(2020年6月23日)
イヌを巡る意味論における言語学と構造主義の差を述べたが(6月22日投稿)、ここでの留意点は;ソシュール意味論では実体を持つイヌなる動物が先に存在しているから(主体)、それをイヌとして指さすと説いた。レヴィストロースにおいては思想のイヌ(言語学で意味するもの)がまず人の頭に形成されて、そちらが主体に昇格する。個体のイヌ(意味される)は単なる客体。言語学での主客をレヴィストロースはかく逆転している。人が認めない限りイヌはイヌとして存在しない。これが構造主義としての意味論となります。レヴィストロースは南米Nambikwara族の毒草の豊富な語彙を調べ「毒草でない無用な草には名がない」を突き詰めた。毒草以外の草を思想化する作業を放逐したから、思想を持たない。故に指し示す語は存在しない。
>le decoupage conceptuel varie avec chaque langue<(本書12頁)
この句の直訳は「概念的裁断は言語によって異なる」。こんな訳文に満足し放置したらクセジュ文庫の二の舞になってしまう。この一句に解釈を構造主義の意味論により展開すると;
「言葉が自然を概念(思想)として細分化する様、これが語を形に対峙させる仕組みなのだが、その様は言語によって変わる」となる。より分かりやすい説明は動物界をイヌネコブタなどに裁断し、それぞれに対し思想(あるいは表象)を人が持つ。これがdecoupageなる作業。裁断する境目は言語によりずれるとの指摘である。日本語のイヌと英語のdogはずれている。(古)日本語ではオオカミをイヌと言った(ヤマイヌ)。英語はdogとwolfを分けている。サルに至っては全くかみ合わない。日本語にはモンキーの思想はあるがエイプを持たない。
すこし高尚に「自由」は言語が変われば、それが意味する範囲(形式、客体)にずれがでる。フランス語のliberteと日本語の自由は、それが意味するところの思想が正反なので、客体の意味される形が全く異なる。カツ丼が喰いたいからカツ丼を食う、この行動を日本語は自由とする。仏語、特にカルテジアン(デカルト信奉者)は「コヤツは食欲の虜になっている、不自由な輩だ」と蔑む。この辺りはホームサイト2019年11月30日のカツ丼の自由はアリサの勝手でしょ全回4回に掲載している。ブログにては同年11月25日)
第一章の書き出しScienceDuConcretが読める
野生の思考に入る。
第一章「具体科学」Science du concretの訳。名詞concret具体とは、辞書Robertの知恵を借りる;第2義(philo)qui exprime qc de reel sans que l’on en isole une notion de qualite.第3義qui peut etre percu par les sens ou imagine訳せば2義:質をそれから離すことなく実体を表現する 3義:感覚で捉えられる、あるいは想像するモノ。2+3義がレヴィストロースの伝えるconcretに近い。世界森羅万象をreelとして、思想でも本質でもない「モノ」に託して思考する科学である。
モノに託すとは取り巻く世界を思考するにあたりモノの集体としてそれを見る。それらを統合(integration)かつ敷延(globalisation)し、分割して(morphologie)、モノ同士の関連についてanalogie(類推)assimilation(同一化)congruence(本質は同等、形体が異なる)inverse(対立)identique(本質と形体が同一)を判断する。この思考のこの流れを整合する世界観に他ならない。
具体科学は「未開」とされる先住民が多く実践する科学である。一時代前(20世紀初頭)の哲学者、人類学者は先住民が思考、言葉でモノに執着する傾向を見て取り、モノから質に昇華できない、具体論だけで抽象化する思考に欠ける。故に「未開primitive」とした。レヴィストロースはその語を用いない。しいてpremiere(最初の)科学としている。これと比較する「進歩した」科学とは西洋科学の全般となるかについて、単純に決めつけていない。生物分類の祖リンネは形態学の極点と言える(本文にscience du concretとの類型を指摘している)。ダーウインにしても形態変化を証拠に進化があったとしている。
拡大写真
対抗する科学にsciences moderenes近代科学を当てている。この意味がよく分からない。ヒントとして文中の「新石器革命、8000年前とされる」を取り上げると、この時期に農耕、栽培、土器、絵画などが草創され、それらを支えた思索活動をしてscience du concret(science premiere)を人が編み出したと理解する。まさに初元premierの科学となる。新石器革命以来、premier scienceは連綿とヒトの思考を「モノとの連関」に閉じこめていた(これを新石器革命パラドックスと教える)。
sciences moderenesはモノの科学から離れた科学となる。
形態を見えるとおりに分割し統合し同一化する科学を否定し、見える形の裏側にある本質を演繹する科学をsciences moderenes近代科学とする、と小筆は規定する。コペルニスク(「天体の回転」の出版は死後の1543年)、ガリレオ(異端裁判は1630年)、ニュートン(プリンキピアの出版1687年)らが見えている太陽の動き=モノを見えるままに説明する手法(カソリックの教条でもある)は誤謬を招いているとした。天動説は近代科学の魁である。哲学側からはデカルト(方法序説の出版1637年)カント(理性批判の出版1788年)らの貢献も語られる。
「未開」民族を新大陸の先住民、大洋の孤立民族、アフリカ先住民などとすると、彼らはコペルニスクやデカルトを生み出さなかった。彼らの科学は新石器以来のモノを解析する段階にとどまっている。これをして彼らの知性はLa pensee sauvage野生の思考と逆説的にレヴィストロースが規定した。逆説とはモノにとどまり世界を解析する手法は西洋社会においても生物学、地層学、考古学などで連綿として継続していたからである。
民間においては信条、仕来りなどで受け継がれている。エンブレムにライオンを選び、戦闘機にシャークマウス描く思想はライオンや鮫など強者との同一性assimilationを願うからである。決して先住民にだけ特有な思考ではない故に逆接とした。
本書に使われている用語をscience du concretとsciences moderenesにわけたパワーポイント図を下に掲載する。 続く
図の説明は次回に
イヌを巡る意味論における言語学と構造主義の差を述べたが(6月22日投稿)、ここでの留意点は;ソシュール意味論では実体を持つイヌなる動物が先に存在しているから(主体)、それをイヌとして指さすと説いた。レヴィストロースにおいては思想のイヌ(言語学で意味するもの)がまず人の頭に形成されて、そちらが主体に昇格する。個体のイヌ(意味される)は単なる客体。言語学での主客をレヴィストロースはかく逆転している。人が認めない限りイヌはイヌとして存在しない。これが構造主義としての意味論となります。レヴィストロースは南米Nambikwara族の毒草の豊富な語彙を調べ「毒草でない無用な草には名がない」を突き詰めた。毒草以外の草を思想化する作業を放逐したから、思想を持たない。故に指し示す語は存在しない。
>le decoupage conceptuel varie avec chaque langue<(本書12頁)
この句の直訳は「概念的裁断は言語によって異なる」。こんな訳文に満足し放置したらクセジュ文庫の二の舞になってしまう。この一句に解釈を構造主義の意味論により展開すると;
「言葉が自然を概念(思想)として細分化する様、これが語を形に対峙させる仕組みなのだが、その様は言語によって変わる」となる。より分かりやすい説明は動物界をイヌネコブタなどに裁断し、それぞれに対し思想(あるいは表象)を人が持つ。これがdecoupageなる作業。裁断する境目は言語によりずれるとの指摘である。日本語のイヌと英語のdogはずれている。(古)日本語ではオオカミをイヌと言った(ヤマイヌ)。英語はdogとwolfを分けている。サルに至っては全くかみ合わない。日本語にはモンキーの思想はあるがエイプを持たない。
すこし高尚に「自由」は言語が変われば、それが意味する範囲(形式、客体)にずれがでる。フランス語のliberteと日本語の自由は、それが意味するところの思想が正反なので、客体の意味される形が全く異なる。カツ丼が喰いたいからカツ丼を食う、この行動を日本語は自由とする。仏語、特にカルテジアン(デカルト信奉者)は「コヤツは食欲の虜になっている、不自由な輩だ」と蔑む。この辺りはホームサイト2019年11月30日のカツ丼の自由はアリサの勝手でしょ全回4回に掲載している。ブログにては同年11月25日)
第一章の書き出しScienceDuConcretが読める
野生の思考に入る。
第一章「具体科学」Science du concretの訳。名詞concret具体とは、辞書Robertの知恵を借りる;第2義(philo)qui exprime qc de reel sans que l’on en isole une notion de qualite.第3義qui peut etre percu par les sens ou imagine訳せば2義:質をそれから離すことなく実体を表現する 3義:感覚で捉えられる、あるいは想像するモノ。2+3義がレヴィストロースの伝えるconcretに近い。世界森羅万象をreelとして、思想でも本質でもない「モノ」に託して思考する科学である。
モノに託すとは取り巻く世界を思考するにあたりモノの集体としてそれを見る。それらを統合(integration)かつ敷延(globalisation)し、分割して(morphologie)、モノ同士の関連についてanalogie(類推)assimilation(同一化)congruence(本質は同等、形体が異なる)inverse(対立)identique(本質と形体が同一)を判断する。この思考のこの流れを整合する世界観に他ならない。
具体科学は「未開」とされる先住民が多く実践する科学である。一時代前(20世紀初頭)の哲学者、人類学者は先住民が思考、言葉でモノに執着する傾向を見て取り、モノから質に昇華できない、具体論だけで抽象化する思考に欠ける。故に「未開primitive」とした。レヴィストロースはその語を用いない。しいてpremiere(最初の)科学としている。これと比較する「進歩した」科学とは西洋科学の全般となるかについて、単純に決めつけていない。生物分類の祖リンネは形態学の極点と言える(本文にscience du concretとの類型を指摘している)。ダーウインにしても形態変化を証拠に進化があったとしている。
拡大写真
対抗する科学にsciences moderenes近代科学を当てている。この意味がよく分からない。ヒントとして文中の「新石器革命、8000年前とされる」を取り上げると、この時期に農耕、栽培、土器、絵画などが草創され、それらを支えた思索活動をしてscience du concret(science premiere)を人が編み出したと理解する。まさに初元premierの科学となる。新石器革命以来、premier scienceは連綿とヒトの思考を「モノとの連関」に閉じこめていた(これを新石器革命パラドックスと教える)。
sciences moderenesはモノの科学から離れた科学となる。
形態を見えるとおりに分割し統合し同一化する科学を否定し、見える形の裏側にある本質を演繹する科学をsciences moderenes近代科学とする、と小筆は規定する。コペルニスク(「天体の回転」の出版は死後の1543年)、ガリレオ(異端裁判は1630年)、ニュートン(プリンキピアの出版1687年)らが見えている太陽の動き=モノを見えるままに説明する手法(カソリックの教条でもある)は誤謬を招いているとした。天動説は近代科学の魁である。哲学側からはデカルト(方法序説の出版1637年)カント(理性批判の出版1788年)らの貢献も語られる。
「未開」民族を新大陸の先住民、大洋の孤立民族、アフリカ先住民などとすると、彼らはコペルニスクやデカルトを生み出さなかった。彼らの科学は新石器以来のモノを解析する段階にとどまっている。これをして彼らの知性はLa pensee sauvage野生の思考と逆説的にレヴィストロースが規定した。逆説とはモノにとどまり世界を解析する手法は西洋社会においても生物学、地層学、考古学などで連綿として継続していたからである。
民間においては信条、仕来りなどで受け継がれている。エンブレムにライオンを選び、戦闘機にシャークマウス描く思想はライオンや鮫など強者との同一性assimilationを願うからである。決して先住民にだけ特有な思考ではない故に逆接とした。
本書に使われている用語をscience du concretとsciences moderenesにわけたパワーポイント図を下に掲載する。 続く
図の説明は次回に