週五日記

ボチボチがんばります

最後の親鸞

2011-11-14 09:11:11 | Weblog

親鸞のことを、ほとんど知らない

のに読んでいいのか?と思ったので、

中沢新一さんの解説を先に読む。

確か「思想の砲丸」ではないか?という解説があり、

吉本さんのコア=親鸞、というのは、ブルータスの

特集で知ったので、かなり興味がわく。

 

途中であるが、かなり刺激的な部分があった。

それは、方丈記をひいて、方丈記の時代には、飢饉とか、災害とか、

現世が、かなり息苦しく、悲惨な状況が、そこかしこにあったと。

「現世」が辛すぎると、「来世」にかけるしかないという、「どうしようもない」時代背景

があって、それならば、「念仏」をとなえれば、来世では救われるかもしれない、と。

しかし、念仏をとなえるとなると、宗教を信じていなければならず、宗教を信じていない

盗みをしたりする、宗教とは程遠い「悪者」たちは、来世にいけないのか?ということが生じ、

「宗教」を信じている「程度」による「差別化」がおこり、「信じる度合」という「尺度」が出てきて、

なんか、それも違うのではないか?となると。

それに、「念仏」をとなえながらも、「現世」の欲を捨てられない気持ちになると、

「宗教は、うそをいっているのではないか?」という疑念も生じる。

 

そのような状況で、親鸞さんが考えていたことは、善人も悪人も関係なく、

各人次第であり、知の頂を極めて、そのまま「非知」へ向かって着地して、

老いて、知も忘れていく「自分の体」で、説得しようとしたのではないか?と

思った。

 

「非知」(親鸞さん)と「無智」(悪人)の言葉の対比も、考えさせられた。

コメント
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