蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

Cogitoの自由 下

2023年09月06日 | 小説
哲学者ともなると書き回しにそれぞれ癖が感じられる。その癖は「修辞」そのもので、デカルトの修辞は論理を段階的に積み上げない、あえてバラしているーと感じいる。
上の例文を部族民流に段階整理すると ;
1 自由とは無関心を持って旨とする。しかし無関心の自由とは神だけが実践できる。なぜなら神は全知全能、判断選択の場に臨んで、その事象の選択結末に無関心でいても、最善の選択をする(最善は宇宙にとっての最善で、人に最良などは問えない)
2 人の選択判断も無関心でなければ自由とは言えない。ここで問題が、人は予め神から「判断して選択する能力」を与えられている(デカルトの第2の、前向きの自由能)、無関心で判断すると人は神の全知全能を備えないから、必ず誤る(これが最下位の自由)。
3 もし私、デカルトがすべての良きことを知った上で無関心の自由を行使したら、必ずや良き選択を取ることになる。しかしそれは無理だ。
4 故に考えて神に近づくしかない(Cogitoの自由)
訳を探すに諭吉はlibertéなる語にまといつく、デカルトの教え「無関心」を知っていただろうか。知っていたはずだ。それ故に訳語の選択に悩んだ。デカルトの自由が本邦で遣われる「自由」とは正反の意に当たるもと諭吉は「知っていた」、と部族民蕃神は信じる。明治期知識人は令和SNS者など足元にも及ばないハイパー博聞強記である。デカルトもカントも自在に通読していたはずだ。
証左となる一文をここに;
<福沢の西洋事情にはlibertyを日本語訳することの困難さを述べており、自主・自尊・自得・自若・自主宰・任意・寛容・従容などといった漢訳はあるが、(いずれも)原語の意義を尽くさないとする>(Wikipediaから引用)。


Ruwen Ogien (1947~2017パリ)哲学者。1968の学生運動と後の社会変化の申し子。個人の位置を対社会・制度では最小限に捉え、周囲との関係を最大に捉える。個人は何事も許される、他者(周囲)への迷惑をかけない限り。大麻、同性愛、同性婚ーなんでもOK。だって周囲に迷惑をかけないから。普遍性を否定し個別性を褒め称える、これが68年騒動の結末です。デカルトの自由が社会にもてはやされていたのは、せいぜいジッドまで(狭き門のアリサ)。今の世フランスで「無関心が自由」なんて云う御仁は一人もいません。


レヴィストロースは「悲しき熱帯」で、西洋東洋の思想の交流においては根本において欠落があるとしている。意味論の絡繰りから欠落を説明している。
« le malentendu entre l’Occident et l’Orient est d’abord sémantique » (Tristes Tropiques、悲しき熱帯169頁)西洋と東洋の誤解はまず意味論においてである。
« ce sont les formes d’existence qui donnent un sens aux idéologies qui les expriment : ces signes ne constituent un langage qu’en présence des objets auxquels ils se rapportent »(同)現実の形体が思想に一種の方向性を与えた。すると思想はその形体を表象として表出する。この相互関係は思想が表象する主体が、客体として存在する形と結びついた時にのみ、言語となりうる。
説明;思想(idéologie)に形体が対峙することをもって意味関係が成り立つ。
言葉が形成されるとは思想と形体が結びつくからで、片一方しか存在しなければ、意味論の構造が崩れる。意味をなさない。
Libertéに対応する実体、自己の利得と離れて何事かを選択する心構えと実行、この「自由」を日本人は当時も、今も持ち合わせていない。諭吉が「自由とは無関心の自由」と叫んでも、その自由を日本人はイメージできない(実体が無いから理解できない)。自由とは己の利得に沿う選択を実行できる状態―これが日本人の自由である。
例えばK老人(部族民通信参加者)が「カツ丼」を食いたい、食いたいモノを食らうが自由だと主張し、昼飯にかつ屋に入って大盛りを注文した。食い終わって満足した彼は、同時に自由も満喫した。しかし彼は自由だったろうか、彼は食欲の下僕、脂の乗った豚肉の食感を楽しみたいグルメの奴隷でしかなかった。
美食を堪能したい自我、これが「自らの由しとする」自由なので、K老人は、日本人だから、自由とは昼飯カツ丼と信じ切っている。もし彼が一旦、カツ丼拘泥を振り払い、天丼でも親子丼、たこ焼きだって構わぬ「無関心」の心境にたどり着いて、なんとなく、なにかをぱくつく。この姿勢が重要だ。
(上司)「キミ、昼飯に何を選ぶのかい」(ボク)「カツ丼とか吉野家とかの選択は特に持ち合わせません。何でもいいし、何でもよくない。無関心なのです」「勝手にしろ、一人でどっかで食ってこい」。
仲間に入れてもらえません。
Cogitoの自由 了 (2023年9月5日)
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