蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 8

2024年09月11日 | 小説
(2024 年9月11日) « il semble alors que nous recherchons ce qu'il est en soi. Mais, dans cette recherche, le savoir est notre objet, il est pour nous ; et l 'en-soi du savoir, comme il en résulterait, serait ainsi plutôt son être pour-nous ; ce que nous affirmerions comme son essence, ce ne serait pas sa vérité, mais seulement notre savoir de lui. L 'essence ou la mesure tomberaient en nous, et ce qui devrait être comparé à la mesure, ce sur quoi une décision devrait être prise à la suite de cette comparaison, ne serait pas nécessairement tenu de reconnaître la mesure* » (73頁)
(Savoir知を論じる)知は律自で、その中身を探る試みに我々(理性と解釈する、部族民)が取り組むことになる。この流れで知は我々(理性とする、以下)の対象に変化する。律自である知は、その仕組みから、中身を理性に向けると言えよう。それを実質かと断定しようにも、知の真実ではないとしか言えない。理性が覚知できる単なる知である。理性は、知の実質もその基準も手の内に収める事ができ、それを理念(理性の基準)と対照できる。対照の後には何らかの決定に向かうが、それが理念を再認知するためでもない。
Hyppolite : il y a un en-soi du savoir phénoménal qui est sa vérité, mais cette vérité n 'est pas pour ce savoir et il n'est pas tenu alors de la reconnaître. C’est pourquoi le savoir phénoménal doit s’éprouver lui-même sans que nous intervenions. Nous devons être le spectateur de sa propre expérience. 現象の知に律自が宿り、それが知の真実である(かに見える)。しかしこの真実は、その知(現象知)をして、自らの真実を確認するための用意を与えるものではない。現象知は理性の介入なしに、自らを律する要に迫られる。知本来の経験(弁証法での段階成就)の振る舞いを、理性は確認する事となる。
部族民:知が律自であるとは、知は他者に視界を回さない。知は概念であり、その中身を理性に向ける。あるいは影が現象の野に映る。その影にしても知そのものではない、知の概念です。
« Mais la nature de l 'objet que nous examinons outrepasse cette séparation ou cette apparence de séparation et de présupposition. La conscience donne sa propre mesure en elle-même, et la recherche sera, de ce fait, une comparaison de la conscience avec elle-même ; car la distinction faite plus haut tombe en elle. Il y a en elle un pour un autre, où elle a en général la déterminabilité du moment du savoir en elle. En même temps, cet autre ne lui n’est pas seulement pour elle, mais il est aussi à l 'extérieur de ce rapport ou en soi, le moment de la vérité » (73頁)
しかし性質上、対象はこの分断状況(前文、現象の知と真実の知の差)、あるいは分断されている様相、前提としてのこの分断を、すり抜ける(現象の野に躍り出る)。悟性は己が本来として抱く基準を、この分断の相に投影する。この調査は、こうした状況のもと、悟性自身と分断との比較となる。なぜなら、より高い地点(理性)での分別(知の真実と現象)が悟性に渡されているから。悟性の内には他者に向いている一この能が潜む。その作用で知の節目を決めつけ、その機会での決定力(作用反作用の取り組み)を自己の内で取りまとめる。同時に、一の能(前述)は知を指ししめて、悟性のためのみではない。この関係(悟性と知、その外の律自)の存在にも向けられている、そこに真実の節目を垣間見る。
(オレ部族民、上の引用の文意含蓄の深淵に打たれる、この一文が本書の珠玉、天才ヘーゲルの天啓と感じる。代名詞の性と冠詞の定、不定を注意深く読み取って上訳に漕ぎ着いた)
部族民:悟性(考える力entendement)内の「un pour un autre、他者に向かう一つの能力」を覚自性と理解する。悟性は目を自己の外に向ける。そして節目機会の決定を司る。真理の相貌を知が捉え、悟性が真理に到達するには、知と対象の関係がすでに分断している、知と悟性の関係の脇に真実が隠れる、これに気付いた瞬間となる(オレ知、ヤベー、オレの持つこの概念は真実でない、外側に見えたあの知が真実なのだと気づく刹那)。ただし真理の節目moment de la véritéの意味合いは、それが弁証法として経緯する知と悟性のやり取りの外側の律自なので、知も悟性も「真理には到達しない」を知る節目でもある。ヤベーと知っても知は無力。
悟性のun pour un autre他者に向ける視線とは。沢口やす子嬢にお出ましを願う。手下の知が幾度かしくじってやせ子とかおで子なんかの写真を持ち込んだ。オレ本来の概念と合わせて(検査)不調だった。その度におで子なんかを跳ね除けた(déterminabilité)。これが可能なのはオレにun pour un autreが備わるから。こうした節目を経験しても真実には決して至らない、真実はこの作業(弁証法)の外à côté脇に座っているとは、今のオレは知らない。
« Nommons-nous le savoir le concept, nommons-nous, d 'autre part, l'essence ou le vrai l'étant ou l'objet, l'examen consiste alors à voir si le concept correspond à l’objet ; si, au contraire, nous nommons l'essence ou l'en-soi de l'objet le concept, et si nous entendons par contre par
l'objet lui comme objet, c'est-à-dire comme il est pour un autre, l 'examen consiste alors à voir si l'objet correspond à son concept » (74頁)
知を概念と呼ぼう。実質あるいは真理を、存在ないし対象と呼ぼう。よって(弁証法の)検査は概念が対象と合致するかを見るのだ。この反対で、実質あるいは対象の律自性を、概念と呼ぶ、すると対象を通して概念が対象と合致となるかを判断する。これが意味するところとは、対象は別のなにかに向けられる、検査は対象が概念と合致するかとなる。


部族民:概念が先か、モノが先か。


上文は「概念concept」の定義についての省察。弁証法ではモノ、実体は検査に組み入れない。概念を取りざたする。前半部では知が概念を形成する、それに対抗する実質を対象、存在とする。知が形成した概念を(そこに見える現象としての)対象に当てはめる。これはカント的で分かりやすい。これまでの解説もこの思想を元としている。しかしヘーゲルは逆も提示する。実質を概念とする。これは対象モノにはすでに概念が含まれると解釈する。知の作業とは対象が抱える概念を引き出して、その対象に合うのかーの検証となる。このままでは分かりにくい。そこで対象を存在、概念を思想と言い換えよう。存在は思想を宿す、その思想を経験するのが知である。後世の実存主義の主張となる。
この実存のくだりを申したくこの段を採り上げた。サルトルもこの一節を読み下したのではないかと想像する(本書は1939年、サルトル初の著は1946年)。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 8 了 (9月11日)
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