蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

もう一つの夕日 (裸の男フィナーレの続き) 上

2020年06月01日 | 小説
(2020年6月1日)
4月以来、レヴィストロース神話学第第4巻「裸の男L’Homme Nu1970年刊」の最終章フィナーレFinaleを取り上げています(ホームサイトWWW.tribesman.asiaで4月15日から)。その最終部を改めて紹介する。

悲しき熱帯を引用している部分(裸の男620頁、本書は621頁で校了する)

最終巻最終章の最終ならば全4巻の締めくくり、そこに「悲しき熱帯TristesTropiques、1955年刊」に記した「le coucher de soleil夕日考」を引用した。神話学4巻とは、彼にしてその立ち位置を明らかにしているのですが、著作活動の締めくくりとなります。彼は2009年に没したので、その後40 年近く、ある意味で自身の言葉をして「黄昏」、晩年を過ごす。この間でも著作は活発。とは言え、それらは断片的、過去の蒸し返し、あるいは修正などいわば懐古で占められる(蕃神の個人判断)。人類を構造主義により分析し、神話の解釈にもその「構造」を持ち込むなど一の流れの業績が、この4巻本、特に最終巻「裸の男」に、そしてそのフィナーレに集約されています。
最終章において、以前に刊行した著作の説句のいかなる引用もこの「夕日考」以外に見あたらない。あえて「夕日..」を最終の段に取り上げた理由とは、この一文が含蓄する思想に、それを綴ったレヴィストロースにして一入の思い入れがあった、その証左であると感じ取ります。

>un coucher de soleil夕日考と読める<

文の一部を引用します;
>Parvenu au soir de ma carriere…中略…l’histoire de l’humanite, l’histoire aussi de l’univers au sein de laquelle l’autre se deroule, rejoint l’intuition qui , a mes debuts et comme j’ai raconte dans “Tristes Tropiques” , me faisait rechercher dans les phrases d’un coucher de soleil , guette depuis la mise en placre d’un décor celeste qui se complique progressivement…<(L’homme nu620頁)
訳:経歴の黄昏(soir夕刻)を迎える今(….これら神話が私の心に残した物とは、最後のとっておきともなる心象であり…)、宇宙流れの渦にうごめく人間の歴史が、「それなる」を語り伝える。経歴の最初期「悲しき熱帯」の一節「le coucher de soleil日の沈み」で、私は「それなる」を書き留めた。午後の日が沈み掛けてからそのなる瞬間を覗いつつ…

訳のつたなさは曲がりくねる原文の仏語的表現、修辞法を顕わにしきれない。思い切って訳から離れこの文意を解説する;

レヴィストロースが語るのは神話と宇宙の関わりである。神話が伝える人間社会humaniteの創造と興隆、その歴史は宇宙歴史に刻まれる。人間社会が勃興し衰退し、消える。この様が旺盛な午後の日差しが水平に沈み、闇にまぎれるまでの夕日の移り変わりと同様であると気付いた。隆盛を誇る人間社会も、必ず闇に消える宿命から逃れられない。経歴の黄昏を迎える時点で気付いた真実を、活動の黎明期に悟っていたのだ…

夕日とは絢爛から闇。その変わり様を文化の創造と勃興、必ず訪れる滅亡に対比した。人間社会を天体の表情に暗喩した一文が「夕日考」であったわけです。

こちらが悲しき熱帯の「夕日考」イタリック体で挿入される(ポケット版67頁)。「Ecrit en bateau 船上にて」が原タイトルながらcoucher...で広まった。写真はその書き出し。「ギリシャ人は朝日と夕日には何ら差がないとしていた。気象学者なら朝日は一日の天気を予報する役割しか持たない...」味気ない言い回しで始まる。

蕃神は夕日の立ち回りを「一日の流れ朝に起き昼に働き夕べに祈る」と矮小化してしまった。
中世の農民が農作業を終えて家に帰る道すがら振り返り、一日の甘さ辛さの思いを夕日に遣ったのだ…かくも呑気に理解して、その一文を恥ずかしくもホームサイトにしたためた。(こちらが夕日考の初稿、2019年5月30日、部族民通信Index頁から2019年に飛ぶ、あるいはサイト内グーグル検索から夕日考を検索する)
その後、幾年幾月の雨と嵐、時折が晴。一人黙して読む本の返す指先、頁の指す先がフィナーレの一文。読むにつれ、なぞる指の視野が先、そこに潜むが奥行きと狭さ、思考の演繹の厚さに薄さの彼我の差に転換された。埋めきれなくも越えられないその絶対格差に愕然とした。(ホームサイト2019年8月31日投稿。GooBlogに投稿しているから、既読の方も多いかと)
森羅万象には関わらない、己の近辺周囲を気遣うのみであるとの幼稚解釈が、何故にかくも見事にも、さらけ出されてしまったのか。その答を探るに太陽信心という日本人の信仰有様が浮かび上がる。

太陽はお天道様である。
日本人は旭日に「平安」を祈る。毎朝、日の出に手を合わせ、眼を閉じてその頭を地に落とし平安を祈る。この儀礼はかつての風習、今となれば多くに実践はされていないかもしれない。しかし信心深い御仁は多い。毎日を年一回に省力して、正月元旦の初に手を合わせる。これが旭日に願掛けする古来の儀礼の名残である。

毎朝の願掛けに戻ると、人は己と家族の健康、無病息災を祈る。願掛けは今日の一日の有効期限で十分。毎朝、祈りをけなげに更新するから。森羅万象など除外して、短くて狭い範囲の願掛けとして、己と家族が無事ならそれでいいや。割合、自己主義の信仰である。

レヴィストロースの夕日考に接して、日本人にして朝に一日を祈る慣習を蕃神が思い起こして、それなら夕日には「来し方一日に感謝すると」と思いついた。
「狭くて短い」日本人的ノリでレヴィストロース夕日考を解釈した。この図式が乗り越えられないのが生まれ育った文化が異質、民族の思考回路の差である。

さらに;
もう一つの夕日が悲しき熱帯にあった。(続く)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 裸の男フィナーレのホームサ... | トップ | デコトラ、デコラクダ、神の... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

小説」カテゴリの最新記事