科学哲学というジャンルは私好みのはずだが、なぜか一度もまともに勉強したことはない。
なので、以下の話はまるっきり的外れかもしれない。
昨夜の番組で「日本人が好きな100人の天才」というのをやっていた。
どういう集計かは知らないが。1位は「アインシュタイン」であった。
はて、この結果と、「水伝」を信じるメンタリティとは、一見すると矛盾するように見える。
上記の結果は、相対性理論が革命的な物理理論であったことが日本人にとって常識であることを示していると考えられる。
そのくらいの科学的知識が常識であるなら、「水伝」がどれほど荒唐無稽かも分かってよさそうなものだ。
というよりも、両者を同時に信頼するというのは本来無理なのではないか。
番組でも紹介されていたが、アインシュタインの来日時は大変な熱狂ぶりであった。ということは、当時からその評判が日本人には広く受け入れられていたということになる。
そして、太平洋戦争を終わらせた原爆が彼の理論に基づいているという事実も、彼の日本での名声には影響していない。
私は、ここで、日本人のアインシュタインに対する評価が、「正当でない」のではないか、ということを疑う。
いや、なにも私が「相ま派」だということではない。
唐突であるが、仏教伝来のエピソードを思い出していただきたい。
正式な伝来の前に、朝鮮半島から流れ着いたと思われる仏像を手にした当時の日本人は、異国の神として、とりあえずそれを祀ったとされる。
のちに仏教が正式に伝来したときも、基本的には上記と同じ態度だった。そして、仏教(象徴的には仏像・教典)に伴って輸入された当時の最新知識及び技術と相まって、それらは尊崇され、広まっていった。
さて、当時も今も、仏教教典=お経を崇める日本人のメンタリティは、どういうものか。
一言で言うと「ありがたいお経」という言葉に集約されると、私は考える。
すなわち、「お経」は、その書かれた内容(教え)も無論重要だが、それらは主に僧侶を通じて広まり、お経そのものを読むことから伝わるものではない。「お経」は、「ありがたい」という属性を示すシンボルとして扱われる。
つまり、「内容」は副次的な問題に退いている。ここで最も重用視されているのは、僧侶によって示された「ありがたい」という属性の方である。そして二番目は最新の技術・知識だ。
仏教伝来から1400年を過ぎて後の、アインシュタインの来日時にも、同じことがいえるのではないか。
すなわち、アインシュタインに対する日本人の熱狂は、まず彼が「よく分からないが素晴らしい物理理論を提唱したすぐれた学者である」という「属性」に向いている。そして次には、彼の理論が生み出した海外の最新の知識や技術の恩恵に、尊敬の念が向けられる。すなわち、それらは決してその「理論」そのものに向いているのではない。
そして、加えて言えば、そもそも、日本は大陸文明の周縁国として存在した。したがって、その発祥から、最新の技術や知識は、基本的に海外から輸入されるものであった。そういった要素が、アインシュタイン≒海外の最新知識と技術の象徴≒かつての仏教のごときもの、という連想を可能にしている。そう思えてならない。
だから、日本人にとっての彼は、80年前も今も「ありがたいお経」なのではないか。これが私の疑いである。
畢竟、日本人にとっては、仏教文化も科学も、共に「舶来の高度な知識・技術」であるということだ。この国では、宗教と科学技術は峻別されていない。
そのため、一方では現代科学を否定するような「水伝」だって受けるのではないか。要するに、両者が矛盾しないのは、多くの日本人にとっては、どちらでも大した違いはないからだ。「科学のような外見」をしていれば、何となく「ありがたい」から信用できてしまうのである。
ところで、日本では、アインシュタインは日本文化への敬愛とセットで紹介される。それらの話の中には、デマも含まれているが、多くの日本人は、そのことをあまり意識していない。「原爆開発の契機となった」という事実が意識されないように。
それは「ありがたいお経」の属性にふさわしくない。だから無視されるのではないか、とも思える。
なので、以下の話はまるっきり的外れかもしれない。
昨夜の番組で「日本人が好きな100人の天才」というのをやっていた。
どういう集計かは知らないが。1位は「アインシュタイン」であった。
はて、この結果と、「水伝」を信じるメンタリティとは、一見すると矛盾するように見える。
上記の結果は、相対性理論が革命的な物理理論であったことが日本人にとって常識であることを示していると考えられる。
そのくらいの科学的知識が常識であるなら、「水伝」がどれほど荒唐無稽かも分かってよさそうなものだ。
というよりも、両者を同時に信頼するというのは本来無理なのではないか。
番組でも紹介されていたが、アインシュタインの来日時は大変な熱狂ぶりであった。ということは、当時からその評判が日本人には広く受け入れられていたということになる。
そして、太平洋戦争を終わらせた原爆が彼の理論に基づいているという事実も、彼の日本での名声には影響していない。
私は、ここで、日本人のアインシュタインに対する評価が、「正当でない」のではないか、ということを疑う。
いや、なにも私が「相ま派」だということではない。
唐突であるが、仏教伝来のエピソードを思い出していただきたい。
正式な伝来の前に、朝鮮半島から流れ着いたと思われる仏像を手にした当時の日本人は、異国の神として、とりあえずそれを祀ったとされる。
のちに仏教が正式に伝来したときも、基本的には上記と同じ態度だった。そして、仏教(象徴的には仏像・教典)に伴って輸入された当時の最新知識及び技術と相まって、それらは尊崇され、広まっていった。
さて、当時も今も、仏教教典=お経を崇める日本人のメンタリティは、どういうものか。
一言で言うと「ありがたいお経」という言葉に集約されると、私は考える。
すなわち、「お経」は、その書かれた内容(教え)も無論重要だが、それらは主に僧侶を通じて広まり、お経そのものを読むことから伝わるものではない。「お経」は、「ありがたい」という属性を示すシンボルとして扱われる。
つまり、「内容」は副次的な問題に退いている。ここで最も重用視されているのは、僧侶によって示された「ありがたい」という属性の方である。そして二番目は最新の技術・知識だ。
仏教伝来から1400年を過ぎて後の、アインシュタインの来日時にも、同じことがいえるのではないか。
すなわち、アインシュタインに対する日本人の熱狂は、まず彼が「よく分からないが素晴らしい物理理論を提唱したすぐれた学者である」という「属性」に向いている。そして次には、彼の理論が生み出した海外の最新の知識や技術の恩恵に、尊敬の念が向けられる。すなわち、それらは決してその「理論」そのものに向いているのではない。
そして、加えて言えば、そもそも、日本は大陸文明の周縁国として存在した。したがって、その発祥から、最新の技術や知識は、基本的に海外から輸入されるものであった。そういった要素が、アインシュタイン≒海外の最新知識と技術の象徴≒かつての仏教のごときもの、という連想を可能にしている。そう思えてならない。
だから、日本人にとっての彼は、80年前も今も「ありがたいお経」なのではないか。これが私の疑いである。
畢竟、日本人にとっては、仏教文化も科学も、共に「舶来の高度な知識・技術」であるということだ。この国では、宗教と科学技術は峻別されていない。
そのため、一方では現代科学を否定するような「水伝」だって受けるのではないか。要するに、両者が矛盾しないのは、多くの日本人にとっては、どちらでも大した違いはないからだ。「科学のような外見」をしていれば、何となく「ありがたい」から信用できてしまうのである。
ところで、日本では、アインシュタインは日本文化への敬愛とセットで紹介される。それらの話の中には、デマも含まれているが、多くの日本人は、そのことをあまり意識していない。「原爆開発の契機となった」という事実が意識されないように。
それは「ありがたいお経」の属性にふさわしくない。だから無視されるのではないか、とも思える。
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