蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

本朝たはけ2000年 5(最終)

2021年02月03日 | 小説
(2021年2月3日)本朝たはけ2000年 5 (最終)
2000年の永きも越す本朝を縦につなぐ糸あれば天皇統となる。気づきもされないもう一本、斜めにかかる脇糸は「たはけ」に染まる。人や世が踏み入れてはならぬと戒めても、夜半に吐かれる密かな喘ぎ熱の帳がいずこにか、裏に重なる褥の折りの幾つかを誰が知る。まさにたはけしまくり民族の罪穢を清める宿禰の預言、それが祝詞であったのだ。大祓い「…上通下通婚、馬婚、牛婚…の罪の類の種々…」。国中の穢れを清める大ヌサの幾度に返される祓いが民の救いだったのだ。
本朝たはけ2000年の了

追:以下の一文を書きたいがため古事記にあたり延喜式を紐解いた(二書とも蔵しておらぬ、市立図書館から借りた)。
レヴィストロースは日本文化に造詣が深く、古事記に限らず諸々の作品、作家を論じている。古事記が「婚たはけ」をどのように遇しているかには、軽皇子の挿話を引用するが、それのみである。宿禰の祝詞、さらに文書価値として同じに重要な延喜式大祓え祝詞には言及していない。
なぜ上の2祝詞が重要かは、
1 親族の基本構造にて論じた近親婚禁止が「社会形成の第一歩」であるとする自説を明瞭に, 民族誌学者の族民からの聞き取りといった2次資料ではなく補強している文書資料であること(世界のどこかにこうした法文書はあるだろうか。寡聞ながら無いと思う)
2 近親婚の禁止は「社会制度」であり、決して遺伝劣化を未然防止する仕掛け、あるいは「情念狂い」の防波堤ではない。延喜式は婚たはけの範囲を「姻族」にまで及ばせている。血のつながりがない、劣化危惧などありえない関係ながら禁止されている。この理由は制度を設けて社会を維持するために尽きる。「親族…」ではボルネオ先住民の「姻族との婚規制」を聞き取りとして揚げているが、一次の文書資料であれば両書の価値はなお高い。

文字の使用が始まっても間もない太古(祝詞を5世紀後半とすれば、刀剣に象嵌文字を彫り残した時期に近い)に、これほどにも婚たはけに力点を置いた宿禰祝詞、それに言及していない事は残念に尽きる。

もし両の祝詞をレヴィストロースが知っていたならば、
「親族...」の改訂版(1967年)にあるいは「神話学4部」(最終は1970年の刊行)にても引用しただろう。文筆活動は20世紀最後半まで活発だったから、何処かで言及したはず。それが見当たらない。何故だろうか;
接した古事記英訳本が抄訳であったためだろう。延喜式に至って英訳は刊行されていない(と決めつけている、誤りであれば許せ)。明治政府が「…上婚下婚…牛婚馬婚…」くだりの流布を禁止し、大祓え祝詞の文言を差し替えた(前回投稿)。これら書の海外紹介には厳重にこの文言を省略する規制があったと聞く。
レヴィストロースは幾度か来日(1977年初来日)している。そのたびに「文化人」と会合し、日仏文化交流していた。しかし日本側文化人の誰も「親族...」と古事記延喜式祝詞の相似を指摘しなかったようだ。指摘がなかったから、レヴィストロースは最期まで祝詞を知らなかった、こう推定せざるを得ない。
永久に祝詞を知るを機会に失った、それが彼であるだけに残念だ。すると交流していた日本側の文化人って、「親族....」を読んでなかったのか。あぁ文化人、一体彼らはなんなのさ!(蕃神)。

晩年の作家(島崎鶏二画、日本文学体系から、原画は彩色)


文豪に筆を向けたのは中野好夫の「偽善者」断定がどうにも理解できなかったから。あれほどにも素晴らしい大作(夜明け前、破戒など)を発表する作家に「偽善者」は絶対にいない。ドストエーフスキー、ロマン・ローランを偽善者という者はおらん。狂気のレッテル貼りを許してなるものかの信念で、資料探ししていたら「リモージュの少女とパトワ(訛り)」を見つけた。この状況で涙を垂らす人は偽善者でないし、そんな状況を創作する作家はいない。文豪の内心を垣間見た想いで「性愛が救い」を取り上げた。

武内宿禰の祝詞から文豪の密通まで、どう数えても1600年。2000年の文題はイカサマとのご叱責を受けるかもしれない。辛口のこの指摘への答えは;
宿禰は5代天皇に仕え長寿350歳を全うした。仲哀天皇に祝詞を奉じたときは320歳であった。1600+320はおよそ2000、鯖読みの怖れを皆様の懐疑から払拭していただければ有り難い。
(2021年2月3日)本朝たはけ2000年了

補遺:以下は参考に
本文引用の古事記武内宿禰の祝詞は延喜式にて大祓い祝詞として位置付けられている。延喜式を開くと(国史大系、吉川弘文堂)
大祓6月晦、12月は之に準ず。そして式次第と祝詞。
冒頭「集まり侍る親王諸王諸臣百官人等、聞き給(食)え」「高天原に神留座しますに....」
から始まる。「穢れ」はこの数行の後に、
罪過すは雑雑なれど天津罪は畔放ち、溝埋め、樋放ち、頻蒔き、串刺し、生け剥ぎ、逆剥ぎ、屎戸。許許太久(これらの)罪。
國津罪は生き膚断ち死に膚断ち、白人、胡久美、己母犯罪、母輿子犯罪、子輿母犯罪、畜犯罪、昆虫災、高津神の災、高津鳥災、畜朴、マジ物の罪など許許太久(これらの)罪にあるぞ。如此出れば高津の宮の事を以て…
以下は現代語訳(ネット「開運の神様」から頂戴した)
「このように犯罪が出てきたなら、高天原の神事をもって、金属のような硬い木(高天原で使われるとされる祓串用の細い木)の上下を断ち切り、祭壇を設けてたくさんの供物を供え、高天原にある麻の木(天の管そ)の上下を断ち切り、多くの針で細く引き裂いて(=ぬさ)高天原伝来の神聖な祝詞【天つ祝詞の太祝詞事】を奏上しなさい….」

延喜式での罪の内訳は古事記宿禰の祝詞と変わるところ多くはないが、天津罪と国津罪に分けている。2分した延喜式なりの理由は想像するしかない、「素戔嗚尊が高天原でしでかした罪」を天津罪とし、他の全てを國津罪とする(折口信夫ら)に従う。延喜式は神社を天神と地祇に分離している。天神で天つ罪を祓い地祇で国つ罪を…との解釈は出任せに過ぎないけれど辻褄があいそうだ。そのうち調べる。
本朝たはけ2000年 補遺の了
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本朝たはけ2000年 4

2021年02月01日 | 小説
(2021年2月1日)本朝たはけ2000年 4
1600年の後、文豪と姪との密通を述べる。
大正の世、今となっては旧聞。語る人の口も絶えつつある。古い世代の方であれば「そんな話を聞いた」と思い出すこともあろうか。実態を抉るつもりなどここではないから、「文豪」とだけする。中野好夫の「文豪」伝(現代日本文学館、文藝春秋社の巻頭)からいくつかを借りる。妻の急死を前に、子二人を抱えた男所帯が成り立たない。姪の二人を呼び寄せ家事、育児を任せた。姉の姪は早々と嫁に出て妹が残る。
「人生の苦悩の始まりは青々とした新緑の映える5月」(明治45年1912年、姪の述懐)。過ちは夜毎、月ごと重なるばかり。しかし不倫は二人だけの秘密に固く守られ、(姪)の両親も含めて完全に守られていた。「他人に知られたら大変と、身近の女の方に覚えられせぬか、と気をつかったことでしたか」(姪)。
妊娠で危機は訪れた。男は日本脱出(大正2年1913年)、姪は無事に子を生む(大正3年1914年)。男はパリに滞在し、一次大戦中のパリから「佛蘭西便り」を朝日に寄稿する。後に出版(大正11年1922年)(Wikipediaなどネット調べ)。


佛蘭西便り初版本 大正11年刊 1円30銭也


彼ら心情を詮索すると、
1 作家も姪も行為を「罪」と自覚していない。ことの始まりが「新緑の5月」ならばそれが不倫に陰る道理がない。葉影の煌きもまばゆいまでの密通だったろうに。「責められ悩まされている」はずの苦悩から、男も姪も逃避する気配を全く見せない。出産を機に一旦は別れたけれど、男の帰国後(大正5年1916年)、すぐさま縒りが戻って再び私通の裏戸が抜ける。ここを正しく語れば、縒りなどそもそも捻れていなかった。世間から避難と示し合わせた3年一時を離れていただけ。
2 逃避する男の理由はバレたから。帰国してからは、ほとぼりが冷めたと密通が再び開いて閉じる帳の隙間もない。
3 姪が「苦悩」と感じたのは「世間体」である。世間だれもが許さないだろうとの慮り、守る秘密のしがらみを苦悩と感じている。しかし「罪」ともまして「穢れ」とも、これっぽしも、姪も男も感じていないと。(後に告白語りの「新生」を発表。世間は事実を受け入れ、畏れていた「不倫」糾弾はなかった)
男の姿勢を「偽善」と中野好夫は決めつける。直に本人を知り生き様に接し、姪との経緯にも実体験で気づいていた者ならではの感興であろう。「新生」で海棠の根を冬囲いする描写で「節子(姪の作品名)は岸本の内部に居るばかりでなく、庭の土にもいた」このサワリ、流石に文豪、庭土にも思いを残す心境を伝えていると読むのだけれど、中野は「もっとも嫌な言葉である」切り捨てた。
(心情を自然やモノに託す言い回しで文豪は他作家を寄せ付けない。それほどに「多感」と言えるしこの機微が作品を、暗さに、色づけている。情けの前に風紀を据える中野には、多感も機微も、これが偽善と切り捨てる勇気あるいは蛮勇か、の持ち主かもしれぬ)
偽善の意味を探ると、男は欲情に駆られ幼い身内の体をむさぼり、しかし作品では慕情に昇華させた。その位相転換を偽善とした。中野の蛮勇をこう読んだ。
はたしてそうだろうか。
近親婚(たはけ)のあらましをまとめる中で小筆は、ある人物との似通いに気づき身が震えた。軽皇子である。身分は違え、境遇とて近似はない。歳の差、関係の有様にも共通は見られない。1600年を隔てもしかし、二人は2の接点で重なる。1はともに日本人、もう一点が男の執着、相方を求める執拗さである。
日本人については後回しにして執着を語る。
男は海棠の根土に去った姪を思い返し、生身が覚える柔肌の触りを己の追憶と噛みしめる。これは情念。太古、貴子若者は鏡に願をかけ姫を浮き上がらせた。共に過ごした褥と家の思い出を燃え上がらせて入水した。これも情。
息が曇るより遠くに行ってくれるな、唇が肌に触れるまでに戻ってくれと乞い、身と身の近さに高震えし、ふれあう生の身生肌の記憶をかみしめて、もはや独り。それでもなおも
姫のぬくもりに皇子の情念が救いを求めた。
男にも求める救いの情けは同じ、救いを偽善と突き放せるのか。
どんな文で男が救いを綴っていたか。佛蘭西便りにそれを探るとこんな一節に出会った、
「小娘達が私に歌を聞かせるほど親しくなりました。パトワ(訛り=引用注)と称えるリモオジュの方言でできた里(人偏がつく)歌の一節をそれらのあどけない口唇から聞いたとき、思わず涙が迫りました」(87頁)
歌を一つ聞いて男が泣いたとは。大仰にすぎるこの反応を解く鍵は「パトワ、口唇」からこぼれる歌にある。姪を思い出したのだ。

姪と男は同郷育ち、しかし男は早くから東京に出て教育を受け、言葉も東京弁に染まっていた。時たまの帰郷に係累らと会えば、姪との接触はあったしその口唇からおおらかに発せられる地の方言も聞いていたはずだ。
鏡に写った姫の面影を皇子が抱いた、リモージュ訛りの少女の歌を聞いて男が涙した。感動するという精神原理が同じく働いた。
(2021年2月1日)本朝たはけ2000年 4の了

追:別の作品(破戒、夜明け…)などを読むと江戸末明治期の会話が方言のまま書き留められる。女性が「俺」と自称しているし「それだずら」、「それ」の強調「それだよ」であるが、などがおおらかに喋られていた。姪が育った明治末期でも状況は変わらずとして、訛りを発するリモージュ少女の唇が、男の涙を誘った次第を探った。
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