昼行灯(だった)トキの大雑把なひとりごと

クレヨンしんちゃんよりもユルく生きていた(当面過去系)私の備忘録と、大雑把なひとりごと。時々細かく語ることも。

極論

2006-10-03 20:56:59 | ものおもい
昔から極論ばかり言って失笑を買ったりしていました。
10年くらい前に考えていた極論をひとつ。

「善行は、それが誰にも善行と知られないような行動でなければならない」

この場合の善行とは、字義通り「善き行い」ですが、同時に、「よこしまな動機でない」ことを含む、と考えています。
「純粋に利他的な行動」とも言えるでしょう。
なんでこんなことを考えたのかというと、自分が「善行」だと思ってしていることについて、自己満足したり自己肯定したりというのは、私には不純な動機であると感ぜられるのですよ。「なんだ、美辞麗句で飾って、けっきょく自分のためじゃん!」って。これを避けるにはどうしたらいいか?と考えてみたわけです。

さて、ヒトが善行をする場合に、「純粋に利他的」であることは可能か?というと、おそらく不可能でしょう。
善行をする場合に、「私は善行をしている」とか「ヒトの役に立っている」と考えることで生ずる、自己満足や自己肯定感に伴う幸福感を排除するのは無理でしょうから。

では、逆に「これが善い行いでヒトのためになるのは分かるが、こんなことやってらんない!」という場合はどうか?
私が考えるに、これの方がまだ純粋な利他性に近く、よって善行に近い。しかし、嫌々ながら行われた善行は、質が低くなるでしょう。
また、「心底いやだと思った行為をする」という状況が、「強制」以外に思いつきませんので、これはまた「より苦痛な状況を避けるため」の「利己的」行為となってしまう。あるいは、強制でないとすれば、動機としては逆なのに善行を自らの意思で行っていることになり、やはり想像できない。

じゃあ、「本人も他人もそれと気づかなかったが実は善行だった」というのはどうか?(これが冒頭に掲げた定義)
しかし、ある行動を善か否かを判断するヒトがだれもいない場合の行動をどうやって「善行」と定義するのだ?というパラドックスが生じます。

ということで、すなわち、私の定義における「善行」は、少なくともヒトのレベルでは(ヒト以外のレベルがあるのかよ?というツッコミはさておき)存在しない、ということになります。
だから、ヒトは自分の行動がつねに利己的でしかないという原罪意識を持って行動すべし、という結論になる。
(むろん、「どうせ利己的なんだから他人なんかお構いなしで好き勝手ヤレー!」とはならない・・・んだけど、これも要は、「他人がイヤな思いをしているのが自分に分かるのがイヤ」という利己性の成せる業、というのがなんともはや。)

ああ、オレってネガティブでイヤな奴だ。
あるいは自虐、Mか。(何だこのオチ)
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