(2021年2月24日)「こっちは襟を正して覗くのだけれど、ひどい顔を返してくる。美を貶めて醜にダウングレードする、下手に出るとつけあがる典型ですよ」
大騒ぎながらも正と両側を鏡に見させてなんとか10秒が終わった。
「ご苦労であった、下がってよろしい」
「鏡に裏と表の心を持たせてはなりませぬ。世界と宇宙の表出に悪質な作為を加味させぬよう、日頃の躾けを心がけてくださいませ」
「心得た」
フデ女の引き下がりを見届け、
「どうだ、出来そうか」
「三次元の女面はしかとメモリーに入れた。眉から首筋まで各部品の規格も承った。部材と加工の手順が揃ったといえる。あとは組み立てに進むだけ」
「頼んだぞ」
鏡面からざわめきが消えた。いかなる影も表出していない。風が落ちた湖の隠れワンドの趣が漂う。来る瞬間を待ち望む老人の、逸る心だけが落ち着きを欠いた。
「小煩いと思われたら心外だ、しかし失敗は許されないぞ。今度こそ…迅速に…誤りを排して…」
ハタパタと鏡が揺れた。老人の催促を厭がる心情がせわしない揺れに見て取れる。
「くどいと疎まれるは残念なるも、念には念の教えもある、繰り返えそうぞ…手落ちがあっては…言い訳なし…」
揺れがひとしきり続くうえ振幅も大きくなってきた。
「これ鏡、焦るではない。要求がおまえの技量を凌ぐと我は知る。故に落ち着くのだ、時間を掛けても迅速に、丁寧作業といって大胆心を忘するな…」
鏡の揺れが止まった。白濁のモヤが鏡面を覆い始めた。その奥に人型らしい影が認められる。
「鏡の裏に何やらが見える。少しずつ近づいてくるぞ、これからおまえが映し出そうという顔影はアヤコ様となるか、あるいはそれを越すのか」影の近づきに合わせ老人の声が大きくなる。
立ち姿が半身に拡大し、その半身から顔面クローズアップが始まらんとする瞬間に入った。手を握り歯まで食いしばり見つめる老人の小煩さは大騒ぎとなり、もう怒鳴りまくりだ。
「いいな、眉は三日月、瞳は黒く輝いて、四方に放つ光状なんかは限りなく青い真っ黒…ワー」
「旦那様、ワーとは何が起こったので」衝立の陰からフデ女。
「フデか、何でもないのだ。少しだけ興奮したが落ち着いた。さあ、ここが勘所だ、顔の輪郭が浮き出たぞ。まだぼんやりだ。おぉ、各部品がくっきりし始めたぞ。ずずんずずんと見えてきた」
「何が起こりました、ずずんとか」
「何でもない、独り言じゃ、あっちへお行き」
「どうだ、出たぞー」は鏡の渾身の叫び。
「ワーゥオー」感銘した老人の叫びはもはや祈り。祈りに込める感動は歓喜かあるいは、
「アヤコ18才を令和の今に蘇らせたのだ。おい老人よ、何とか言え」
拝みの合わせ手で鏡の表を凝視する老人が、何とかの一言を喉から絞り出した。
「違うぞ、前と前の前と変わらん」
「そんなことはない、三日月、煌めきの青…全部揃っているじゃないか」
「前とはフデの覗き面、その前は最初の再現面。それらと今見せているこの面はすっかり同じだ」
「と言うことは」
「炭棒眉に炭団目玉、団子鼻にタラコ…」
「なんと、一向に進歩がないとは」
「儂はお前に図面のすべてを教えた。輪郭と部材の規格、それらの許容値まで。お前はヨーガスガッテンと請け負うが早呑み込みしているだけ。一向に製品が出来てこなかった」
「くすん…」
「軽皇子が所有していた鏡との性能の差は雲泥じゃ」
「月とすっぽん、太陽とコオロギ」
「それは儂の台詞だ。今度という今度はお前に愛想が尽きた。こうしてやる」
手元にあったドライバーで鏡面を叩いた。
「人殺しー」
老人は人を殺していない。しかし鏡を割った。
「がっちゃん、パリパリ」
打撃点を中心に蜘蛛の巣状のヒビが鏡面全体に入った。かろうじて破砕鏡面の崩落は発生しなかった。「ひゃー」が断末魔のあきらめ、もう鏡が話しかけることはない。
「なにが起きたのですか、一五郎とか聞こえました」
ただならぬ気配を察し、今度は書斎に乗り込んだフデ女。
「お前には良い報せであるぞ。この鏡の根性悪さは矯正できなかったから、少しだけ強く叩いてやったのさ」
「それは善行ですね。じゃあ、覗いてやるから。あらまぁ今はすっかり反省しているわよ」
「そんな筈はあるモノか、割れ鏡なんて死んでると同じだから」
老人が鏡を覗いた。なんとアヤコ様がそこに浮き出ていたのだ。
「これが正しい私の表情よ、うっとりするでしょう、もともと美形だもん。ひび割れるまで折檻を受けたから根性が良くなった鏡が、宇宙現象をそのまま反映していると理解したわ」
フデ女がうっとりこの顔を、己の正しい影と勘違いするほどに綺麗だった。
炭団眼の不美人相とアヤコ様の美形、両の見せかけ差は紙一重であった。
クロワッサンの極意とは出来たて熱いうちに食べる、バターを塗る(ノルマンディカーン産の発酵バターでなければ風味が落ちる)さらにConfi de ceriseさくらんぼジャムを載せる。コーヒーはエスプレッソ(湯気で機械式に抽出する)の苦味と合う。これらを用意できるのはホテルとなる。食べる人は彼の地であればB.Bardot,日本ではやはりアヤコ様だ。老人がこれを食べると冷やかされる。
追:翌朝、K老人は所用あって日野バイパスに出た。モーニングが充実しているとの評判喫茶店でコーヒーを楽しむとした。サービスに指定したクロワッサンに合わせようと、深煎りコーヒーミルクなしを注文した。出来たて熱々クロワッサンにサクランボジャムをべったり塗って三日月の尻を囓った。母と子が彼の前を通る。
「坊や、サービスに何を頼む」
「クロワッサンって何」
「あのおじさんが食べている」
子供はK老人を真ん前から指さし大声で「この人はクロオッサンだ」母と子が笑い転げた。
「怒らないさ、だって不美人と美形の逆相差の大原則を昨日発見したのだから。整合している顔が不美人で美人はその歪みであると」K老人の独り言であった。
抱き合い心中魔鏡クロワッサン 了(2021年2月24日)
大騒ぎながらも正と両側を鏡に見させてなんとか10秒が終わった。
「ご苦労であった、下がってよろしい」
「鏡に裏と表の心を持たせてはなりませぬ。世界と宇宙の表出に悪質な作為を加味させぬよう、日頃の躾けを心がけてくださいませ」
「心得た」
フデ女の引き下がりを見届け、
「どうだ、出来そうか」
「三次元の女面はしかとメモリーに入れた。眉から首筋まで各部品の規格も承った。部材と加工の手順が揃ったといえる。あとは組み立てに進むだけ」
「頼んだぞ」
鏡面からざわめきが消えた。いかなる影も表出していない。風が落ちた湖の隠れワンドの趣が漂う。来る瞬間を待ち望む老人の、逸る心だけが落ち着きを欠いた。
「小煩いと思われたら心外だ、しかし失敗は許されないぞ。今度こそ…迅速に…誤りを排して…」
ハタパタと鏡が揺れた。老人の催促を厭がる心情がせわしない揺れに見て取れる。
「くどいと疎まれるは残念なるも、念には念の教えもある、繰り返えそうぞ…手落ちがあっては…言い訳なし…」
揺れがひとしきり続くうえ振幅も大きくなってきた。
「これ鏡、焦るではない。要求がおまえの技量を凌ぐと我は知る。故に落ち着くのだ、時間を掛けても迅速に、丁寧作業といって大胆心を忘するな…」
鏡の揺れが止まった。白濁のモヤが鏡面を覆い始めた。その奥に人型らしい影が認められる。
「鏡の裏に何やらが見える。少しずつ近づいてくるぞ、これからおまえが映し出そうという顔影はアヤコ様となるか、あるいはそれを越すのか」影の近づきに合わせ老人の声が大きくなる。
立ち姿が半身に拡大し、その半身から顔面クローズアップが始まらんとする瞬間に入った。手を握り歯まで食いしばり見つめる老人の小煩さは大騒ぎとなり、もう怒鳴りまくりだ。
「いいな、眉は三日月、瞳は黒く輝いて、四方に放つ光状なんかは限りなく青い真っ黒…ワー」
「旦那様、ワーとは何が起こったので」衝立の陰からフデ女。
「フデか、何でもないのだ。少しだけ興奮したが落ち着いた。さあ、ここが勘所だ、顔の輪郭が浮き出たぞ。まだぼんやりだ。おぉ、各部品がくっきりし始めたぞ。ずずんずずんと見えてきた」
「何が起こりました、ずずんとか」
「何でもない、独り言じゃ、あっちへお行き」
「どうだ、出たぞー」は鏡の渾身の叫び。
「ワーゥオー」感銘した老人の叫びはもはや祈り。祈りに込める感動は歓喜かあるいは、
「アヤコ18才を令和の今に蘇らせたのだ。おい老人よ、何とか言え」
拝みの合わせ手で鏡の表を凝視する老人が、何とかの一言を喉から絞り出した。
「違うぞ、前と前の前と変わらん」
「そんなことはない、三日月、煌めきの青…全部揃っているじゃないか」
「前とはフデの覗き面、その前は最初の再現面。それらと今見せているこの面はすっかり同じだ」
「と言うことは」
「炭棒眉に炭団目玉、団子鼻にタラコ…」
「なんと、一向に進歩がないとは」
「儂はお前に図面のすべてを教えた。輪郭と部材の規格、それらの許容値まで。お前はヨーガスガッテンと請け負うが早呑み込みしているだけ。一向に製品が出来てこなかった」
「くすん…」
「軽皇子が所有していた鏡との性能の差は雲泥じゃ」
「月とすっぽん、太陽とコオロギ」
「それは儂の台詞だ。今度という今度はお前に愛想が尽きた。こうしてやる」
手元にあったドライバーで鏡面を叩いた。
「人殺しー」
老人は人を殺していない。しかし鏡を割った。
「がっちゃん、パリパリ」
打撃点を中心に蜘蛛の巣状のヒビが鏡面全体に入った。かろうじて破砕鏡面の崩落は発生しなかった。「ひゃー」が断末魔のあきらめ、もう鏡が話しかけることはない。
「なにが起きたのですか、一五郎とか聞こえました」
ただならぬ気配を察し、今度は書斎に乗り込んだフデ女。
「お前には良い報せであるぞ。この鏡の根性悪さは矯正できなかったから、少しだけ強く叩いてやったのさ」
「それは善行ですね。じゃあ、覗いてやるから。あらまぁ今はすっかり反省しているわよ」
「そんな筈はあるモノか、割れ鏡なんて死んでると同じだから」
老人が鏡を覗いた。なんとアヤコ様がそこに浮き出ていたのだ。
「これが正しい私の表情よ、うっとりするでしょう、もともと美形だもん。ひび割れるまで折檻を受けたから根性が良くなった鏡が、宇宙現象をそのまま反映していると理解したわ」
フデ女がうっとりこの顔を、己の正しい影と勘違いするほどに綺麗だった。
炭団眼の不美人相とアヤコ様の美形、両の見せかけ差は紙一重であった。
クロワッサンの極意とは出来たて熱いうちに食べる、バターを塗る(ノルマンディカーン産の発酵バターでなければ風味が落ちる)さらにConfi de ceriseさくらんぼジャムを載せる。コーヒーはエスプレッソ(湯気で機械式に抽出する)の苦味と合う。これらを用意できるのはホテルとなる。食べる人は彼の地であればB.Bardot,日本ではやはりアヤコ様だ。老人がこれを食べると冷やかされる。
追:翌朝、K老人は所用あって日野バイパスに出た。モーニングが充実しているとの評判喫茶店でコーヒーを楽しむとした。サービスに指定したクロワッサンに合わせようと、深煎りコーヒーミルクなしを注文した。出来たて熱々クロワッサンにサクランボジャムをべったり塗って三日月の尻を囓った。母と子が彼の前を通る。
「坊や、サービスに何を頼む」
「クロワッサンって何」
「あのおじさんが食べている」
子供はK老人を真ん前から指さし大声で「この人はクロオッサンだ」母と子が笑い転げた。
「怒らないさ、だって不美人と美形の逆相差の大原則を昨日発見したのだから。整合している顔が不美人で美人はその歪みであると」K老人の独り言であった。
抱き合い心中魔鏡クロワッサン 了(2021年2月24日)