前回(6月23日)投稿のパワーポイント図の説明。
野生の思考とは具体科学の一形態である。具体科学は現実、すなわちモノを解析する科学である。それは形状formeへの肉薄に他ならない。思考を巡らせ言葉を用いて彼らなりのモノ世界を敷延する。彼らと申したがそれは未開人であるし、近代人でもある。後者にしてもモノ敷延の思考は保っている。
本章で取り上げられるTlingit族、カナダ北西部に居住。写真はネットから。
パワーポイント図、具体科学の説明
3列目用語には本著に用いられ、モノを展開し敷延する事を表現する用語を書き入れた。
例としてassimilation(同一化)なる思考はどんな展開を示すのか。歯痛にキツツキのくちばしを患部に当てる。おそらくほじくるのだろう。ヒトの歯とキツツキの頑丈なくちばしを同一化し、歯よくちばしになれで痛みを霧散させる「論理」がここに見られる。
先に先住民は「抽象」能力に欠けるとした風説を紹介した。レヴィストロースはここに切り込む。
>pretendue inaptitude des ‘primitifs’ a la pensee abstraite =中略=la richesse en mots abstraits n’est pas l’apanage des seules langues civilisees<(本書11頁)訳;未開人には抽象思考が無いと言われているわけだが、抽象表現を用いるのは文明化した国の言語の領分とは限らない。
例としてChinook族の言い回し、Boasの報告「こうした言い回しは私の言語でも用いるのだが」を引用する。「意地悪な男が貧しいなか、(己の)子を殺した」これを彼らは>La mechancete de l’homme a tue la pauverete de l’enfant(同)>男の意地悪が子の不幸を殺したと伝える。そして「おおよそ全ての言語は...」以下原文に;
>le discours et la syntaxe fournissent les resources indispensables pour suppleer aux lacunes du vocabulaires.>語り口と文構成とは、語彙のみでは言い切れない含蓄を追加するに必須なのだ...
ここまでは理解に至る。
それに続く文節が難しい>Le caractere tandancieux de l’argument evoque au paragraphe precedent est bien mis en evidenace , quand on note que la situation inverse : celle ou les termes tres generaux l’emportent sur le appellation specifiques , a ete aussi exploitee pour affirmaer l’indigence intellectuelle des sauvages (同)
訳;先の文でカッコ内(Boasのこうした言い回し...)は以下の議論を誘導するに為にある。それは状況が逆になったとしたら、すなわち非常に広い意義を持つ語に対し、その範囲が納める語彙が多くなる場合を仮定すると、先住民の知的(抽象)能力は貧しい(indigence)と結論せざるを得ない。
レヴィストロースは度々Boas(Franz、アメリカ、1858~1942年出身はドイツ)を好意的に引用する。今回も「先住民の言語抽象能力」を評価したと受け止めた。しかるにその言にtendancieux(底意の見える、誘導する)なる形容を被せた。となると;
Chinook族の言語力は意地悪、貧しさ程度の「狭い範囲」の抽象には対応できる。そして「意地悪男が不幸な子を...」の言い回しでは殺人の背景を説明しきれないからChinook族民は「男の意地悪さが...」と文構成を練り上げ、正しく状況を表した。しかしここまでである。
彼らは植物、動物といった広範な抽象語を持たない。植物の中では(薬草)あるいは毒草などといった生活に用いる種のみに名を与えている。故に先住民の抽象力は範囲の狭い語に限られ、限界を見せているーこの議論を引き出していると小筆は解釈した。
「貧しさ」なる概念が「植物」のそれに較べて狭いとの指摘(Boas)には正否の判断を小筆はできない。おそらく当時(20世紀初頭)の生物分類の図式(界、門、綱と大から小へとつながる分類)に影響を受けたかと思われる。構造主義的意味論(前回6月23日投稿のパワーポイント図)に立ち戻れば、語はいずれも思想をなす。それなら「質」の範囲であるから、狭いなり広いを議論しても始まらない。
さて本文に戻ると;
>Je me souviens de l’hilarite provoquee chez mes amis des Marquises...(12頁)<今でも思い出すがマルケサス諸島人々の大嗤い<なぜ報告者(Handy)が嗤われたかというと雑草の名を尋ねたから。レヴィストロースが毒草でない(役に立たない)草の名を尋ねた時のNambikwara 族と全く同じ反応があったわけだ。(Handyは1921年の報告、レヴィストロースのNambi.報告は1936年)。この例をして報告者達(Handy他)は抽象力の欠損と決めつけた。この後に本投稿第一回に引用した
>le decoupage conceptuel varie avec chaque langue<(本書12頁)
が出てくる。
「概念による裁断は言語によって異なる」この解釈は前回通りです。「言葉の概念が外的世界を裁断する、この様態が言語を理解する要となる」。西欧言語では「植物」「動物」で大きく「裁断」し、それらの小項目に杉、とねりこ、楊などに細分していく。一方で、自然に密着している先住民には「植物」の大項目は不要である。
>Parmi les plantes et les animaux, l’Indien ne nomme que les especes utiles ou nuisibles ;
les autre sont classees indistinctement comme oiseau, mauvaise herbe, etc.<(The Tlingit Indian Kraus著、本書11頁)訳;あらゆる植物、動物のなかからTlingit 族は有用なそして毒のある種にしか名を与えない。それら以外は無関心に「鳥」、「雑草」とだけ呼ばれる。
「植物」の大項目に替わり「毒草」「可食草」を置いて外界切り取っている。もう一例;>Les faccultes aiguisees des indigenes leur permettaient de noter exactement les caracteres generiques de toutes les especes vivantes, terrestres et marines ainsi que les changements les plus sutils de phenomenes naturels tels que les vents...(The Polinesian Family System、Handy著、本書14頁)<訳;原住民はそのとぎすまされた感知能力から、地上性にしても海洋のあらゆる生物の系統を言い当てられるし、いかなる些細な自然の変化、風...も言い当てる。
ここでは>toutes les<あらゆる、を当てているがこれは生物学的、気象学的な「あらゆる」とは異なり、彼らが関心を寄せる外界の「あらゆる」種、現象と理解する。ここでもdecpoupages conceptuels(概念の裁断)は関心、利害が先に立つ。先住民は抽象能力が欠けるとの指摘は誤りである。続く
野生の思考とは具体科学の一形態である。具体科学は現実、すなわちモノを解析する科学である。それは形状formeへの肉薄に他ならない。思考を巡らせ言葉を用いて彼らなりのモノ世界を敷延する。彼らと申したがそれは未開人であるし、近代人でもある。後者にしてもモノ敷延の思考は保っている。
本章で取り上げられるTlingit族、カナダ北西部に居住。写真はネットから。
パワーポイント図、具体科学の説明
3列目用語には本著に用いられ、モノを展開し敷延する事を表現する用語を書き入れた。
例としてassimilation(同一化)なる思考はどんな展開を示すのか。歯痛にキツツキのくちばしを患部に当てる。おそらくほじくるのだろう。ヒトの歯とキツツキの頑丈なくちばしを同一化し、歯よくちばしになれで痛みを霧散させる「論理」がここに見られる。
先に先住民は「抽象」能力に欠けるとした風説を紹介した。レヴィストロースはここに切り込む。
>pretendue inaptitude des ‘primitifs’ a la pensee abstraite =中略=la richesse en mots abstraits n’est pas l’apanage des seules langues civilisees<(本書11頁)訳;未開人には抽象思考が無いと言われているわけだが、抽象表現を用いるのは文明化した国の言語の領分とは限らない。
例としてChinook族の言い回し、Boasの報告「こうした言い回しは私の言語でも用いるのだが」を引用する。「意地悪な男が貧しいなか、(己の)子を殺した」これを彼らは>La mechancete de l’homme a tue la pauverete de l’enfant(同)>男の意地悪が子の不幸を殺したと伝える。そして「おおよそ全ての言語は...」以下原文に;
>le discours et la syntaxe fournissent les resources indispensables pour suppleer aux lacunes du vocabulaires.>語り口と文構成とは、語彙のみでは言い切れない含蓄を追加するに必須なのだ...
ここまでは理解に至る。
それに続く文節が難しい>Le caractere tandancieux de l’argument evoque au paragraphe precedent est bien mis en evidenace , quand on note que la situation inverse : celle ou les termes tres generaux l’emportent sur le appellation specifiques , a ete aussi exploitee pour affirmaer l’indigence intellectuelle des sauvages (同)
訳;先の文でカッコ内(Boasのこうした言い回し...)は以下の議論を誘導するに為にある。それは状況が逆になったとしたら、すなわち非常に広い意義を持つ語に対し、その範囲が納める語彙が多くなる場合を仮定すると、先住民の知的(抽象)能力は貧しい(indigence)と結論せざるを得ない。
レヴィストロースは度々Boas(Franz、アメリカ、1858~1942年出身はドイツ)を好意的に引用する。今回も「先住民の言語抽象能力」を評価したと受け止めた。しかるにその言にtendancieux(底意の見える、誘導する)なる形容を被せた。となると;
Chinook族の言語力は意地悪、貧しさ程度の「狭い範囲」の抽象には対応できる。そして「意地悪男が不幸な子を...」の言い回しでは殺人の背景を説明しきれないからChinook族民は「男の意地悪さが...」と文構成を練り上げ、正しく状況を表した。しかしここまでである。
彼らは植物、動物といった広範な抽象語を持たない。植物の中では(薬草)あるいは毒草などといった生活に用いる種のみに名を与えている。故に先住民の抽象力は範囲の狭い語に限られ、限界を見せているーこの議論を引き出していると小筆は解釈した。
「貧しさ」なる概念が「植物」のそれに較べて狭いとの指摘(Boas)には正否の判断を小筆はできない。おそらく当時(20世紀初頭)の生物分類の図式(界、門、綱と大から小へとつながる分類)に影響を受けたかと思われる。構造主義的意味論(前回6月23日投稿のパワーポイント図)に立ち戻れば、語はいずれも思想をなす。それなら「質」の範囲であるから、狭いなり広いを議論しても始まらない。
さて本文に戻ると;
>Je me souviens de l’hilarite provoquee chez mes amis des Marquises...(12頁)<今でも思い出すがマルケサス諸島人々の大嗤い<なぜ報告者(Handy)が嗤われたかというと雑草の名を尋ねたから。レヴィストロースが毒草でない(役に立たない)草の名を尋ねた時のNambikwara 族と全く同じ反応があったわけだ。(Handyは1921年の報告、レヴィストロースのNambi.報告は1936年)。この例をして報告者達(Handy他)は抽象力の欠損と決めつけた。この後に本投稿第一回に引用した
>le decoupage conceptuel varie avec chaque langue<(本書12頁)
が出てくる。
「概念による裁断は言語によって異なる」この解釈は前回通りです。「言葉の概念が外的世界を裁断する、この様態が言語を理解する要となる」。西欧言語では「植物」「動物」で大きく「裁断」し、それらの小項目に杉、とねりこ、楊などに細分していく。一方で、自然に密着している先住民には「植物」の大項目は不要である。
>Parmi les plantes et les animaux, l’Indien ne nomme que les especes utiles ou nuisibles ;
les autre sont classees indistinctement comme oiseau, mauvaise herbe, etc.<(The Tlingit Indian Kraus著、本書11頁)訳;あらゆる植物、動物のなかからTlingit 族は有用なそして毒のある種にしか名を与えない。それら以外は無関心に「鳥」、「雑草」とだけ呼ばれる。
「植物」の大項目に替わり「毒草」「可食草」を置いて外界切り取っている。もう一例;>Les faccultes aiguisees des indigenes leur permettaient de noter exactement les caracteres generiques de toutes les especes vivantes, terrestres et marines ainsi que les changements les plus sutils de phenomenes naturels tels que les vents...(The Polinesian Family System、Handy著、本書14頁)<訳;原住民はそのとぎすまされた感知能力から、地上性にしても海洋のあらゆる生物の系統を言い当てられるし、いかなる些細な自然の変化、風...も言い当てる。
ここでは>toutes les<あらゆる、を当てているがこれは生物学的、気象学的な「あらゆる」とは異なり、彼らが関心を寄せる外界の「あらゆる」種、現象と理解する。ここでもdecpoupages conceptuels(概念の裁断)は関心、利害が先に立つ。先住民は抽象能力が欠けるとの指摘は誤りである。続く
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