、「大学を支持する」と賛同の姿勢を示した。
 梅原市長は「日本の若者には、ふさわしい身なりがあるはずだ。茶髪やピアスがふさわしい格好だとは思わない」と持論を展開した。
 罰則付きの要綱制定方針には批判もあるが、市長は「(大学側が)強制しなければ、ふさわしい格好ができないという現状が大変、嘆かわしい」と大学側に同情した。
 市長の「茶髪嫌い」は有名で、サッカーJ2ベガルタ仙台の試合後、選手の茶髪について苦言を呈したことも。市職員への服務規律通達でも「髪の色」に注意するよう求める項目を盛り込んだ経緯があり、大学の「茶髪禁止令」に共感を覚えたようだ。
 2006年10月26日木曜日

 記者会見の記録は仙台市HPで。

 梅原市長については、就任当時の発言をはじめ、色々思うところがあります。こういう記事を見ると尚更。
 他県の大学のことなのに、聞く方(記者)もどうかと思いますけどね。ふつーに感想を返すっていうのもなんだかなぁ。仙台市と関係ないじゃないか。
 ま、とにかく「ふさわしいのはなぜか」「ふさわしくないのはなぜか」をきちんと説明できないと、こういうのは説得力がないのではないかと。
 ちなみに、秋田経法大の方針に関する大学のセンセの感想はこちら→「大学教授の日常・非日常」茶髪やめたら一万円

まとまらないなりに。

2006-10-29 22:15:52 | ものおもい
(ケース1)
1 医師は職務専念義務のない公務員にする。
2 医療の平準化を図るべく公設病院を増やす。
3 そのことに伴う医療費の増大は目をつぶる。
4 財源は増税で賄うしかない。(多少はインフラ整備の抑制で出す)
  (付言すれば、増税は企業対象に行うべし。それが嫌なら企業は人件費を適正に支出すること)

(ケース2)
1 医療は原則として自由診療とする
2 死にたくなければ高額商品(高度医療)を買うべし
3 それが出来ないヒトはまあ死亡リスクが高くても仕方ないかな

(ケース3;これはちょっと違うか)
1 医師・医療現場の努力は認めてあげよう
2 ヒトの死は不条理なものであると認めよう
3 誠実な医療であったかどうかを判断できる目を養おう
4 医師・医療関係者はとことんクライアントと話し合おう
5 共通の問題意識に辿り着いたら、選挙で国政に反映させよう

 いまの日本は2を目指すのかな。そうして老齢人口を減らそうと・・・ガクガクブルブル
 まあ、日本の生産力(主に食糧)からすると、たぶんいまの人口は養えないから、減らなければいけないとは思います。それをどうするかが問題で、まさかハードランディングはまずいでしょう。政情不安にも直結する話ですし。

 ところで「在宅医療」というよりは、「自宅で死ぬ」ことについてですが、昨今の社会は、どうも「死ぬ」ということを、頭では分かっていても、実感していないのではないか?と感じています。
 「ゼロリスク」を求めるメンタリティがどこから来るかというと、「自分が死んでもよいと思わないうちは死なないのが当然だ」という考えでしょう。
 マスコミが、お手軽な「健康・長寿情報」を売りまくっているのも、こういった傾向を助長していると思います。
 ところで、在宅で介護している方が、ふと目を話したすきに呼吸器が外れたり、痰の吸引が遅れたり、薬剤の投与を間違ったり、転んだり、といった、偶然性により亡くなるリスクは、医療現場におけるそれよりも高いでしょう。
  医師や看護師に対してはそういったミスは許さないでしょうが、家庭で家族が行うなら、そこまで厳しくは責められないと思います(・・・だよね?まさかこういうのまで業務上過失致死に問われる世の中になったりして)

  厚生省の意図(医療費削減)とは別に、「在宅での死」しかも「十分なケアを受けられない状況での死」が増えれば、「死は不条理」であることを実感するヒトは増えるでしょう。
 そのことで、医療に対する過剰な期待はある程度減殺されるかもしれません。そもそも「死とはそんなものだ」ということに気づけば。
 これは「無常観」ですね。脳化社会とは対極だ。どうでしょう。戦争未経験世代が大半となって、「無常観」は受け入れられるでしょうか。

 最近のヒトは「仕方ない」が言えない、と感じています。日常の小さなリスクは、気づかない(か「フリをしている」か)でスルーしている。確率は低いが重大な(例えば死亡)リスクは、過敏に反応する。しかし、本当に大きなリスク(具体的には交通事故)は「知っているけど考えない」。で、「仕方ない」とは決して言わない。「誰も悪くない/問題自体が存在しない」か 「誰かが必ず悪い/問題はすべてソイツのせい」の二元論。
 世界はそんなに単純だったっけ?そのつど、立ち止まって考えなければと思うのです。「疑うこと」そのものについてさえ。(デカルトかな)
 むろん、「一度は疑う」とか「分かるように確認する」ことは、例えばニセ科学に騙されないためにはいいことです。しかし、いまの風潮は、「官、大企業、医師や弁護士といった権威・権力が、そうでない人に苦痛を強いている。都合の悪いことは隠し通す。騙されないぞ!痛い目にあわせてやる!」といった感じ。
 権力があったり、重大な責任を負うべしとされている職業のヒトが、厳しい目に晒されるのは当然ですが、何やら「粗探し」になってはいないか。

  奈良の件は、やはりどう考えても「患者を取り違えた」とか「鋏を腹の中に置き忘れた」とか「薬剤の量を1000倍間違えた」とか、そういうミスとは異なるでしょう。もっと言うと「誤診リスク」は、いのちを他のヒトに委ねる以上、受け容れざるをえないものではないでしょうか(むろん程度問題で、誤診を繰り返すような医師には退場していただく必要がありますが)。
 「完全」なんてないんですよ。たまたま、それに近いものが得られたら、「ラッキー」と思って、ささやかに喜びましょうよ。
 背伸びをするのを、そろそろ、やめましょうよ。
(まてよ、なんか為政者に都合のいいヒトを量産するような思想だな・・・もう少し考えてみるか)