(2020年6月22日)
野生の思考La pensee sauvageを取り上げる。本日は前準備、前文として:
神話学第4巻「裸の男」の最終章(フィナーレ)にてレヴィストロースは自身の著述歴を親族の基本構造(第一刷1947年)、悲しき熱帯(1956年)、野生の思考(1961年)と神話学4巻(初巻1962年、最終巻の脱稿は1970年9月)の4作としている。23年間の思索活動はすべてこれらに反映されていると伝えたかったのだろう。4作以外にも作品は数えられるが、それらは活動それぞれの一断面であると自ら規定している訳であり、読む側からしても同様の判断を感じとれる。
全て著作の内容をたどればいずれも4作に行き着く、そして4作の内容も一つの思考に収斂する。そう伝えているかも知れない。
4作に絞りそこに認められる共通性、すなわち彼が追求した思想とは何か。この追求にあたり4作それぞれの主題をここに記すと;
親族の基本構造では「未開」と呼ばれる先住民達がいかにして高度な社会組織を形成したかに尽きる。(本ブログではPiaget批判の項のみを投稿)
次作の悲しき熱帯で南米先住民の社会と精神の有様を明らかにしている。
3作目、野生の思考で人はどの様に外界を理解し、どの様に表現するかを解いている。すなわち人の理性を語っている。
神話4部作は人と自然の関係、文化の発生と維持、人間社会の常なる危機を先住民の語り口を通して説明している。4作に共通する主題とは自然と文化の抗争、混乱から秩序へのはい上がり、突き詰めると人間社会形成への自然と人の葛藤の様となる。そして人間側の動機の根底に知性をおく。
三作目、野生の思考を特に取り上げる理由は、知性が自然に対抗し、それを解析しそこから離脱する原動力であるとしているのならば、この作こそレヴィストロースの思索活動の基点であったと言えるからである。
若干ながら個人事情を、
小筆は直近の投稿において裸の男フィナーレを取り上げている(2020年3月9日から6月10日まで、およそ20回)。最終章の最終の行が>c’est-à-dire rien、that means nothing<言ってみればそれは無。虚無感が響くこの句を挙げて神話学紹介の最終とした。その後(6月半ば以降)に野生の思考を再読した。初めてこれを手にしたのは3年ほどの前である。つまみ読み後の印象は「理解できなかった」。理由として民族誌調の記述が多く、アフリカ何々族、大洋の孤族何々などと紹介されてもなじみが無かったからと勝手に思った。しかし振り返り彼が用いる語、一つ一つの「真」の意味に理解に追いつかなかったからだと考えを改めた。3年をかけて神話学を読み込み、幾分かはレヴィストロースの思考に近づいた筈だから、今はそれなりに、わずかばかりだけれど読めるのかもしれない。
あわせてサイバー空間にて先達各氏の論評、書評なども探した。しかしまともに紹介している文叢は見つけられなかった。断片的、聞きかじり読み盗み程度の書評しか探せなかった(bricolageなる語への執着はその一例)。私なりの理解をブログ(続いてホームサイト)にて紹介し、訪問者様各位の批判を受けるとした理由でもある。
取り上げるのは第1章「具体科学」 第2章「トーテム的分類の論理」であります。全巻9章となりますが、これだけに限定した理由は1,2章が人の思索の様態、進展の分析としての一貫性が読めるためです。以降はその分析の応用編、民族誌記述はより頻繁に交じるから、人類学指向の方向け。さらに全章の紹介に立ち入ったら、小筆の能力の貧弱様を超えてしまう。始まっても終わらない悲惨に踏みいるはたやすく予想できる。なお最終章の「歴史と弁証法」は過去「サルトル批判」としてブログ、ホームサイトに投稿している(2019年5月30日投稿、ホームサイトWWW.tribesman.asiaにアクセスしてホームページから2019年頁に飛ぶ)、時間に余裕のある方は訪問してください。
LaPenseeSauvage、ポケット版、表紙図柄の三色スミレはパンジー、仏語でpenseeとなる。野生種のスミレと意味を掛け合わせている。
人が外界を理解する様、それは何か。
外界とは自然、森羅万象、宇宙である。人が生まれたときに宇宙は存在していた。死ぬ時にも宇宙はそこにあるだろう(レヴィストロースの名言、「宇宙が生まれたときに人はいなかった、終わるときに彼は存在しない」の逆もじり、お粗末を許せ)。サルトルを借りると「人は宇宙を思考する運命に呪われている」。
思考とは言葉であり、言葉とは外界理解の出発である。
レヴィストロースは思考と言葉の相関をソシュール言語学にヒントを得たとされる。小筆は幾度かブログ(およびホームサイト)において、ソシュールの意味論と構造主義の関連を「イヌ」の例を挙げて語っている。「野生の思考」を正しく読むにこの理解は必須なので、改めて述べる。
人がイヌを見てイヌと指さす。実体のイヌはsignifie(意味される)、言葉のイヌがsifnifiant(意味する)。言葉を通じて意味する意味される、この相互の関連を「signe意味」とソシュール言語学が教える。言語学としては誠に正しい。
バルザックの一文を冒頭にかかげる。訳を試みる;人には野蛮人しかいない。農民、それに田舎の人々は己に関する何事も学ぼうとする。彼らが思考を通じて事実に気付くのなら、あなた方よ物事を全体として見つめられたと言ってやろう。
レヴィストロースは哲学者にしてかつ人類学者なのでより深い部分から考え直した。イヌを見て人はイヌと言う、なぜそんな芸当が可能なのか。
人がイヌの思想を頭に持つ。概ね四つ足、しっぽ、鼻面のワンワン吠えがイヌの思想である。その思想に限りなく接近した個体が前を過ぎる。人は思想と実体を比較し「あの個体はイヌ思想に組み込める」さらには「ネコでもブタでもない」決めつけてイヌと叫んだ。構造主義としての意味論です。
続く
野生の思考La pensee sauvageを取り上げる。本日は前準備、前文として:
神話学第4巻「裸の男」の最終章(フィナーレ)にてレヴィストロースは自身の著述歴を親族の基本構造(第一刷1947年)、悲しき熱帯(1956年)、野生の思考(1961年)と神話学4巻(初巻1962年、最終巻の脱稿は1970年9月)の4作としている。23年間の思索活動はすべてこれらに反映されていると伝えたかったのだろう。4作以外にも作品は数えられるが、それらは活動それぞれの一断面であると自ら規定している訳であり、読む側からしても同様の判断を感じとれる。
全て著作の内容をたどればいずれも4作に行き着く、そして4作の内容も一つの思考に収斂する。そう伝えているかも知れない。
4作に絞りそこに認められる共通性、すなわち彼が追求した思想とは何か。この追求にあたり4作それぞれの主題をここに記すと;
親族の基本構造では「未開」と呼ばれる先住民達がいかにして高度な社会組織を形成したかに尽きる。(本ブログではPiaget批判の項のみを投稿)
次作の悲しき熱帯で南米先住民の社会と精神の有様を明らかにしている。
3作目、野生の思考で人はどの様に外界を理解し、どの様に表現するかを解いている。すなわち人の理性を語っている。
神話4部作は人と自然の関係、文化の発生と維持、人間社会の常なる危機を先住民の語り口を通して説明している。4作に共通する主題とは自然と文化の抗争、混乱から秩序へのはい上がり、突き詰めると人間社会形成への自然と人の葛藤の様となる。そして人間側の動機の根底に知性をおく。
三作目、野生の思考を特に取り上げる理由は、知性が自然に対抗し、それを解析しそこから離脱する原動力であるとしているのならば、この作こそレヴィストロースの思索活動の基点であったと言えるからである。
若干ながら個人事情を、
小筆は直近の投稿において裸の男フィナーレを取り上げている(2020年3月9日から6月10日まで、およそ20回)。最終章の最終の行が>c’est-à-dire rien、that means nothing<言ってみればそれは無。虚無感が響くこの句を挙げて神話学紹介の最終とした。その後(6月半ば以降)に野生の思考を再読した。初めてこれを手にしたのは3年ほどの前である。つまみ読み後の印象は「理解できなかった」。理由として民族誌調の記述が多く、アフリカ何々族、大洋の孤族何々などと紹介されてもなじみが無かったからと勝手に思った。しかし振り返り彼が用いる語、一つ一つの「真」の意味に理解に追いつかなかったからだと考えを改めた。3年をかけて神話学を読み込み、幾分かはレヴィストロースの思考に近づいた筈だから、今はそれなりに、わずかばかりだけれど読めるのかもしれない。
あわせてサイバー空間にて先達各氏の論評、書評なども探した。しかしまともに紹介している文叢は見つけられなかった。断片的、聞きかじり読み盗み程度の書評しか探せなかった(bricolageなる語への執着はその一例)。私なりの理解をブログ(続いてホームサイト)にて紹介し、訪問者様各位の批判を受けるとした理由でもある。
取り上げるのは第1章「具体科学」 第2章「トーテム的分類の論理」であります。全巻9章となりますが、これだけに限定した理由は1,2章が人の思索の様態、進展の分析としての一貫性が読めるためです。以降はその分析の応用編、民族誌記述はより頻繁に交じるから、人類学指向の方向け。さらに全章の紹介に立ち入ったら、小筆の能力の貧弱様を超えてしまう。始まっても終わらない悲惨に踏みいるはたやすく予想できる。なお最終章の「歴史と弁証法」は過去「サルトル批判」としてブログ、ホームサイトに投稿している(2019年5月30日投稿、ホームサイトWWW.tribesman.asiaにアクセスしてホームページから2019年頁に飛ぶ)、時間に余裕のある方は訪問してください。
LaPenseeSauvage、ポケット版、表紙図柄の三色スミレはパンジー、仏語でpenseeとなる。野生種のスミレと意味を掛け合わせている。
人が外界を理解する様、それは何か。
外界とは自然、森羅万象、宇宙である。人が生まれたときに宇宙は存在していた。死ぬ時にも宇宙はそこにあるだろう(レヴィストロースの名言、「宇宙が生まれたときに人はいなかった、終わるときに彼は存在しない」の逆もじり、お粗末を許せ)。サルトルを借りると「人は宇宙を思考する運命に呪われている」。
思考とは言葉であり、言葉とは外界理解の出発である。
レヴィストロースは思考と言葉の相関をソシュール言語学にヒントを得たとされる。小筆は幾度かブログ(およびホームサイト)において、ソシュールの意味論と構造主義の関連を「イヌ」の例を挙げて語っている。「野生の思考」を正しく読むにこの理解は必須なので、改めて述べる。
人がイヌを見てイヌと指さす。実体のイヌはsignifie(意味される)、言葉のイヌがsifnifiant(意味する)。言葉を通じて意味する意味される、この相互の関連を「signe意味」とソシュール言語学が教える。言語学としては誠に正しい。
バルザックの一文を冒頭にかかげる。訳を試みる;人には野蛮人しかいない。農民、それに田舎の人々は己に関する何事も学ぼうとする。彼らが思考を通じて事実に気付くのなら、あなた方よ物事を全体として見つめられたと言ってやろう。
レヴィストロースは哲学者にしてかつ人類学者なのでより深い部分から考え直した。イヌを見て人はイヌと言う、なぜそんな芸当が可能なのか。
人がイヌの思想を頭に持つ。概ね四つ足、しっぽ、鼻面のワンワン吠えがイヌの思想である。その思想に限りなく接近した個体が前を過ぎる。人は思想と実体を比較し「あの個体はイヌ思想に組み込める」さらには「ネコでもブタでもない」決めつけてイヌと叫んだ。構造主義としての意味論です。
続く
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