親鸞のことを、ほとんど知らない
のに読んでいいのか?と思ったので、
中沢新一さんの解説を先に読む。
確か「思想の砲丸」ではないか?という解説があり、
吉本さんのコア=親鸞、というのは、ブルータスの
特集で知ったので、かなり興味がわく。
途中であるが、かなり刺激的な部分があった。
それは、方丈記をひいて、方丈記の時代には、飢饉とか、災害とか、
現世が、かなり息苦しく、悲惨な状況が、そこかしこにあったと。
「現世」が辛すぎると、「来世」にかけるしかないという、「どうしようもない」時代背景
があって、それならば、「念仏」をとなえれば、来世では救われるかもしれない、と。
しかし、念仏をとなえるとなると、宗教を信じていなければならず、宗教を信じていない
盗みをしたりする、宗教とは程遠い「悪者」たちは、来世にいけないのか?ということが生じ、
「宗教」を信じている「程度」による「差別化」がおこり、「信じる度合」という「尺度」が出てきて、
なんか、それも違うのではないか?となると。
それに、「念仏」をとなえながらも、「現世」の欲を捨てられない気持ちになると、
「宗教は、うそをいっているのではないか?」という疑念も生じる。
そのような状況で、親鸞さんが考えていたことは、善人も悪人も関係なく、
各人次第であり、知の頂を極めて、そのまま「非知」へ向かって着地して、
老いて、知も忘れていく「自分の体」で、説得しようとしたのではないか?と
思った。
「非知」(親鸞さん)と「無智」(悪人)の言葉の対比も、考えさせられた。