支援の当事者性とか、本人の声が大事。とか言われている。
経験者に聞くのが当たり前だろう。と。
それは当然だとおもう。少なくとも本人をリサーチせずして真実にはたどり着けない。
本人の声を聴く必要はある。
ただし、支援者が当事者である必要は、どうなのだろうかと思う。
当事者の支援者を、私は否定しない。
でも、そこにこだわる必要はない。
自分にとって有効な支援者が、良い支援者であり、それは当事者でも当事者でなくても構わない。関係ないと思う。
最近、ブログが更新できなくなっている。
読まれている傾向は、ブログ元のデータから教えてもらえる。
このブログで読まれている記事の多くは、神田橋先生関連の記事。
そうこうするうちに、自分自身に書く意欲が薄れてきた。
SNSで当事者たちとやりとりしているが、特に精神障害方面の当事者と、関わることがおっくうに感じるようになってきた。
発達系の人たちも、どうなのかな、と思うようになった。
私の主治医はアスペと公言している。
アスペの主治医の助言は、私個人に対するものはそれなりに意味があると思う。
アスペの主治医の助言は、私個人に対するものはそれなりに意味があると思う。
そこに仕事上のことなど他者が絡むと、やっかいになる。
主治医の指導は、多くの社会人には実行不能。
主治医の言う通り、曖昧さを明白にすればいいと思うのだが、それができないのが社会というものだから。
その現実を言うと主治医は発作を起こし、診察中止となる。
精神科医たちは多くの企業人とトラブルになっている。
そこは分かっているので、私は主治医に多くのことを求めないようにしている。
とはいえ、現状を知らせないわけにはいかないので、陳述方法を工夫し、主治医が発作を起こさないように配慮している。
医者には処方箋と診断書を書いてもらう必要があるからだ。それで十分。
口で言うと問題が起きるので、極力箇条書き、数量データ化し、何度も推敲した一枚の文章を、主治医に見せるようにしている。
当事者の専門家に、何でも理解してもらえるとは、思わない。
その専門家が、物理的な作用で何かよいことができるかが、大事だと思う。
今の主治医は、当事者性ではなく、書類通過の成果で評価し、通院している。審査に通らない診断書を書く医師も多い中、主治医は年金機構などからの信頼が厚い。
支援者からADHDをカミングアウトされた。当事者性を支援者は言うが、私はそこではなく、支援者が本社と人脈があるから今でもその人とのつながりを保っている。ADHDの人には興味のあるうちにさっさと仕事してもらわないと。と心がけている。
このブログ、少しずつ読まれているから、意味がないとは思わない。
私の経験が、誰かの参考になれば幸い。
でも、それだけのこと、だよな。と思う。
私がプロだった頃の、当事者性を意識した支援が、どこまで意味があったのか?
人の体験と自分の体験は異なると、最初から意識して支援してきたが、おそらく余計なことが多かったかな。と今は思う。
昔は気力体力があったが、今の私にはそれがかなり制限されている。それだけのことかな?