蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

農協パラダイムの終焉7

2018年02月23日 | 小説
(2018年2月23日)

農協の発足は1948年(昭和23年)に遡る。
その組織に、それまでの農村改革運動(農民会などの在郷活動)が結集したと投稿子は見ている。それら活動精神の支柱には賀川豊彦らの農村開放運動があげられよう。すると農協とは作物の共同販売、肥料の購買のみの単なる協業組合を超えて啓蒙、精神の運動であろう。中世から続く土(農民)一揆の活動こそ農協の根底として良かろう。
脇に外れるが、中世以来、自治権を持つ村落を惣村と呼称していた。惣の意味を字源に尋ぬれば「たばねる、すべて」とある。百姓全員が参加し意見を束ねる村落の自治体であろう。そこでは協業だけでなく警察司法、葬祭、暦に立脚する共同作業、例えば田植え、まで村単位で決定している。惣村の内実を知るに、水利権の確保や養生地の取り合いなど緊迫した記述の連続で「看聞御記」(伏見宮貞成親王著、応仁の乱で郷に避難した親王日記、岩波文庫にある)は、筆頭であろう。惣村あるいは郷一揆の制度は形態を変えても、関東にも江戸期を通して綿々と継続していた。しかしそれが維新の地租改正(明治6年)で打ち破られた。色川大吉氏の著作には、多摩地区において農村が金融資本(高利貸し)に蚕食される過程が詳しい。惣村の崩壊過程と投稿子は読んだ。
すると農協とは惣村復活運動なのか。それまでの農村改革、在郷の自治運動などを統合した自治獲得の旗頭なのかも知れない。
すると、これ農協はとは神話である。農協パラダイムを現代の神話として探ると;

レヴィストロースの言葉を借りると神話の全体像はスキーム(scheme)、これはカントの図式的世界観を発展させています。サンタグム(syntagme)は連辞でこれはソシュール(スイスの言語学者)の定義、投稿子は同列とします。パラディグム(paradigme)は同じく範疇、これを投稿では変移とします。(2017年12月22日投稿に記載)
農協においてのsyntagmeは何かと推理を巡らせるに、余暇・移動・生活・再生産があげらる。2DKパラダイム、セレビーパラダイムを取り上げているが、比較して似たり寄ったりである。それは日本人戦後の心理、深層の底流には地域、職業の分別を超えて、いずれにも同じ精神理由が潜むからだ。在郷民団地族サラリーマン、ありとあらゆる日本人に共通する戦後の意識とは、連続と上昇です。
日本人皆が理想を抱き、近づこうともがいていた。これがsyntagme似通いの根源である。
では筆頭syntagme余暇なるparadigmeを探ると;
1952年(昭和27年)館林近郊の在郷民は梅雨の直前に町中に繰り出し、銭湯で身体を休めた。連雀商人の末裔を自負する明治生まれ婦人はこの状景を「ザイゴノーカンキ」と子に伝えた。在郷民の銭湯行きはしばらく続いたが、昭和30年代に入ると彼らの心になにがしかの不安、疑問と言えよう、が頭をもたげ始めた。疑問とは「銭湯は一向に楽しくない」。
この精神作用をレヴィストロースはinterioriser内面化とする。「野生の思考」9章dialectique et histoire弁証法と歴史に詳しい。
ここに来て銭湯での余暇は分断された。余暇は連続するというスキームを在郷民は捨てない、他にも連続スキームのsyntagmeが控えているから。そこで別の形態に発展する=totalisation全体化=が必要になってきた。この語totalisationはサルトルが使う用語であるがレヴィストロースにしてこの語を同じ用法で用いている(あくまでも上記の9章だけでの使用)
syntagmeは連続上昇の精神、しかしparadigmeは内面化の分断作用の中で、前進し停滞しながら発展する(これをサルトルはprogressive-regressiveとも伝える)。すなわちparadigmeはdialectique弁証法なのである。レヴィストロースにおいて弁証法とは内面化から全体化に移行する時に、すなわち止揚アウフヘーベンする段階で、目的意識が一切ない。ここがヘーゲル、マルクス、さらにサルトルの弁証法と大きく異なる。この差異こそサルトルレヴィストロース論争(1962年)の基底なのだが、この農協パラダイム投稿のあとに載せる。


群馬の在郷民の内面化停滞を破ったのがJALパック。写真は1960年代初頭の女子搭乗員。今にして眺めればやや野暮ったさが浮かぶけれど在郷にはこれで停滞を打破できるとハイカラと受けたのだろう。写真はネットから

さて在郷民の停滞はなかなか解消に至らなかった。銭湯遊行をinterioriser内面化してもtotalisation止揚に至る事がなかったのである。群馬の在郷民であれば、法師伊香保草津あたりの温泉に繰り出せば、それなりに余暇の時間が持てるはずだ。それら温泉に在郷民らしきが来湯したとの報告は特に聞いていないが、昭和30年代は温泉での息抜きは盛んだったので、在郷者も湯治には出たろう。しかしparadigmeを形成するまでの勢いはなかったであろう。
そして昭和40年の春3月、JALパックの幟が農協の前にはためいた。
JALパックとは日本航空が企画する海外団体旅行である。1964年(昭和39年)に渡航制限が廃止され、手軽に海外に旅行できる下地が形成され、同社としては満を持しての40年の発足となった。「銭湯も温泉もやめた、海外に行くベ」が在郷民のスローガンとなった。

農協パラダイムの終焉7の了 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 農協パラダイムの終焉 6  | トップ | 農協パラダイムの終焉8 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

小説」カテゴリの最新記事