以下、今村明恒の日記より。
大正十二年九月一〇日(月曜)
震災予防調査会の委員でもある寺田寅彦博士の意見に従って、この大地震後初めての震災予防調査会の委員会を十二日に開くことにした。
九月一三日(木曜)
午前中に、昨日の委員会で特別委員として選ばれた中村清二博士、寺田寅彦博士、佐野博士と地震学教室で集まって打ち合わせ、午後にもまた、打ち合わせの会合を開いた。
九月一七日(月曜)
これまでは登山服姿でもっぱら徒歩で調査をして歩いていたが、今日からは震災予防調査会で自動車を一台借りられることになった。この車を使って午前中は池田理学士たちと千住までの調査、午後は寺田寅彦博士たちと浅草今戸あたりまで調査に出かけた。
九月一八日(火曜)
震災予防調査会で新規に加えた委員の顔ぶれが、ようやく揃った。
午前中、消防本部を訪れて、新たに委員に加わった緒方氏と会った。今回の大火災では消防は必死の努力をした。消防署員をはじめ、署長さえ殉職した例が多かった。二昼夜も悪戦苦闘を続け、とくに本所、深川では五つの消防隊のうち三つまでもが全滅したほどであった。(中略)以下、消防部が発表した記事によってこれほどの大火災を招いた原因を解析し、今後の地震火災を予防する参考にしたい。(中略)
午後は中村清二、寺田寅彦両博士たちと和泉町や向柳原で焼け残った地域を訪れ、さらに本所深川を経て、小松川までを調査した。和泉町と向柳原は下町としては珍しく焼け残ったところである。和泉町は東側に建っていた済生会病院の煉瓦建築が防火壁として作用したもので、向柳原は火流がまわりを一周したのに、松浦伯爵邸の泉水が火事を防ぎ止めたものであった。
九月二〇日(木曜)
中村清二、寺田寅彦両博士、池田学士などと、震災後初めて横浜まで調査に出かけた。品川あたりまでは都内とそれほど違わない被災状況だったが、大森から先は震動による被害がずっと大きいのが目立った。
九月二二日(土曜)
午前は久々に雨が降ったので地質調査所を訪れて、地盤調査の進み具合を聞いた。
昼からは中村清二、寺田寅彦両博士と本所深川方面を調査し、小松川まで行った。
九月二七日(木曜)
中村清二、寺田寅彦博士らと本所の被服廠跡や安田邸に行って、火災旋風の研究をした。旋風の向きは反時計方向だったこと、その風速は極めて強かったことが、風で根こそぎなぎ倒された樹木から分かった。また自転車さえも高く舞い上げられて銀杏の高いところに引っかかっていたそうである。つまり被服廠での何万という犠牲者は、このような火災旋風に煽られた炎によって、ごく短い間に焼き尽くされてしまったものであろう。この火災旋風は今回の震災でももっとも悲惨な被害だったから、今後さらに詳細に研究する必要がある。
前回、ご紹介いたしました「地震研究所」ですが、この組織体が正式に発足しましたのが、大正14年です。この震災当時はまだ「震災予防調査会」として活動しております。
今村は寺田と共に、実地調査を日々行っております。
ちょうど、九月二十五日には、今村単独で茅ヶ崎→辻堂→大船→鎌倉と調査しております。
現在酔漢がおります地域も甚大な被害を受けておりました。
ですが、今住んでいる地域、地域には関東大震災を思い出させるような記録(例えば碑であるとか)はありません。多少はあるのでしょうが、実際に生活している中では、意識する機会はないのです。後程語りますが、寺田はこの「人間の忘却癖」を殊更強調し、戒めとして報告を行っております。
「先生(寺田寅彦)、これは、この火災の様子は、一体どうとらえればいいのでしょうか?」
寺田寅彦は今村より8歳下。しかしながら助教授の今村と違い、寺田は理学部の教授です。
ですが、寺田は今村を尊敬しているかのような態度で話をしております。
前回の「くだまき」では、「今村の震災襲来説」を語りましたが、寺田は「この意見には調査を密にする必要があるが大変興味深い論評であった」と評価しております。
「これはね、今村先生。ふつうの火事ではないと私は考えている」
「普通の火事では、このような被害はない。これは私にもわかるのですが、実際はどのような現象なのでしょうか」
「ただの火事で、樹木がなぎ倒されることはない、だが一定の方向に全部の木が倒れている。強い風が起きたと考えるべきだ。しかも反時計に風が回っている」
「旋風が起きたと・・」
「そう考えて間違いない。『火災旋風』それも強烈に・・・おそらく震災当日の積乱雲は火災による上昇気流によって出来たものだと考えてよかろうかと・・」
九月二十七(水)の様子は寺田が小宮豊隆に宛てた絵葉書に記されております。
ここで少しばかり小宮豊隆についてお話したいと思います。
丹治さんとの会話です。
「丹治さん、寺田の震災記録を追いかけているうち、独文学者の『小宮豊隆』という名に出会ったのっしゃ・・・知ってるすか?」
「明治から昭和初期にかけての独文学者だな。東北帝大から東北大学にかけて、教授をしていたんだ」
「んで、仙台さぁ縁のある人だったのすか?」
「そうだなぁ。親父(丹治寿太郎先生)が四代後で俺が五代後の孫弟子にあたる」
「先輩は小宮の直系の独文学者だったのすか!御先生(酔漢は寿太郎先生をこう呼びます。因みに我が親父殿は、寿太郎先生の塩竈中学の後輩でして。やはり「丹治先輩」だったのでした)もそうだったのすか!」(これで少し宮城と繋がりました・・・)
寺田は漱石から小宮を紹介され、頻繁に書簡を交わしております。
寺田が小宮に宛てた十月十日(消印十月十一日)の絵葉書にその様子が記されております。
下記の写真は浅草の様子で、文に登場します「本所」ではありませんが、このように認めております。
(略)僕は毎日早朝から地震学教室へ行っていろいろの調べをして居ます。いろいろの問題が手に余る程続々と出て来る。時々自動車で焼跡を見に行つたり、警察署や消防署やいろんな役所へ材料を求めに行く。(中略)調べて居る事は、第一に今度の火災の火の流れの経路を調べて刻々に火の進んだ状況をrecontructして後日の為の防火施設の参考にしやうといふので、此方は中村教授(上記、今村日記にございます「中村清二」の事です。女優中村メイコさんはそのお兄様のお孫さんに当たります。地球物理では浅間山の火山活動の研究で有名です)や学生の多数と一所にやって居ます。(中略)火事の時に起こつた竜巻の調べです。本所の被服廠空地で四万人の焼死者を生じた旋風の生因を確かめる事は可也必要な事と思つて居ます。
今村と寺田は警察署でその被害の詳細を調査しております。
再び、二人の行動を今村の日記から見てみます。
十月一日(月曜)
近頃は、東京市内で消失してしまった地域で、消失以前の、つまり地震直後の家屋の被害状況を調べている。このためには、そこに住んでいた被災者から聞き出す必要がある。この仕事は学生諸君に依頼した。私は警察の調査を聞いてまわっている。
警察によっては地震直後に機敏に巡査をまわらせて調べ上げたところもあり、他方火のまわりが早かったために調査が出来なかったところも多かった。この後者の場合は、受持巡査の記憶を辿ってもらって聞き出した。
今日の午後は寺田寅彦博士と一緒に、相生、西平野、太平、亀戸の各警察署を歴訪した。(中略)今日の調査でもっとも印象が深かったのは、被服廠跡で遭難したが幸いに助かった相生警察署の警部補、佐々木俊雄氏と小浜氏の話だった。(中略)被服廠跡で助かった人たちは約二千人とのことだが、彼らの多くは被服廠跡の中央から南に避難していた人たちだった。彼らは僅かな水を土に浸して、それを皮膚に塗って火を避けたり、地面にうつぶせになって地面に向かって呼吸したことで、ようやく助かったという。 警官らが目撃した話では、火災旋風の炎に襲われた人々は、見る間に黒焦げになって、たちまち息が絶えていったという。(後略)
十月二日(火曜)
寺田寅彦博士とともに、午前中は原庭警察署と南元町警察署へ、午後は南千住警察署と警察署回りをして資料を集めた。どこでも貴重な資料が得られたが、中でも南元警察署では後の火災で管内が消失してしまったのに、その前に管内の各町内の倒壊家屋の調査をしていたのには感服した。
十月六日(土曜)
寺田寅彦博士と上野警察署と日本堤警察署へ行った。
この署内に洲崎や吉原がある。地震後は震災調査のために何度か通ったが、地震の前には訪れたことはなく焼け跡を見ただけなので、どうにも感じがつかめない。こんなことならば「ナマのうちの」須崎や吉原を見ておけばよかったとつぶやいていたら、謹厳実直な寺田寅彦博士も、笑いながら同感された。
寺田寅彦が遊郭ネタで笑った。
この事実に多少驚いた?酔漢でございました。
十月七日(日曜)
中村清二、寺田寅彦両博士と坂本警察署と象潟警察署へ行った。この日とくに印象が深かったのは坂本署長が火災を食い止めた話だった。ここでは地下の水道管が地震で破損して全く水が出なくなっていて、出動した消防隊も軍隊もすでに諦めていた。しかし坂本署長は屈せず、署員を指揮、督励して、梯子や縄を使って燃えているところを引き倒して火を小さくするのを試みた。「引き倒し消防」である。 そして通りかかった男たちまでも警察署長の権限で強制して引き倒し作業に参加させ、ついに猛火をくい止めたのであった。このため根岸、日暮里、金杉の一帯に火が回るのが防がれたことになった。
寺田、中村、今村等、一体いつ休んでいるのだろう。ふと、日記から二人(中村を含めると三人)の行動を追いかけておりますと、震災以来一か月以上たったこの日でさえ、調査研究の日となっております。
彼らは、調査しながら、このくだまきでは割愛している部分ですが、寺田も今村も、その記録の端端に「今後の防災へ生かす術を」と記しております。
後世に残すべき仕事を、誠心誠意取り組んでいることが解ります。
そして、これは「くだまき」での自身の感想として語ったことと同じ思いを寺田が吐露している文章に出会いました。
十月三十一日(水)消印十一月一日
日が立つにつれてはじめて段々に災害のひどかつた事がリアライズされて来るやうに思ふ。当時平気で見て居た光景が、今頃活動などで見ると却つて非常に悲惨に思はれてセンチメンタルになることがある。
余所行きに着かへて避難準備をして街路の真中に立つて向ふの方のやけるのを一心に見て居る子供づれなどを見ると変な気になる。
今日は天長節でバラツク軒並の国旗は賑やかで淋しくなる。
酔漢が昨年五月二日に七ヶ浜を徒歩で周回したことは「くだまき」にしたところです。
亦楽小学校に何百の鯉のぼりが悠々と泳いでおりました。
その先に見える風景は仮設住宅と松林が全て無くなった故郷の海でした。
寺田の気持ちは少しばかりそれに似ていたのかと、ふと思いました。
本日は少しばかり淡々と二人の行動を追いかけた「くだまき」としました。
二人が目撃したもの。
二人が後世に残そうとしたもの。
次回、本題に入ります。
寺田寅彦は「津浪」というものに対して、大変厳しい論説を記しております。
記録を紐解き、また寺田の指摘、助言、を拝読し、胸が締め付けられそうな思いが過りました。
大正十二年九月一〇日(月曜)
震災予防調査会の委員でもある寺田寅彦博士の意見に従って、この大地震後初めての震災予防調査会の委員会を十二日に開くことにした。
九月一三日(木曜)
午前中に、昨日の委員会で特別委員として選ばれた中村清二博士、寺田寅彦博士、佐野博士と地震学教室で集まって打ち合わせ、午後にもまた、打ち合わせの会合を開いた。
九月一七日(月曜)
これまでは登山服姿でもっぱら徒歩で調査をして歩いていたが、今日からは震災予防調査会で自動車を一台借りられることになった。この車を使って午前中は池田理学士たちと千住までの調査、午後は寺田寅彦博士たちと浅草今戸あたりまで調査に出かけた。
九月一八日(火曜)
震災予防調査会で新規に加えた委員の顔ぶれが、ようやく揃った。
午前中、消防本部を訪れて、新たに委員に加わった緒方氏と会った。今回の大火災では消防は必死の努力をした。消防署員をはじめ、署長さえ殉職した例が多かった。二昼夜も悪戦苦闘を続け、とくに本所、深川では五つの消防隊のうち三つまでもが全滅したほどであった。(中略)以下、消防部が発表した記事によってこれほどの大火災を招いた原因を解析し、今後の地震火災を予防する参考にしたい。(中略)
午後は中村清二、寺田寅彦両博士たちと和泉町や向柳原で焼け残った地域を訪れ、さらに本所深川を経て、小松川までを調査した。和泉町と向柳原は下町としては珍しく焼け残ったところである。和泉町は東側に建っていた済生会病院の煉瓦建築が防火壁として作用したもので、向柳原は火流がまわりを一周したのに、松浦伯爵邸の泉水が火事を防ぎ止めたものであった。
九月二〇日(木曜)
中村清二、寺田寅彦両博士、池田学士などと、震災後初めて横浜まで調査に出かけた。品川あたりまでは都内とそれほど違わない被災状況だったが、大森から先は震動による被害がずっと大きいのが目立った。
九月二二日(土曜)
午前は久々に雨が降ったので地質調査所を訪れて、地盤調査の進み具合を聞いた。
昼からは中村清二、寺田寅彦両博士と本所深川方面を調査し、小松川まで行った。
九月二七日(木曜)
中村清二、寺田寅彦博士らと本所の被服廠跡や安田邸に行って、火災旋風の研究をした。旋風の向きは反時計方向だったこと、その風速は極めて強かったことが、風で根こそぎなぎ倒された樹木から分かった。また自転車さえも高く舞い上げられて銀杏の高いところに引っかかっていたそうである。つまり被服廠での何万という犠牲者は、このような火災旋風に煽られた炎によって、ごく短い間に焼き尽くされてしまったものであろう。この火災旋風は今回の震災でももっとも悲惨な被害だったから、今後さらに詳細に研究する必要がある。
前回、ご紹介いたしました「地震研究所」ですが、この組織体が正式に発足しましたのが、大正14年です。この震災当時はまだ「震災予防調査会」として活動しております。
今村は寺田と共に、実地調査を日々行っております。
ちょうど、九月二十五日には、今村単独で茅ヶ崎→辻堂→大船→鎌倉と調査しております。
現在酔漢がおります地域も甚大な被害を受けておりました。
ですが、今住んでいる地域、地域には関東大震災を思い出させるような記録(例えば碑であるとか)はありません。多少はあるのでしょうが、実際に生活している中では、意識する機会はないのです。後程語りますが、寺田はこの「人間の忘却癖」を殊更強調し、戒めとして報告を行っております。
「先生(寺田寅彦)、これは、この火災の様子は、一体どうとらえればいいのでしょうか?」
寺田寅彦は今村より8歳下。しかしながら助教授の今村と違い、寺田は理学部の教授です。
ですが、寺田は今村を尊敬しているかのような態度で話をしております。
前回の「くだまき」では、「今村の震災襲来説」を語りましたが、寺田は「この意見には調査を密にする必要があるが大変興味深い論評であった」と評価しております。
「これはね、今村先生。ふつうの火事ではないと私は考えている」
「普通の火事では、このような被害はない。これは私にもわかるのですが、実際はどのような現象なのでしょうか」
「ただの火事で、樹木がなぎ倒されることはない、だが一定の方向に全部の木が倒れている。強い風が起きたと考えるべきだ。しかも反時計に風が回っている」
「旋風が起きたと・・」
「そう考えて間違いない。『火災旋風』それも強烈に・・・おそらく震災当日の積乱雲は火災による上昇気流によって出来たものだと考えてよかろうかと・・」
九月二十七(水)の様子は寺田が小宮豊隆に宛てた絵葉書に記されております。
ここで少しばかり小宮豊隆についてお話したいと思います。
丹治さんとの会話です。
「丹治さん、寺田の震災記録を追いかけているうち、独文学者の『小宮豊隆』という名に出会ったのっしゃ・・・知ってるすか?」
「明治から昭和初期にかけての独文学者だな。東北帝大から東北大学にかけて、教授をしていたんだ」
「んで、仙台さぁ縁のある人だったのすか?」
「そうだなぁ。親父(丹治寿太郎先生)が四代後で俺が五代後の孫弟子にあたる」
「先輩は小宮の直系の独文学者だったのすか!御先生(酔漢は寿太郎先生をこう呼びます。因みに我が親父殿は、寿太郎先生の塩竈中学の後輩でして。やはり「丹治先輩」だったのでした)もそうだったのすか!」(これで少し宮城と繋がりました・・・)
寺田は漱石から小宮を紹介され、頻繁に書簡を交わしております。
寺田が小宮に宛てた十月十日(消印十月十一日)の絵葉書にその様子が記されております。
下記の写真は浅草の様子で、文に登場します「本所」ではありませんが、このように認めております。
(略)僕は毎日早朝から地震学教室へ行っていろいろの調べをして居ます。いろいろの問題が手に余る程続々と出て来る。時々自動車で焼跡を見に行つたり、警察署や消防署やいろんな役所へ材料を求めに行く。(中略)調べて居る事は、第一に今度の火災の火の流れの経路を調べて刻々に火の進んだ状況をrecontructして後日の為の防火施設の参考にしやうといふので、此方は中村教授(上記、今村日記にございます「中村清二」の事です。女優中村メイコさんはそのお兄様のお孫さんに当たります。地球物理では浅間山の火山活動の研究で有名です)や学生の多数と一所にやって居ます。(中略)火事の時に起こつた竜巻の調べです。本所の被服廠空地で四万人の焼死者を生じた旋風の生因を確かめる事は可也必要な事と思つて居ます。
今村と寺田は警察署でその被害の詳細を調査しております。
再び、二人の行動を今村の日記から見てみます。
十月一日(月曜)
近頃は、東京市内で消失してしまった地域で、消失以前の、つまり地震直後の家屋の被害状況を調べている。このためには、そこに住んでいた被災者から聞き出す必要がある。この仕事は学生諸君に依頼した。私は警察の調査を聞いてまわっている。
警察によっては地震直後に機敏に巡査をまわらせて調べ上げたところもあり、他方火のまわりが早かったために調査が出来なかったところも多かった。この後者の場合は、受持巡査の記憶を辿ってもらって聞き出した。
今日の午後は寺田寅彦博士と一緒に、相生、西平野、太平、亀戸の各警察署を歴訪した。(中略)今日の調査でもっとも印象が深かったのは、被服廠跡で遭難したが幸いに助かった相生警察署の警部補、佐々木俊雄氏と小浜氏の話だった。(中略)被服廠跡で助かった人たちは約二千人とのことだが、彼らの多くは被服廠跡の中央から南に避難していた人たちだった。彼らは僅かな水を土に浸して、それを皮膚に塗って火を避けたり、地面にうつぶせになって地面に向かって呼吸したことで、ようやく助かったという。 警官らが目撃した話では、火災旋風の炎に襲われた人々は、見る間に黒焦げになって、たちまち息が絶えていったという。(後略)
十月二日(火曜)
寺田寅彦博士とともに、午前中は原庭警察署と南元町警察署へ、午後は南千住警察署と警察署回りをして資料を集めた。どこでも貴重な資料が得られたが、中でも南元警察署では後の火災で管内が消失してしまったのに、その前に管内の各町内の倒壊家屋の調査をしていたのには感服した。
十月六日(土曜)
寺田寅彦博士と上野警察署と日本堤警察署へ行った。
この署内に洲崎や吉原がある。地震後は震災調査のために何度か通ったが、地震の前には訪れたことはなく焼け跡を見ただけなので、どうにも感じがつかめない。こんなことならば「ナマのうちの」須崎や吉原を見ておけばよかったとつぶやいていたら、謹厳実直な寺田寅彦博士も、笑いながら同感された。
寺田寅彦が遊郭ネタで笑った。
この事実に多少驚いた?酔漢でございました。
十月七日(日曜)
中村清二、寺田寅彦両博士と坂本警察署と象潟警察署へ行った。この日とくに印象が深かったのは坂本署長が火災を食い止めた話だった。ここでは地下の水道管が地震で破損して全く水が出なくなっていて、出動した消防隊も軍隊もすでに諦めていた。しかし坂本署長は屈せず、署員を指揮、督励して、梯子や縄を使って燃えているところを引き倒して火を小さくするのを試みた。「引き倒し消防」である。 そして通りかかった男たちまでも警察署長の権限で強制して引き倒し作業に参加させ、ついに猛火をくい止めたのであった。このため根岸、日暮里、金杉の一帯に火が回るのが防がれたことになった。
寺田、中村、今村等、一体いつ休んでいるのだろう。ふと、日記から二人(中村を含めると三人)の行動を追いかけておりますと、震災以来一か月以上たったこの日でさえ、調査研究の日となっております。
彼らは、調査しながら、このくだまきでは割愛している部分ですが、寺田も今村も、その記録の端端に「今後の防災へ生かす術を」と記しております。
後世に残すべき仕事を、誠心誠意取り組んでいることが解ります。
そして、これは「くだまき」での自身の感想として語ったことと同じ思いを寺田が吐露している文章に出会いました。
十月三十一日(水)消印十一月一日
日が立つにつれてはじめて段々に災害のひどかつた事がリアライズされて来るやうに思ふ。当時平気で見て居た光景が、今頃活動などで見ると却つて非常に悲惨に思はれてセンチメンタルになることがある。
余所行きに着かへて避難準備をして街路の真中に立つて向ふの方のやけるのを一心に見て居る子供づれなどを見ると変な気になる。
今日は天長節でバラツク軒並の国旗は賑やかで淋しくなる。
酔漢が昨年五月二日に七ヶ浜を徒歩で周回したことは「くだまき」にしたところです。
亦楽小学校に何百の鯉のぼりが悠々と泳いでおりました。
その先に見える風景は仮設住宅と松林が全て無くなった故郷の海でした。
寺田の気持ちは少しばかりそれに似ていたのかと、ふと思いました。
本日は少しばかり淡々と二人の行動を追いかけた「くだまき」としました。
二人が目撃したもの。
二人が後世に残そうとしたもの。
次回、本題に入ります。
寺田寅彦は「津浪」というものに対して、大変厳しい論説を記しております。
記録を紐解き、また寺田の指摘、助言、を拝読し、胸が締め付けられそうな思いが過りました。
でも飽くまでも系図の「上」だけのことです。
小宮豊隆先生は漱石門下。
寺田寅彦とは同門ですね。
小宮先生、独文学者ですが
漱石全集の校訂も手がけております。
専門外にしてこの学殖。
昔の大学者にはとてもとてもかないません。