昨年から、特に快楽が得られなくなったと感じている。
そのせいで、年の後半はほとんど趣味に興ずることができず、時間があると、とにかく眠っていた。そして悪夢を見る。悪夢を見ても眠ることをやめられない。勿論起きてなすべきこともできない。
しばらくして、当該症状をアンヘドニアと称することを知った。内容は以下ブログを参照。
https://www.utsubiology.com/anhedonia/
ここで、アンヘドニアに陥りやすいのは「ネバネバベキベキ思考」の人だという記事があり、該当記事を読んでみた。同じブログの別記事である。
https://www.utsubiology.com/nebabeki/
確かに、自分はネバネバベキベキ思考である。しかし、そのネバベキはブログ主の状況とは全く異なり、他人の視線を意識したものではない。
前の記事で書いたが、私は思春期頃から「絶対的善性」というものについて考えていて、それがあるとすれば「自己に全く利益がなく、純粋に他者のためのみに行われる行為」であろうと考えるようになった。これは「今自分は苦痛であるが、他者はこの行動により幸福になるからよいのだ」といった自己満足でさえも自己の利益であるから許さないという形になると考えている。つまり、耐えがたい苦痛と絶望の中で行われた行為が、他者の、できれば多くの他者の幸福になる行為であり、その結果(他者の幸福)は、当の行為者には覚知・想像すら、されることがあってはならないというものである。
幾人かにこうした考えを披歴したことがあるが、一様に当を得ないという反応であった。やむを得まい。このような状況というものを現実のこととしてありありと想像するのは難しい。それに、これは善悪の区別が誰にも付けられない状態で行われた「苦痛を感ずる行為」が、後に(としか言いようがない)他者の幸福につながるものであった、という類の行為であるから「その行為が善であったと判断する主体」は現実には存在しえない形式のものである。それこそを善だ、と言ったところで、意味が分からないというのが自然であろうとも思う。
そう思っていたが、これも前記事で書いたように、旧約聖書ヨブ記が同じことを指摘していると後に気付いた。ヨブは逸話として最終的に報われるが、むろんこれは話を分かりやすくするためにそうなっているのであり、現実の人間はただ苦痛にのたうち死ぬだけである。しかし、それこそが唯一、善でありうる方法なのだ。「誰かのためになるのなら仕方ない」という言い訳を自分に用意することもまた「快楽」の一種であるのだから、それを求めるという目的は私的なものであるため、純粋さに欠けるのである。ヨブ記の本質はここにある。そして、余計なことだがヤハウェなる神はいない。だから、善は結局、誰にも善と認識されずに、ただひたすら苦行として行われなければならないものなのだ。
といった極端な思考に基づく価値観は、一歩俯瞰して見れは、非常に強烈なネバネバベキベキ思考であると思われる。しかし、これは他者から言われて私がそう思ったものではない。自分で考えてこうした結論に至り、周囲の誰からも理解を得られていないものである。つまり、他者起源ではあり得ない。私は私の本性に従い、知性を自分なりに駆使した結果、こうした思考を持つに至ったのである。
さて上記ブログ記事では、こうした思考特性に「タイタイシタイ思考」が対置される。ようは自分の快不快感情に従って行動することである。で、実はこちらが幼少時から徹底した自分の行動原則である。とりわけ「したくない」が優先である。したくないことを避けるためならしたいことを諦める。そのくらい忌避が強い。具体的には集団行動、付和雷同(単なる習慣への盲目的な追従)、ダブルスタンダードの肯定、疑問や思考実験の否定、統一基準により能力等を測られる行為、等々である。
要するに私は、ヒト一般に求められる集団行動こそが嫌いであり、独自に、いや、得手勝手に行動したいのである。ホモ・サピエンス・サピエンスとしては失格に近い。自分ではオランウータン的な行動様式を持って生まれたのだと感じている。そして、そういう自分が善を考えるときには、上記のような極論を放つようになる(しかし論理的には正しいはず)。つまり、ここにパラドックスがある。「タイタイシタイ思考」を極めた結果、私は「ネバネバベキベキ思考」を他の誰よりも極め、かつアンヘドニアに罹ったのである。
じゃあ治療法はないじゃないか。そのとおりである。座禅でも組み一足飛びに涅槃に至ることでもない限り、私はおそらくこのままだろう。もっとも不確定性原理からすれば、全く偶発的にアンヘドニアから脱する可能性もありうる。それはそれで何かが狂っている状態のような気もするが。
そのせいで、年の後半はほとんど趣味に興ずることができず、時間があると、とにかく眠っていた。そして悪夢を見る。悪夢を見ても眠ることをやめられない。勿論起きてなすべきこともできない。
しばらくして、当該症状をアンヘドニアと称することを知った。内容は以下ブログを参照。
https://www.utsubiology.com/anhedonia/
ここで、アンヘドニアに陥りやすいのは「ネバネバベキベキ思考」の人だという記事があり、該当記事を読んでみた。同じブログの別記事である。
https://www.utsubiology.com/nebabeki/
確かに、自分はネバネバベキベキ思考である。しかし、そのネバベキはブログ主の状況とは全く異なり、他人の視線を意識したものではない。
前の記事で書いたが、私は思春期頃から「絶対的善性」というものについて考えていて、それがあるとすれば「自己に全く利益がなく、純粋に他者のためのみに行われる行為」であろうと考えるようになった。これは「今自分は苦痛であるが、他者はこの行動により幸福になるからよいのだ」といった自己満足でさえも自己の利益であるから許さないという形になると考えている。つまり、耐えがたい苦痛と絶望の中で行われた行為が、他者の、できれば多くの他者の幸福になる行為であり、その結果(他者の幸福)は、当の行為者には覚知・想像すら、されることがあってはならないというものである。
幾人かにこうした考えを披歴したことがあるが、一様に当を得ないという反応であった。やむを得まい。このような状況というものを現実のこととしてありありと想像するのは難しい。それに、これは善悪の区別が誰にも付けられない状態で行われた「苦痛を感ずる行為」が、後に(としか言いようがない)他者の幸福につながるものであった、という類の行為であるから「その行為が善であったと判断する主体」は現実には存在しえない形式のものである。それこそを善だ、と言ったところで、意味が分からないというのが自然であろうとも思う。
そう思っていたが、これも前記事で書いたように、旧約聖書ヨブ記が同じことを指摘していると後に気付いた。ヨブは逸話として最終的に報われるが、むろんこれは話を分かりやすくするためにそうなっているのであり、現実の人間はただ苦痛にのたうち死ぬだけである。しかし、それこそが唯一、善でありうる方法なのだ。「誰かのためになるのなら仕方ない」という言い訳を自分に用意することもまた「快楽」の一種であるのだから、それを求めるという目的は私的なものであるため、純粋さに欠けるのである。ヨブ記の本質はここにある。そして、余計なことだがヤハウェなる神はいない。だから、善は結局、誰にも善と認識されずに、ただひたすら苦行として行われなければならないものなのだ。
といった極端な思考に基づく価値観は、一歩俯瞰して見れは、非常に強烈なネバネバベキベキ思考であると思われる。しかし、これは他者から言われて私がそう思ったものではない。自分で考えてこうした結論に至り、周囲の誰からも理解を得られていないものである。つまり、他者起源ではあり得ない。私は私の本性に従い、知性を自分なりに駆使した結果、こうした思考を持つに至ったのである。
さて上記ブログ記事では、こうした思考特性に「タイタイシタイ思考」が対置される。ようは自分の快不快感情に従って行動することである。で、実はこちらが幼少時から徹底した自分の行動原則である。とりわけ「したくない」が優先である。したくないことを避けるためならしたいことを諦める。そのくらい忌避が強い。具体的には集団行動、付和雷同(単なる習慣への盲目的な追従)、ダブルスタンダードの肯定、疑問や思考実験の否定、統一基準により能力等を測られる行為、等々である。
要するに私は、ヒト一般に求められる集団行動こそが嫌いであり、独自に、いや、得手勝手に行動したいのである。ホモ・サピエンス・サピエンスとしては失格に近い。自分ではオランウータン的な行動様式を持って生まれたのだと感じている。そして、そういう自分が善を考えるときには、上記のような極論を放つようになる(しかし論理的には正しいはず)。つまり、ここにパラドックスがある。「タイタイシタイ思考」を極めた結果、私は「ネバネバベキベキ思考」を他の誰よりも極め、かつアンヘドニアに罹ったのである。
じゃあ治療法はないじゃないか。そのとおりである。座禅でも組み一足飛びに涅槃に至ることでもない限り、私はおそらくこのままだろう。もっとも不確定性原理からすれば、全く偶発的にアンヘドニアから脱する可能性もありうる。それはそれで何かが狂っている状態のような気もするが。
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