蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

カツ丼の自由の続き 2 

2018年10月08日 | 小説
(10月8日)
言語学フェルディナン・ド・ソシュール(スイス1857~1913年)は意味論の先駆者とされる。言葉(parole)とは「意味する、意味される=signifiant, signifie」の相互関係にある。意味の伝達において主体と客体の相互関係が成立しているとすると彼は伝える。この説をレヴィストロースが受け入れる訳だが、咀嚼の過程で彼らしく構造主義の細工を仕掛けた。その細工の独自な様をTristesTropiques(悲しき熱帯)でレヴィスロースが展開している。すなわち言語とは「思想と実体」の相互関係であると。

本投稿では幾度か、この「構造主義的意味論」を説明している(猿でも分かる構造主義シリーズなど)。よって、当ブログ訪問の常連士にはまたかと飽きられるかもしれぬ。しかし、奇特な新規訪問の方もそれなりに多いと希望し、改めて彼の意味論を紹介する。
犬を例に取る。人は「犬の思想ideologie」を持つ。それは「四つ足、尻尾付き、鼻面….」となる。目の前を四つ足、尻尾付き、鼻面…の動物が歩いている。人は自身の持つあらゆる四つ足を思い返し、「豚でない、猫とも異なる、鹿や馬との似通いが認められない。分かったぞ、あれが犬だ」と判断する。目の前の四つ足動物には形状(forme d’existance)があるのみで、そこに「犬の本質」は無い。本質とは物ではなく、物と思想の相互性に存在する。
犬の思想を頭の中で熟成する仕組みはカントの先験性である。これはレヴィストロース本人が言っている。

この相互性、形状と思想の有様を深く見ると、人の思想が主体となり形状は客体である。
一方で、ソシュールでは実体の犬が言語paroleを喚起するのだから、実体が主で、それを犬とした言語は客体である。よって、レヴィストロースは言語学における意味論の主客を逆転させている。そして「意味なる仕組み」を西洋哲学の基調である「思考と本質」の場に持ち込んだ。
蜜蝋を眺めつつ、(物に隠れる)本質と(神が人に授けた)思考に思いを巡らすデカルトのとの差異を、読者諸氏は理解したかと思います。さらに、思想と物体とを対比させる構造主義の手法は、後の神話学4部作(生と調理など)に開花していく。

悲しき熱帯TristesTropiquesの一節を引用する;
<<ce sont les formes d’existance qui donnent un sens aux ideologies qui les expriment : ces signes ne constituent un langage qu’en presence des objects auxquels ils se rapportent>>(169頁)
拙訳;(目の前の犬)現実の形体が犬の思想に一種の方向性を与えた(犬を見た)。すると思想はその形体を表象として表出する(あれは犬だ!)。この意味(相互の)関係は意味が表象する客体が存在する時にのみ言語となりうる(思想と形体の相互関係)。
説明;この単文に構造主義のエッセンスが充満している。主体はあくまでideologieであり、客体はformes。Formes d’existanceをpresence des objetsと言い換え、思想と形体は一蓮托生でなければならないとする。
これに続くが前回に引用した文。再引用となるが;
<<le malentendu entre l’Occident et l’Orient est d’abord semantique>>(TristesTropiques、悲しき熱帯の169頁)
拙訳:西洋と東洋の誤解はまず意味論においてである。

両者の誤解とは歴史制度、風習しきたりに源を発する疏通障害ではない。意味論でのボタンの掛け違いである。尊師レヴィストロースがかく曰った。liberte 自由に当てはめると、諭吉はlibre arbitreを自由と訳した、その客体であり実体のliberte d’indifference をここ日本に移植するまでには至らなかった。投稿子としてはさもありなん。デカルトが語り、ジッドが教えたその近世版が、ここ日本に根付く風土は無い。
諭吉、さらには兆民、あるいは大杉栄ならば自由とはliberte d’indifferenceなるぞと理解していたと推察する(このあたりは十分研究の余地がある。誰かやってくれないかな:余談です)。村社会の不許容な精神風土、そこから脱皮できないこの国民は、明治の過去も平成の今も、判断し行動する自由の心情など許容されない。「勝手気まま」の含意を重く引きずりながら時に「自由が過ぎる」などと否定の意味を濃く色づけて私たちの自由は用いられる。しかしその用法にのみ、思想と実体がつながるのである。

K氏のカツ丼の自由はアリサ、ジェロームからの理解を得られるだろうか。1951年に心だけれど、今日野市に再臨したジェロームは以下に語る。

写真:とある門(日野市)前回9月20日に見かけた時よりもずいぶんと狭くなった。これでは普通の人は抜けられない。この宅の主人は狭き門を実践しているのだろうか。狭い広いは精神の尺度なのだと教えてやりたい。

「ムッシウKは狭き門を選んでいない」
するとK氏は反論する「誤解だ、天丼親子丼などを私は排除した。カツ丼だけの選択だから狭き門を選んだ」
1889年にパリで客死したはずのアリサが横から口を挟む。
「自由とはvolonteとそのvertu実行なのです。あなたは実行するvertuはお持ちだが、volonte発心の時点で欲望、すなわち空腹がさいなむ食欲、美食を求める耽美心、平らげたぞの自己満足に多大の影響を受けている。これをして不自由な自由(liberte de difference)と人は言い、そんな不謹慎から出発しているのよ」
K氏「自分がやりたいようにしているだけなのだ」
両氏「それをegoisteと言う」
やはり東洋と西洋は理解しあえない。

カツ丼の自由の続き2の了 

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