本朝たはけ2000年 1
(2021年1月25日)親族の基本構造(レヴィストロース著1963年第二版刊)に古事記木梨軽皇子の悲恋物語が引用されている。原典に(岩波、古典文学体系)にあたり、レヴィストロースの指摘の妥当を探るに、出典を延喜式に漁りして、本文にてそれら課程で得た所感をまとめるに至った。(親族の基本構造は中休み、蕃神)
婚(たはけ)の由来を遡れば古事記に至る。
仲哀天皇の段、
后(神功皇后)が神がかりし「西方に金銀豊かな国がある、そちらを攻めるべし」の神託がくだされた。天皇は「西を見ても海があるだけ」従わなかった。武内宿禰の願いで琴を引き寄せ奏でるが、音が消えた。宿禰が灯りをともして見ると、天皇は「崩(カムアガリ)たまひぬ」。
殯宮に安置し、宿禰が「国のヌサ」を取り大祓を為(し)た。その祝詞が
「生き剥ぎ、逆剥ぎ、阿離(あはなち)、溝埋、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚の罪の類の種々(くさぐさ)まぎて」国の大祓えをした。(古事記祝詞、日本古典文学大系1、岩波229頁、引用は同書から)

神のお告げは西の国の征伐、神功皇后は天皇をせかすのだが、

のちに古事記が伝える「朝鮮征伐」である。広開土王の碑(高句麗、西暦399年の建立)碑文との関連が指摘されている。
国の大祓とは「国中の穢れを祓う」宮中の儀礼。この儀礼確立を古事記の成立(712年)前後とすると、8世紀前半である。一方、宿禰の祓えの舞台は仲哀天皇神功皇后の世、古事記がその頃の神儀を再現しているとすれば、同天皇統治の正確な暦年は不明だけれど、歴史資料から4世紀後半390年前後としたい。すると祝詞で伝える穢れ「婚たはけ」は今からそのころから神道祓えの古式拝礼に取り上げられていたと言える。
仲哀天皇を4世紀終盤とした理由は倭の朝鮮侵攻(西暦399年、広開土王の碑)に依る。これを神功皇后の三韓征伐と同定する。今の史学の主流もそのように傾いていると聞く。これを持って同天皇の統治におおよその見当はつく。
すでに古代には「婚たはけ」を罪(穢れ)と規定し、穢れを清める神主さん、その先祖形が祝詞を唱えヌサを振るって活躍していたと推察する。もちろん宿禰の祝詞や祓い儀礼の一切は、古事記成立当時の式次第であるとの反論はあるだろう。ここで本書「古事記祝詞、岩波日本古典文学大系」を注意深く読んで欲しい。描写される情景は「沙庭の灯りを全て消し天皇(大王)が琴を取り寄せ自ら奏で、神託を得る」。こうした手順は古事記のかなりの以前、太古のものとの頭注が読める。倭人伝の卑弥呼にも読める「鬼道につかえ衆を惑わす」、古には祭儀を鬼道(神道であろう)の長が司っていたと知れる。天皇自らの神託請け(闇の沙庭を前にして琴を奏でる)は太古の儀礼式であろう。
ならば祝詞も太古に求める。するとたはけは本朝1600年の長きにわたり嗜なまれ、ひたすら実践されていたのだ。祓わねば穢れが国土に蔓延する。宿禰が始めた祝詞の文脈、そこに警告される罪なるは、かっぱらいでもオレオレ詐欺でもなく生の乱脈、これがたはけ、それしかなかった。祝詞にその実態を取り上げた宿禰の英断にはそしりも非難もなく、皆にもただ納得がいくはず。
牛とか馬とか豚とかは無視して、人と人の「婚たはけ」に焦点を絞るろう。
その範疇は;
1 上下(おやこ)婚たはけ。子と母、娘と父。
2 水平(兄弟姉妹)婚たはけ。兄弟と姉妹。古事記に事例がある(後述)けれど、忌避されるは同腹の兄弟と姉妹。異腹兄弟姉妹の淫は大目にみられ、特段に干渉されず夫婦に結ばれた。
3 娘と母、ないし母と娘とのたはけ(頭注に母と子、子と母を犯す...)。これは己の姑と、あるいは義理娘との淫であろう。
(延喜式祝詞からとった。同式が古事記内容をより詳細に分解したとの判断、延喜式は補遺にて取りあげる)
ここで祝詞のたはけと親族の基本構造が論じている「近親婚禁止」と比較したい;
レヴィストロースの主張では「…禁止」は「同系統の男女の婚」に限定される。血縁が近くても別系統であれば婚は許される。上、祝詞での1(上下婚)と2(姉妹婚)は彼が伝えるとおりの同系統での禁止。
3はどうだろうか。彼はこうした規定(3)を文化の規則に入れるから、これも1,2の流れとしている。ボルネオ先住民の例では姑、義理姉妹との婚たはけは実の関係より厳しく禁止されていると報告を挙げている。
もう一つの彼の主張は「…禁止」は社会制度としてである。観念情緒、あるいは倫理からの禁止、これは禁忌となるが、そうした仕組みではない。すると彼の説「…禁止」の概念は、それを「穢れ」として宗教教義に組み込み、対処方式(祓い)を規定した。これも社会の制度である。
古代日本の神式にレヴィストロースの説がすっかり当てはまっている。そして古文書資料として残されていた。
本朝たはけ2000年 1 了
(2021年1月25日)親族の基本構造(レヴィストロース著1963年第二版刊)に古事記木梨軽皇子の悲恋物語が引用されている。原典に(岩波、古典文学体系)にあたり、レヴィストロースの指摘の妥当を探るに、出典を延喜式に漁りして、本文にてそれら課程で得た所感をまとめるに至った。(親族の基本構造は中休み、蕃神)
婚(たはけ)の由来を遡れば古事記に至る。
仲哀天皇の段、
后(神功皇后)が神がかりし「西方に金銀豊かな国がある、そちらを攻めるべし」の神託がくだされた。天皇は「西を見ても海があるだけ」従わなかった。武内宿禰の願いで琴を引き寄せ奏でるが、音が消えた。宿禰が灯りをともして見ると、天皇は「崩(カムアガリ)たまひぬ」。
殯宮に安置し、宿禰が「国のヌサ」を取り大祓を為(し)た。その祝詞が
「生き剥ぎ、逆剥ぎ、阿離(あはなち)、溝埋、屎戸(くそへ)、上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚の罪の類の種々(くさぐさ)まぎて」国の大祓えをした。(古事記祝詞、日本古典文学大系1、岩波229頁、引用は同書から)

神のお告げは西の国の征伐、神功皇后は天皇をせかすのだが、

のちに古事記が伝える「朝鮮征伐」である。広開土王の碑(高句麗、西暦399年の建立)碑文との関連が指摘されている。
国の大祓とは「国中の穢れを祓う」宮中の儀礼。この儀礼確立を古事記の成立(712年)前後とすると、8世紀前半である。一方、宿禰の祓えの舞台は仲哀天皇神功皇后の世、古事記がその頃の神儀を再現しているとすれば、同天皇統治の正確な暦年は不明だけれど、歴史資料から4世紀後半390年前後としたい。すると祝詞で伝える穢れ「婚たはけ」は今からそのころから神道祓えの古式拝礼に取り上げられていたと言える。
仲哀天皇を4世紀終盤とした理由は倭の朝鮮侵攻(西暦399年、広開土王の碑)に依る。これを神功皇后の三韓征伐と同定する。今の史学の主流もそのように傾いていると聞く。これを持って同天皇の統治におおよその見当はつく。
すでに古代には「婚たはけ」を罪(穢れ)と規定し、穢れを清める神主さん、その先祖形が祝詞を唱えヌサを振るって活躍していたと推察する。もちろん宿禰の祝詞や祓い儀礼の一切は、古事記成立当時の式次第であるとの反論はあるだろう。ここで本書「古事記祝詞、岩波日本古典文学大系」を注意深く読んで欲しい。描写される情景は「沙庭の灯りを全て消し天皇(大王)が琴を取り寄せ自ら奏で、神託を得る」。こうした手順は古事記のかなりの以前、太古のものとの頭注が読める。倭人伝の卑弥呼にも読める「鬼道につかえ衆を惑わす」、古には祭儀を鬼道(神道であろう)の長が司っていたと知れる。天皇自らの神託請け(闇の沙庭を前にして琴を奏でる)は太古の儀礼式であろう。
ならば祝詞も太古に求める。するとたはけは本朝1600年の長きにわたり嗜なまれ、ひたすら実践されていたのだ。祓わねば穢れが国土に蔓延する。宿禰が始めた祝詞の文脈、そこに警告される罪なるは、かっぱらいでもオレオレ詐欺でもなく生の乱脈、これがたはけ、それしかなかった。祝詞にその実態を取り上げた宿禰の英断にはそしりも非難もなく、皆にもただ納得がいくはず。
牛とか馬とか豚とかは無視して、人と人の「婚たはけ」に焦点を絞るろう。
その範疇は;
1 上下(おやこ)婚たはけ。子と母、娘と父。
2 水平(兄弟姉妹)婚たはけ。兄弟と姉妹。古事記に事例がある(後述)けれど、忌避されるは同腹の兄弟と姉妹。異腹兄弟姉妹の淫は大目にみられ、特段に干渉されず夫婦に結ばれた。
3 娘と母、ないし母と娘とのたはけ(頭注に母と子、子と母を犯す...)。これは己の姑と、あるいは義理娘との淫であろう。
(延喜式祝詞からとった。同式が古事記内容をより詳細に分解したとの判断、延喜式は補遺にて取りあげる)
ここで祝詞のたはけと親族の基本構造が論じている「近親婚禁止」と比較したい;
レヴィストロースの主張では「…禁止」は「同系統の男女の婚」に限定される。血縁が近くても別系統であれば婚は許される。上、祝詞での1(上下婚)と2(姉妹婚)は彼が伝えるとおりの同系統での禁止。
3はどうだろうか。彼はこうした規定(3)を文化の規則に入れるから、これも1,2の流れとしている。ボルネオ先住民の例では姑、義理姉妹との婚たはけは実の関係より厳しく禁止されていると報告を挙げている。
もう一つの彼の主張は「…禁止」は社会制度としてである。観念情緒、あるいは倫理からの禁止、これは禁忌となるが、そうした仕組みではない。すると彼の説「…禁止」の概念は、それを「穢れ」として宗教教義に組み込み、対処方式(祓い)を規定した。これも社会の制度である。
古代日本の神式にレヴィストロースの説がすっかり当てはまっている。そして古文書資料として残されていた。
本朝たはけ2000年 1 了