先日書いたブログの続きになると思う。
私もそうだったけれど、
人は過去の痛い出来事に対して
自分で納得するための
何かしらの理由をつけたりする。
その時の自分の至らなさを
責めていたりするわけだ。
不可抗力なこと
無知だったこと
単に上手く行かなかっただけのこと
そのときの自分では手に負えなかっただけのこと
そんな、単に望み通りにいかなかったことを
自分のせいにし責めているわけだ。
それが起こったのは、
それを経験したのは
自分が成長するのに必要だった。
自分が気づくのに必要だった。
自分がOOOするのに必要だった。
などなど、過去の起こった出来事の原因に
自分が納得できるための理由をつける。
でも、やっと気づいたことがある。
本当は何も理由なんてないんだ・・・
ただ、その時の自分に起こった
一つの出来事に過ぎないだけ。
それなのに人は
辛かったり悲しかったり苦しい出来事には
後から自分が納得するための理由をつける。
でも、理由が無かったら納得できないから・・・
そして、その作り出した理由に
自分を納得させる。
でも気づいたのは
理由があるうちは本当はまだ、
その出来事が
自分の中で解消できていないということなんだ。
完全な過去の出来事になっていないということ。
何となく年月が経って
その、自分で見つけた理由に納得されて
何だかもう過去の出来事として
自分では終わったように
思おうとしているし、
そう感じているけれど
それは違う。
理由を必要としているのは自分自身で
それを作り出して納得しようとする。
本当に終わった出来事になると
理由なんて何も無くなるのだ。
単に過去の一つの出来事なだけ。
ただ、それだけになる。
それが単に繋がっている
自分の一点にただなっているだけなんだ。