(2021年1月27日)本朝たはけ2000年 2
古事記に戻る、
崩御を確かめ宿禰は「国のヌサ」をとり殯宮に鎮座する神に向かい、息途絶えたスメラギ死骸を下に見てヌサを大振いして穢れを祓った。天皇に結集して死に至らしめた国の罪穢がヌサ祓いで清められた。これこそ「祓い」の原点、本朝の黎明期なれば神事始めの礼拝と、ヌサ祓いの儀式がかくと制定された。
国のヌサには規定があって「高天原の堅木を採って、高天原の苧麻をしごいて....延喜式」神主さんが祝詞で用いる今様ヌサの原型です。国の穢れとは、
上引用の「…上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚の罪の類の種々…」であり、それのみである(生き剥ぎ…は後述)。本朝この世(4世紀)には野に山に、罪穢を跋扈のままに許す汚れまくりの国土だったのだ。こんな名誉ではない結論に走ってしまう…。待て、(たはけまくり民族)なる結論は短絡にすぎるとの反論もあるだろう。

武内宿禰「キヨソーネ画、ネットから)天皇5代に仕え330歳を全うしたと伝わる

問題は近親お試しの頻度とか耽溺常習者の多寡ではない。わずかな例であろうと穢れを清めず、放たれるを許すと瘴気が野山を漂泊し、ひいては里に落に惨禍をもたらす。作上げ不順に苦しむ百姓らの恨みが山に籠もる…。清め祓いは為政者の勤めでもあった。いうなれば未然防御、太古の公衆衛生との解釈も無理ではない。
神道原点は「穢れと祓い」だから神の末裔、国の統帥たる天皇は、少数の不届きモノがまき散らす汚悪を封じ込めん、臣雑民には平安あれと日夜、気にかけている。その原点が宿禰祝詞にあるとの見方は自然である。
国祓えは大祓えと名称が変更され、6月と12月の晦日に行われることとなった(同書229頁)。古事記と変わることなく祝詞は「….上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、…罪の類の種々(くさぐさ)まぎて…」。これを神の前にこれを吟じ、明治維新まで(宮中行事として)継続した。
古事記たはけ、実例、
允恭天皇記(同じく日本古典文学大系古事記、岩波)から、
木梨軽皇子と衣通王(そとおり姫)の水平婚(あにいもたはけ)。顛末は罪、残すは穢であるが、人には「悲恋」として口に上る。レヴィストロースが日本古書からとして「親族の基本構造」に引用した。
木梨軽皇子、日継ぎ知らしめますに定まるを、未だ位に即(つ)きたまはざりし間に、その伊呂妹(いろも、同腹の妹、同書注から)軽大郎女、亦の名は衣通郎女(そとほしのいつらめ)に姧けて歌ひたまひく、
♪あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下といに 我がとふ妹を下泣きに 我が泣く妻を 昨夜(こぞ)こそは 安く肌触れ♪(同書293頁)
「山田を耕しその高みから(人目をはばからず)、埋め樋を通しその樋から(人目を忍び)我が訪ねる妹を、忍びに泣く妻を、昨夜やっと優しく抱いたのだ」
もう一首
♪笹葉に打つや霰の たしだしに 率(い)ねてむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるわし)と さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の乱れば乱れ さ寝しさ寝てば♪(同293頁)
「霰が笹の葉を打つ音のようにしっかりと、とも寝に明けた後ならば、離れたとても愛(うるわし)狂わし、乱れば乱れ、寝たし寝たのだ」(同)
(歌の解釈は頭注を参考にした、パソコン変換出来なかった漢字も多)
歌を詠むとは心を公にする社会行為である。
当時(5世紀前半Wikipedia)にも「歌会」の宮中社交は機能していたから(知らないけど)、諸臣百官の集まりで前引用2句、同腹の妹との交合を仄めかす、生々しい歌を軽皇子は朗々と詠じた。同腹、同じ系統filiationでの婚たはけ、これは武内宿禰が半世紀ほど前に祝詞に託し宣言した「近親婚の禁止」に触れる。
皇子は己身に穢れが籠もると堂々と告白したのだ。
日継ぎといえ人心は離れる。
百官及び天下の人々、軽皇子に背きて穴穂御子(第2子)に帰(よ)りき。爾(つい)に軽皇子かしこみて大前小前宿禰の大臣の家に逃げ入りて…(293頁)
皇子は武器を取り権力奪回を計るが、多勢に無勢、大前小前宿禰に裏切られて召し取られ、伊予の湯(道後温泉)に流される。
このたはけについてレヴィストロースは;
「同腹でも姉と弟であれば許された、多目に見られた(はず)。近親婚を実行していた世界各地の王族階級でも「姉と弟」は認められ、「兄と妹」は同腹異腹にかかわらず、禁止していた((古エジプト、ハワイ、オセアニアなど)。理由は年少の女子は男(父か兄)にとって「交換財の目玉」。それを手につけるは「女交換サイクル」を破壊する行為そのものである。
<les ancian textes japonais decrivent l’inceste comme une union avec la soeur cadette>(12頁)日本の古い書は「近親婚」を妹との婚姻と規定している(姉との婚姻なら許される)。
もう一つの指摘は、
「貴顕階層は幼少には母方の父の住まいで養育される(本朝でもその決まりがあった)。異腹であれば住まいは別、すると別の系統filtlationとの意識が当事者、さらに周囲にあった。別の系列filiationとなれば婚姻を結べる相手となるが、この規定が異腹兄弟姉妹にも適用された」
そうした実例は古代天皇家に限っても幾例かが拾い出される。用明天皇と穴穂部間人皇女(聖徳太子の父母)は異母兄妹であった。
(2021年1月27日)本朝たはけ2000年 2 了
古事記に戻る、
崩御を確かめ宿禰は「国のヌサ」をとり殯宮に鎮座する神に向かい、息途絶えたスメラギ死骸を下に見てヌサを大振いして穢れを祓った。天皇に結集して死に至らしめた国の罪穢がヌサ祓いで清められた。これこそ「祓い」の原点、本朝の黎明期なれば神事始めの礼拝と、ヌサ祓いの儀式がかくと制定された。
国のヌサには規定があって「高天原の堅木を採って、高天原の苧麻をしごいて....延喜式」神主さんが祝詞で用いる今様ヌサの原型です。国の穢れとは、
上引用の「…上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、牛婚、鶏婚の罪の類の種々…」であり、それのみである(生き剥ぎ…は後述)。本朝この世(4世紀)には野に山に、罪穢を跋扈のままに許す汚れまくりの国土だったのだ。こんな名誉ではない結論に走ってしまう…。待て、(たはけまくり民族)なる結論は短絡にすぎるとの反論もあるだろう。

武内宿禰「キヨソーネ画、ネットから)天皇5代に仕え330歳を全うしたと伝わる

問題は近親お試しの頻度とか耽溺常習者の多寡ではない。わずかな例であろうと穢れを清めず、放たれるを許すと瘴気が野山を漂泊し、ひいては里に落に惨禍をもたらす。作上げ不順に苦しむ百姓らの恨みが山に籠もる…。清め祓いは為政者の勤めでもあった。いうなれば未然防御、太古の公衆衛生との解釈も無理ではない。
神道原点は「穢れと祓い」だから神の末裔、国の統帥たる天皇は、少数の不届きモノがまき散らす汚悪を封じ込めん、臣雑民には平安あれと日夜、気にかけている。その原点が宿禰祝詞にあるとの見方は自然である。
国祓えは大祓えと名称が変更され、6月と12月の晦日に行われることとなった(同書229頁)。古事記と変わることなく祝詞は「….上通下通婚(おやたはけ、こたはけ)、馬婚、…罪の類の種々(くさぐさ)まぎて…」。これを神の前にこれを吟じ、明治維新まで(宮中行事として)継続した。
古事記たはけ、実例、
允恭天皇記(同じく日本古典文学大系古事記、岩波)から、
木梨軽皇子と衣通王(そとおり姫)の水平婚(あにいもたはけ)。顛末は罪、残すは穢であるが、人には「悲恋」として口に上る。レヴィストロースが日本古書からとして「親族の基本構造」に引用した。
木梨軽皇子、日継ぎ知らしめますに定まるを、未だ位に即(つ)きたまはざりし間に、その伊呂妹(いろも、同腹の妹、同書注から)軽大郎女、亦の名は衣通郎女(そとほしのいつらめ)に姧けて歌ひたまひく、
♪あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下といに 我がとふ妹を下泣きに 我が泣く妻を 昨夜(こぞ)こそは 安く肌触れ♪(同書293頁)
「山田を耕しその高みから(人目をはばからず)、埋め樋を通しその樋から(人目を忍び)我が訪ねる妹を、忍びに泣く妻を、昨夜やっと優しく抱いたのだ」
もう一首
♪笹葉に打つや霰の たしだしに 率(い)ねてむ後は 人は離(か)ゆとも 愛(うるわし)と さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の乱れば乱れ さ寝しさ寝てば♪(同293頁)
「霰が笹の葉を打つ音のようにしっかりと、とも寝に明けた後ならば、離れたとても愛(うるわし)狂わし、乱れば乱れ、寝たし寝たのだ」(同)
(歌の解釈は頭注を参考にした、パソコン変換出来なかった漢字も多)
歌を詠むとは心を公にする社会行為である。
当時(5世紀前半Wikipedia)にも「歌会」の宮中社交は機能していたから(知らないけど)、諸臣百官の集まりで前引用2句、同腹の妹との交合を仄めかす、生々しい歌を軽皇子は朗々と詠じた。同腹、同じ系統filiationでの婚たはけ、これは武内宿禰が半世紀ほど前に祝詞に託し宣言した「近親婚の禁止」に触れる。
皇子は己身に穢れが籠もると堂々と告白したのだ。
日継ぎといえ人心は離れる。
百官及び天下の人々、軽皇子に背きて穴穂御子(第2子)に帰(よ)りき。爾(つい)に軽皇子かしこみて大前小前宿禰の大臣の家に逃げ入りて…(293頁)
皇子は武器を取り権力奪回を計るが、多勢に無勢、大前小前宿禰に裏切られて召し取られ、伊予の湯(道後温泉)に流される。
このたはけについてレヴィストロースは;
「同腹でも姉と弟であれば許された、多目に見られた(はず)。近親婚を実行していた世界各地の王族階級でも「姉と弟」は認められ、「兄と妹」は同腹異腹にかかわらず、禁止していた((古エジプト、ハワイ、オセアニアなど)。理由は年少の女子は男(父か兄)にとって「交換財の目玉」。それを手につけるは「女交換サイクル」を破壊する行為そのものである。
<les ancian textes japonais decrivent l’inceste comme une union avec la soeur cadette>(12頁)日本の古い書は「近親婚」を妹との婚姻と規定している(姉との婚姻なら許される)。
もう一つの指摘は、
「貴顕階層は幼少には母方の父の住まいで養育される(本朝でもその決まりがあった)。異腹であれば住まいは別、すると別の系統filtlationとの意識が当事者、さらに周囲にあった。別の系列filiationとなれば婚姻を結べる相手となるが、この規定が異腹兄弟姉妹にも適用された」
そうした実例は古代天皇家に限っても幾例かが拾い出される。用明天皇と穴穂部間人皇女(聖徳太子の父母)は異母兄妹であった。
(2021年1月27日)本朝たはけ2000年 2 了