(2024年9月6日)« Au savoir, le but est fixé aussi nécessairement que la série de la progression. Il est là où le savoir n'a pas besoin d'aller au-delà de soi-même, où il se trouve soi-même et où le concept correspond à l'objet, l'objet au concept » (71頁)
知(savoir、知ること)を語ろう。その目的は確立している、知の進展のつながり様が決まっていると同様である。知は己の範囲を超える必要は無い。己の範囲で概念が対象に、対象が概念に合致する。
続く文は; « La progression vers ce but est donc aussi sans halte possible et ne se satisfait d'aucune station antérieure » この目的に休みなく突き進む進展には、前の段階の(検査結果に)いかなる満足も感じない。
部族民:前引用で悟性と対象objetが対峙(ヘーゲルはこの瞬間をmoment節目とする=後述)する弁証法の段取りを記した。知が外部の対象を認識に持ち込む、知るとは対象を概念化する思考で(対象の本来はモノ、実在)、対象は実体から離れてしまう。知において対象とその概念は常に合致する(そのように活動するから)。よって知は自身を超える(au-delà)冒険は必要がない。しかるに前段階に満足することのない発展を試みるーとしている。知の発展とつながり、目的には具体的な言及はない。
« la conscience est pour soi-même son propre concept, elle est donc immédiatement l 'acte
d 'outrepasser le limité, et quand ce limité lui appartient, l 'acte de s'outrepasser soi-même*. Avec l 'existence singulière, l'au-delà est en même temps posé dans la conscience, serait-ce encore seulement comme dans l 'intuition spatiale, à côté du limité. La conscience subit donc cette violence venant d'elle-même » (同)
悟性は、自身に向いている(pour soi-même)に加え、その本来は概念そのものである(知は概念ではない、概念を創生する思考)。故に限界を知り、それを越える試みに入る。これは自身を越える行為(概念を変えるのだから)となる。この個別の存在(悟性)には、外部が設定されている。それは空間的直感だろう、己の限界の脇にそれがあると知る悟性は、自身の内からの衝撃を受ける。
Hyppolite : *Le vivant singulier n 'est pas le « genre » pour soi, ce qu'est au contraire la conscience. 生ける個体は己を認識の対象としていない。この点が悟性(概念を持ち自覚しそれを乗り越える)との差異である。(Hyppoliteのこの脚注の理解できない。皆様からの批判を乞う。部族民)
部族民:この文はヒト精神に、弁証法が如何にして湧き上がり、突き進むかを、悟性の性状から説明している。前回、節目ごとに「形を変える」悟性の紹介があった。その仕組を「悟性は己を知る、故に己の限界を知り、そこを超える」と説明する。限界を知り限界を超えるとはー(前文の)形を変えることの言い換えです。悟性は己の概念を変えるーここで注目するのは、概念を変えるのは悟性のみ。知が持ち込んだモノの概念は変わらない。その仕組について、知は己の外au-delàに向かわないと、前段で言っている。
弁証法とは作用反作用の繰り返しだが、作用も反作用も悟性の一人芝居であると理解できる。
以上を分かりやすく説明:オレ悟性は美の絶対を追求している。手下の知に沢口やす子嬢のブロマイドをもってこいと命じた。「ヨウガス、ホイこれ~!」で差し出された写真を見つめる。何かが合わない。そこで自分の限界を超して(妥協して、変化して)「団子鼻でも我慢するか」もう一度「別の写真を出してくれ」「ほいきた、こっちだ」それでも合わない。なんか痩せぎす、貧相だね。やす子嬢はこれほどにも劣化かと、泣きながら写真をひっくり返すと沢口ヤセ子だった。
悟性がいくら頑張っても低脳なる知とコンビ(entendement考える力)を組んだら、精神現象の野で弁証法が廻せない。
用語の整理。L’en-soiとpour-soi(ヘーゲル的)意味を定める:l'en-soiは即自が定訳。ここでは「律自」と訳す。自己を律し他者との関心を持たない自己、知がこれに当たる。前引用でのau-delàはl’en-soi律自を囲む外側の律界、知は外側律とは相互作用を起こさない。Pour-soiは自身を覚知している存在、覚自と訳す(定訳は対自)。自身を知るとは他者を知ると同意義。故に自他の境界を知る、自己の領域がlimité境界、その内に収納する基準はmesure。悟性の基準と対象の概念が合わないから、己の境界を乗り越えようと悟性が試みる。前述ではこれを « la conscience naturelle qui subit une impulsion » (69頁) (まだ弁証法に進んでいない自然野)悟性は衝撃を受けるー弁証法の発動を説明している。

スライドは再掲。要素の性状と現象、弁証法の仕組み、それだけを本書は語る。

上引用は知と悟性の性状を述べている。
下引用は弁証法の仕組み、特にありがちな陥穽を記す。
« La crainte de la vérité peut bien se dissimuler à soi-même et aux autres derrière l 'apparence
d'être toujours plus avisée que ne le sont les pensées venant de soi-même et des autres, comme si le zèle ardent pour la vérité même lui rendait difficile et même impossible de trouver une autre vérité sinon uniquement celle de la vanité. Cette vanité s'entend à rendre vaine toute vérité pour retourner ensuite en soi-même ; elle se repaît de son propre entendement qui dissolvant toutes les pensées au lieu de trouver un contenu, ne sait que retrouver le moi dans son aridité. Mais cette vanité est une satisfaction qui doit être abandonnée à elle-même ; car elle fuit l'universel et cherche seulement l 'être-poursoi »
真実を掴んだとの陥穽はそれ自身の裏、そして他の陥穽の裏、常に検知している相貌の影に、沈潜してしまう。ありったけの思考、それだって陥穽に影響を受けているのだから。真実への熱望自体が真実を遠ざけ、別の真実に近づいてしまう空虚という現実。空虚が真実を台無しにし、空回りする。空虚はそもそも持ち合わせる「考える力entendement」を貪り、思考を溶解させ、「私」を不毛に貶める。空虚は一種の満足をもたらすが、それ自身に封じ込めなければならない。なぜなら空虚は普遍を避け、自分自身のみを探しているから。
部族民:crainte 陥穽は2度目の登場、最初si la crainte de tomber dans l’erreur…は第2回投稿。ありったけの思考(理性、認識、悟性、知)で概念を見比べても、真理に到達しない。その様を語っているが、沢口やす子嬢の例で説明する。オレ知性は危うく団子鼻のやせ子だって美と勘違いするとこだった。もし見直しにまずったら、そのままやせ子絶対美なんて結論してしまう陥穽に嵌まった。空虚に身を浸ってはならぬとヘーゲル先生が諌めている。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 6 了 (9月6日)
知(savoir、知ること)を語ろう。その目的は確立している、知の進展のつながり様が決まっていると同様である。知は己の範囲を超える必要は無い。己の範囲で概念が対象に、対象が概念に合致する。
続く文は; « La progression vers ce but est donc aussi sans halte possible et ne se satisfait d'aucune station antérieure » この目的に休みなく突き進む進展には、前の段階の(検査結果に)いかなる満足も感じない。
部族民:前引用で悟性と対象objetが対峙(ヘーゲルはこの瞬間をmoment節目とする=後述)する弁証法の段取りを記した。知が外部の対象を認識に持ち込む、知るとは対象を概念化する思考で(対象の本来はモノ、実在)、対象は実体から離れてしまう。知において対象とその概念は常に合致する(そのように活動するから)。よって知は自身を超える(au-delà)冒険は必要がない。しかるに前段階に満足することのない発展を試みるーとしている。知の発展とつながり、目的には具体的な言及はない。
« la conscience est pour soi-même son propre concept, elle est donc immédiatement l 'acte
d 'outrepasser le limité, et quand ce limité lui appartient, l 'acte de s'outrepasser soi-même*. Avec l 'existence singulière, l'au-delà est en même temps posé dans la conscience, serait-ce encore seulement comme dans l 'intuition spatiale, à côté du limité. La conscience subit donc cette violence venant d'elle-même » (同)
悟性は、自身に向いている(pour soi-même)に加え、その本来は概念そのものである(知は概念ではない、概念を創生する思考)。故に限界を知り、それを越える試みに入る。これは自身を越える行為(概念を変えるのだから)となる。この個別の存在(悟性)には、外部が設定されている。それは空間的直感だろう、己の限界の脇にそれがあると知る悟性は、自身の内からの衝撃を受ける。
Hyppolite : *Le vivant singulier n 'est pas le « genre » pour soi, ce qu'est au contraire la conscience. 生ける個体は己を認識の対象としていない。この点が悟性(概念を持ち自覚しそれを乗り越える)との差異である。(Hyppoliteのこの脚注の理解できない。皆様からの批判を乞う。部族民)
部族民:この文はヒト精神に、弁証法が如何にして湧き上がり、突き進むかを、悟性の性状から説明している。前回、節目ごとに「形を変える」悟性の紹介があった。その仕組を「悟性は己を知る、故に己の限界を知り、そこを超える」と説明する。限界を知り限界を超えるとはー(前文の)形を変えることの言い換えです。悟性は己の概念を変えるーここで注目するのは、概念を変えるのは悟性のみ。知が持ち込んだモノの概念は変わらない。その仕組について、知は己の外au-delàに向かわないと、前段で言っている。
弁証法とは作用反作用の繰り返しだが、作用も反作用も悟性の一人芝居であると理解できる。
以上を分かりやすく説明:オレ悟性は美の絶対を追求している。手下の知に沢口やす子嬢のブロマイドをもってこいと命じた。「ヨウガス、ホイこれ~!」で差し出された写真を見つめる。何かが合わない。そこで自分の限界を超して(妥協して、変化して)「団子鼻でも我慢するか」もう一度「別の写真を出してくれ」「ほいきた、こっちだ」それでも合わない。なんか痩せぎす、貧相だね。やす子嬢はこれほどにも劣化かと、泣きながら写真をひっくり返すと沢口ヤセ子だった。
悟性がいくら頑張っても低脳なる知とコンビ(entendement考える力)を組んだら、精神現象の野で弁証法が廻せない。
用語の整理。L’en-soiとpour-soi(ヘーゲル的)意味を定める:l'en-soiは即自が定訳。ここでは「律自」と訳す。自己を律し他者との関心を持たない自己、知がこれに当たる。前引用でのau-delàはl’en-soi律自を囲む外側の律界、知は外側律とは相互作用を起こさない。Pour-soiは自身を覚知している存在、覚自と訳す(定訳は対自)。自身を知るとは他者を知ると同意義。故に自他の境界を知る、自己の領域がlimité境界、その内に収納する基準はmesure。悟性の基準と対象の概念が合わないから、己の境界を乗り越えようと悟性が試みる。前述ではこれを « la conscience naturelle qui subit une impulsion » (69頁) (まだ弁証法に進んでいない自然野)悟性は衝撃を受けるー弁証法の発動を説明している。

スライドは再掲。要素の性状と現象、弁証法の仕組み、それだけを本書は語る。

上引用は知と悟性の性状を述べている。
下引用は弁証法の仕組み、特にありがちな陥穽を記す。
« La crainte de la vérité peut bien se dissimuler à soi-même et aux autres derrière l 'apparence
d'être toujours plus avisée que ne le sont les pensées venant de soi-même et des autres, comme si le zèle ardent pour la vérité même lui rendait difficile et même impossible de trouver une autre vérité sinon uniquement celle de la vanité. Cette vanité s'entend à rendre vaine toute vérité pour retourner ensuite en soi-même ; elle se repaît de son propre entendement qui dissolvant toutes les pensées au lieu de trouver un contenu, ne sait que retrouver le moi dans son aridité. Mais cette vanité est une satisfaction qui doit être abandonnée à elle-même ; car elle fuit l'universel et cherche seulement l 'être-poursoi »
真実を掴んだとの陥穽はそれ自身の裏、そして他の陥穽の裏、常に検知している相貌の影に、沈潜してしまう。ありったけの思考、それだって陥穽に影響を受けているのだから。真実への熱望自体が真実を遠ざけ、別の真実に近づいてしまう空虚という現実。空虚が真実を台無しにし、空回りする。空虚はそもそも持ち合わせる「考える力entendement」を貪り、思考を溶解させ、「私」を不毛に貶める。空虚は一種の満足をもたらすが、それ自身に封じ込めなければならない。なぜなら空虚は普遍を避け、自分自身のみを探しているから。
部族民:crainte 陥穽は2度目の登場、最初si la crainte de tomber dans l’erreur…は第2回投稿。ありったけの思考(理性、認識、悟性、知)で概念を見比べても、真理に到達しない。その様を語っているが、沢口やす子嬢の例で説明する。オレ知性は危うく団子鼻のやせ子だって美と勘違いするとこだった。もし見直しにまずったら、そのままやせ子絶対美なんて結論してしまう陥穽に嵌まった。空虚に身を浸ってはならぬとヘーゲル先生が諌めている。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 6 了 (9月6日)