(2018年2月19日)
私事となりますが投稿子の経験から幾行か。
投稿子は子供の頃に館林(群馬県)に住んでいました。背景は母がその地の出で、実家なるは町中「連雀町」、地名の通りの連雀商人の商店が軒を並べていました。(中世に発達した連雀商人には立ち入りません、網野善彦氏(2004年没)の著作にその実態が詳しい)
小学校入学の前なので5歳か、すると65年の前、昭和27年です。季節は春の終わり、ある夕、兄達に連れられて銭湯に湯を浴びに行くと、見た目も異様な集団が湯船に入っていました。幾人かは洗い場にてタワシごしごしと垢を擦っていた。その顔たるや輪郭は四角で頬額は異常に黒く、腕はそれにも劣らず漆黒、手足はなんともごつく指先はなお太い。飛び交う言葉が私には聞き取れなかった。帰って驚きを母に伝えると、
「ザイゴ、ノーカンキ」と一言、驚きも見せなかった。
5歳幼児にはザイゴの意が掴めないながら、頭の中で「ああいう人がザイゴノーカンキ」と一人回りしていた。のちに調べると在郷でした。この語は今となっては使われない、せいぜい在郷軍人が残っているが、今の日本には軍人がいないからいずれ消える。ごくまれに「アメリカ在郷軍人会が大統領候補を推薦」の記事に出会うだけです。
ザイゴの意味とは任務を終えた人が故郷に戻っている状態であり、故郷は「田舎」が多いのでその人は田舎に住んでいる。その状態と田舎居住者に含意が発展している。在郷の語感は中立ですが「ザイゴ」はペジョラティブ(侮蔑)です。
続いた「ノーカンキ」とは農作業のカンキ=閑期で、農閑期となります。閑とは「有閑(ユーカン)マダム」なる言葉が昭和40年代に流行ったが、本来は忙しい地位に立つ人に一時の「ゆとり」が発生する意味です。農民は忙しいから「閑」は分かる。そして40年代のマダムは忙しかったと推測できるが、これは怪しい。ユウカ(有暇)マダムが正しかったはずだ。暇とはもともと「ゆとり」ある状況、地位、人です。そしてマダムとは大体においてヒマですから、ユウカです。
母の一言返事の意味を精緻に探れば、「田植えが終わった時期だから忙しい農民達に時間のゆとりが生じ、町中に来て銭湯遊行している」
この意味に時間要素を加えると「昭和20年代、農民の余暇活動は、ザイゴから町中に繰り出して、銭湯に入って(きっと幾分かは)ソバとかウドンに散財して満足して帰農すると解釈できよう。これを「余暇」サンタグム(syntagme)として農協パラダイムのはしりと出来ないだろうか。
さて、昭和初期には農村の精神向上活動、あるいは解放運動が活発だった。
銭湯遊行していた者達の年格好はおおむね青年、中年も混じるが壮丁といえる。館林の近郊ならば板倉大泉千代田などの在郷地名が挙げられるから、彼らは例えば「板倉在郷青年団」の会員だったろう。
他にも在郷壮士団、在郷婦人会、在郷少年隊、在郷幼年部などが組織化されていた。「在郷オバコ倶楽部」は秋田県限定で、館林近郊など群馬県一帯では「在郷娘子(ジョウシ)隊」の看板を揚げていた。これらの名称のばらつきはあるものの各地で同類の組織が設立、運営されていた。在郷軍人会は活発で、政治団体として「軍人恩給」の交付金値上げ活動を全国で展開していた。
こうした団体が農協の発足にともない、農協組織に組み入れられた。この歴史にまず注目したい。
例えば在郷壮丁団壮士団は「農協青年部、あるいは老年団」と進化した。秋田県角館近郊の「在郷オバコ倶楽部」が「農協少女グループ」に、少年隊は農協少年野球団として組み入れられている。
農村文化活動の一こま、在郷少年消防団の式典入場風景。画像はネットから
投稿子の母が昭和27年にフト漏らした「ザイゴノーカンキ」の意味の深さ、ザイゴと片づけた背景に農村解放運動の名残りが続き、引き継いだ農協の文化開放のきらめき、それはまさに農協文化大革命であり、農協パラダイムその物がそこに潜んでいた。
農民歴史のparadigme流れ、蕩々とした変遷のsyntagme道筋に思いを馳せ、改めてノーカンキの意味に戦慄したのだ。
農協パラダイムの終焉6の了
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