(2020年6月8日)
レヴィストロース著神話学第4巻「裸の男L’HommeNu」の最終章の章題は「Finaleフィナーレ」。これは音楽用語で終楽章です。第一巻「LeCruetleCuit生と調理」の書き出し「Ouverture序曲」に対応している。4幕35場の神話オペラは序曲に始まり終楽章で終わった。総譜2000頁で作曲したのだ。
裸の男の表紙、ポールデルボー(ベルギー)画
この終楽章全82頁についてはホームサイト、ブログへの投稿でこれまでも紹介している。今回、その最終の621頁を紹介する。
書き出しから;
>L’opposition fondamentale , generatrice de toutes les autres qui foisinnent dans les mythes et dont ces qutre tomes ont dresse l’inventaire , est celle meme qu’enonce Hamlet sous la forme d’une encore trop credule alternative.
Car entre l’etre et le non-etre , il n’appartient pas a l’homme de choisir.
訳;基本としての対立関係がまずある。それをして他の全ての対立を創造している。神話学4巻にそれらが盛り込まれているのだが、この基本対立とはハムレットがいみじくも、ある意味愚直に申し立てた2者択一と同じである。
なぜ(愚直)かとするは、存在すると存在しないについては人の選択にゆだねる物ではないからである。
文頭の基本としての対立、これを沙翁シェイクスピアはその名句「To be nor not to be, that is the question」(ハムレット)で表現した(原文の引用は無い)。また文脈の流れから前節で説明した「夕日」とも対応している。
この辺りを考えてみると;
「夕日考coucher de soleil」での太陽の移り変わり様を、人間社会になぞらえると(レヴィストロース自身が)タネを明かした。燦々と輝く隆盛期から西に落ちて闇に閉ざされるまでを、人間社会(humanite)の移ろいとしたのだ。最後には宇宙から消え果てる社会と、さらに「to be or not to be」とも重なる「対立」。それが全ての源としている。
Hamletが独白する意味とは「対立しているそれらの一方を選択しようとする」。これが愚直(credule)だとレヴィストロースが決めつけた(語の直訳は信じやすい、naifと同義ですぐに信じてしまう幼稚さともつながるから、この訳を用いた)。選択するなどは問題にすらならない。何故かと言えば人はそのいずれかを選択する能力を持たないから。
またHamletの言い方にenoncer(申し立てる)を填めているが、この語は「表明する中身については真偽不明」「言いたくないけれど」など言い述べる様だけは断定的と形容する動詞である。後に続くcreduleに対比している。どうもHamletの悩みは取り越し苦労としているようだ。夕日考が意味するところと人が選択できない対立を重ね合わせて見よう。
基本としての対立の文節(同書621頁)
まず「to be…」の解釈から始める。
小筆の生徒時代、名物英語教師は「生きるか死ぬか、それが問題だ」と訳した。小筆が英語を知らないとは昔からだけれど、今にして振り返り、理解できる範囲でこの訳はどうもピンとこない。Theは定冠詞である。すると問題がいろいろあるけれど、これはそれを代表するとの含蓄を匂わせるのであるとなる。シャケに卵焼き福神漬けの海苔弁当を「the弁当」と呼ぶ理屈である。
しかし何を食べるか、誰を伴侶に選ぶかなども「生き死に」に匹敵する選択の一つであるから、それらにいちいちthe questionだとして定冠詞など付けない。「a」 question と不定冠詞を付けるはずだ。さらに「生き死に」なんぞは個人の範囲にとどまる、畢竟「死にたいけれど生きている」となる。沙翁ともあろうがこのような些事をかくも大仰に、主役に自問させるのか。
こうした疑念が湧いてきたのだろうか、英文学者小田島雄志は「このままでいいのか、いけないのかそれが問題」と訳した(ネット情報)。この解釈ではbeに普遍が若干宿るが、まだいくらかの候補がある。このままの「何か」には生き様、地位、仕事、改革するか現状維持いかなどが含まれる。するとこの訳では冠詞無し、属性を形容詞的に強調する用法で、that is questionとしたい。
フランス語の冠詞用法を英語に当てはめるのは乱暴かも知れないが、英語のbe(仏語でetre)なる動詞には印欧語族に特殊な含蓄があるのだから「個人」の生死や「個人」の将来選択を越える、より普遍的な意味合いを沙翁も持たせたと理解したい。
レヴィストロースの解釈は明確である。
L’etreとしている。これは定冠詞を付けた名詞として使っているのだ。To beにd’etre(生きること)ではなくl’etreを当てはめるがフランスでのハムレット解釈とすると、名詞etreとは;
「存在」である。本質(essence)に対立する(Robertから)。例えばL’etre et le nean(存在と無、サルトルの著作)「個人が生きている」あるいは「このまま」などとの意味からは離れる。「存在するとはなにか」は哲学(ontologie、本体論)の主題である。デカルトの伝統を持つ彼の地では「生きるか死ぬか」ではなく「存在か….」と解釈しているのであろう。
レヴィストロースがもし日本語に訳したとしたら;
レヴィストロース著神話学第4巻「裸の男L’HommeNu」の最終章の章題は「Finaleフィナーレ」。これは音楽用語で終楽章です。第一巻「LeCruetleCuit生と調理」の書き出し「Ouverture序曲」に対応している。4幕35場の神話オペラは序曲に始まり終楽章で終わった。総譜2000頁で作曲したのだ。
裸の男の表紙、ポールデルボー(ベルギー)画
この終楽章全82頁についてはホームサイト、ブログへの投稿でこれまでも紹介している。今回、その最終の621頁を紹介する。
書き出しから;
>L’opposition fondamentale , generatrice de toutes les autres qui foisinnent dans les mythes et dont ces qutre tomes ont dresse l’inventaire , est celle meme qu’enonce Hamlet sous la forme d’une encore trop credule alternative.
Car entre l’etre et le non-etre , il n’appartient pas a l’homme de choisir.
訳;基本としての対立関係がまずある。それをして他の全ての対立を創造している。神話学4巻にそれらが盛り込まれているのだが、この基本対立とはハムレットがいみじくも、ある意味愚直に申し立てた2者択一と同じである。
なぜ(愚直)かとするは、存在すると存在しないについては人の選択にゆだねる物ではないからである。
文頭の基本としての対立、これを沙翁シェイクスピアはその名句「To be nor not to be, that is the question」(ハムレット)で表現した(原文の引用は無い)。また文脈の流れから前節で説明した「夕日」とも対応している。
この辺りを考えてみると;
「夕日考coucher de soleil」での太陽の移り変わり様を、人間社会になぞらえると(レヴィストロース自身が)タネを明かした。燦々と輝く隆盛期から西に落ちて闇に閉ざされるまでを、人間社会(humanite)の移ろいとしたのだ。最後には宇宙から消え果てる社会と、さらに「to be or not to be」とも重なる「対立」。それが全ての源としている。
Hamletが独白する意味とは「対立しているそれらの一方を選択しようとする」。これが愚直(credule)だとレヴィストロースが決めつけた(語の直訳は信じやすい、naifと同義ですぐに信じてしまう幼稚さともつながるから、この訳を用いた)。選択するなどは問題にすらならない。何故かと言えば人はそのいずれかを選択する能力を持たないから。
またHamletの言い方にenoncer(申し立てる)を填めているが、この語は「表明する中身については真偽不明」「言いたくないけれど」など言い述べる様だけは断定的と形容する動詞である。後に続くcreduleに対比している。どうもHamletの悩みは取り越し苦労としているようだ。夕日考が意味するところと人が選択できない対立を重ね合わせて見よう。
基本としての対立の文節(同書621頁)
まず「to be…」の解釈から始める。
小筆の生徒時代、名物英語教師は「生きるか死ぬか、それが問題だ」と訳した。小筆が英語を知らないとは昔からだけれど、今にして振り返り、理解できる範囲でこの訳はどうもピンとこない。Theは定冠詞である。すると問題がいろいろあるけれど、これはそれを代表するとの含蓄を匂わせるのであるとなる。シャケに卵焼き福神漬けの海苔弁当を「the弁当」と呼ぶ理屈である。
しかし何を食べるか、誰を伴侶に選ぶかなども「生き死に」に匹敵する選択の一つであるから、それらにいちいちthe questionだとして定冠詞など付けない。「a」 question と不定冠詞を付けるはずだ。さらに「生き死に」なんぞは個人の範囲にとどまる、畢竟「死にたいけれど生きている」となる。沙翁ともあろうがこのような些事をかくも大仰に、主役に自問させるのか。
こうした疑念が湧いてきたのだろうか、英文学者小田島雄志は「このままでいいのか、いけないのかそれが問題」と訳した(ネット情報)。この解釈ではbeに普遍が若干宿るが、まだいくらかの候補がある。このままの「何か」には生き様、地位、仕事、改革するか現状維持いかなどが含まれる。するとこの訳では冠詞無し、属性を形容詞的に強調する用法で、that is questionとしたい。
フランス語の冠詞用法を英語に当てはめるのは乱暴かも知れないが、英語のbe(仏語でetre)なる動詞には印欧語族に特殊な含蓄があるのだから「個人」の生死や「個人」の将来選択を越える、より普遍的な意味合いを沙翁も持たせたと理解したい。
レヴィストロースの解釈は明確である。
L’etreとしている。これは定冠詞を付けた名詞として使っているのだ。To beにd’etre(生きること)ではなくl’etreを当てはめるがフランスでのハムレット解釈とすると、名詞etreとは;
「存在」である。本質(essence)に対立する(Robertから)。例えばL’etre et le nean(存在と無、サルトルの著作)「個人が生きている」あるいは「このまま」などとの意味からは離れる。「存在するとはなにか」は哲学(ontologie、本体論)の主題である。デカルトの伝統を持つ彼の地では「生きるか死ぬか」ではなく「存在か….」と解釈しているのであろう。
レヴィストロースがもし日本語に訳したとしたら;