昨日、従兄(酔漢より一つ上。塩竃市玉川在住)より電話があった。
「今、七ヶ浜に来ている。災害状況が解らず気になった。道もだいぶ通れるようになっている。花渕まで行ってみる」
驚いた。丹治さんからのメールは先に紹介した通りである。
「道路は不通。通行禁止」だった。
「途中、障害物が多いのではないか。充分気をつけるようにしてください」
これで一度電話を切った。
「どこまで行きつけるのだろうか。無理はしないで欲しい」
そう思った。
昼近く、彼から再び連絡。
「被害状況をメールで送信する」
数枚の写真が電送されてきた。
一枚、また一枚。
送られてきた写真はどれも悲惨な状況を写していた。
(個人を特定する写真もありましたので、検討し、今後掲載いたします)
「ひーさんの散歩道」(左下、リンク先参照)では、汐見台、菖蒲田の様子があった。
しかし、七ヶ浜奥、同性寺あたりはどうなっているのか非常に気になっていた。
はたして、その様子が少しは把握出来た。
やはり、この言葉を今日も使うのか。もう何度目になったろう。
「唖然、驚愕、そして茫然」
小学校の時、震度4の地震(と当時発表された)を経験した。あの松島の景勝「材木島」が崩れた、あの地震である。
そのあと、父と津波の話をした記憶があった。
「塩竈に津波が来たら」
「チリの時は、今の本塩釜駅まで船があがった。死者は一人だったと思う」
「七ヶ浜はどうだった」
「花渕浜へは津波が来て、だけんど被害は記憶がねぇなや」
であった。
チリ地震津波は「津波警報」が発令されていない。(これが被害を大きくした)しかし、父は潮が急激に引くのを見て、君が岡へ避難した(愛車、ハンターカブ)と言っていた。
「潮が急激に引いたのに気づいた人がいたんだべ。半鐘があちこちで鳴った。多くの人が高台に上がってきた」
この知恵が、当時被害を少なくしたのだろう。
この地域の人達は決して「津波に素人」ではなかったはずだ。
釜石をはじめ、三陸沿岸に住む人達にとって「津波から、身を守る術」は、他の日本人にくらべて、教育もされ、その恐ろしさは肌で感じている。
体験の少ない小学生にはお年寄りがその体験談を聞かせていた。
未曾有の津波だった。
言葉が出ない。
「家が横倒しになっていた」
「花渕港は残骸だらけ。ガソリンスタンド(細道と、菖蒲田方面へ大きく曲がっている個所、ヨットハーバーへの入り口。漁港のそば)から、港側にあった家は流されている」
彼からの話であった。
上記、写真。
馴染の道である。
昨年は父が亡くなったこともあり、この同性寺までの道を何度往復したことか。
また、瓦礫が散乱している場所は田圃。
祖父の祖父の前からの田であった。
何度、遊んだことか。そして、ここのお米を何度頂いたことか。
津波は、花渕城岸壁を迂回し、周辺の家をなぎ倒した後、この道に沿って、奥まで侵入。
同姓寺まで至っている。
波の高さ。想像できずにいる。
同性寺本堂の写真も送られて来た。
ご住職は、本家の方々、親類の方々。心配である。避難所にいるのか。
花渕では祖母姉が亡くなったと聞いた。
心痛再び我身を襲う。
「もっと長生きしていただきたかった」
一昨日、藤沢自宅へ届いた一通の案内状。
父一周忌法要の案内。
日時 5月1日(日曜日) 午前十時~
場所 七ヶ浜花渕浜 同性寺
案内状は妹が作り、酔漢そして母との連名。
消印は、三月十一日。
地震が襲うほんの数時間前。
塩竈から母が投函したものであった。
「今、七ヶ浜に来ている。災害状況が解らず気になった。道もだいぶ通れるようになっている。花渕まで行ってみる」
驚いた。丹治さんからのメールは先に紹介した通りである。
「道路は不通。通行禁止」だった。
「途中、障害物が多いのではないか。充分気をつけるようにしてください」
これで一度電話を切った。
「どこまで行きつけるのだろうか。無理はしないで欲しい」
そう思った。
昼近く、彼から再び連絡。
「被害状況をメールで送信する」
数枚の写真が電送されてきた。
一枚、また一枚。
送られてきた写真はどれも悲惨な状況を写していた。
(個人を特定する写真もありましたので、検討し、今後掲載いたします)
「ひーさんの散歩道」(左下、リンク先参照)では、汐見台、菖蒲田の様子があった。
しかし、七ヶ浜奥、同性寺あたりはどうなっているのか非常に気になっていた。
はたして、その様子が少しは把握出来た。
やはり、この言葉を今日も使うのか。もう何度目になったろう。
「唖然、驚愕、そして茫然」
小学校の時、震度4の地震(と当時発表された)を経験した。あの松島の景勝「材木島」が崩れた、あの地震である。
そのあと、父と津波の話をした記憶があった。
「塩竈に津波が来たら」
「チリの時は、今の本塩釜駅まで船があがった。死者は一人だったと思う」
「七ヶ浜はどうだった」
「花渕浜へは津波が来て、だけんど被害は記憶がねぇなや」
であった。
チリ地震津波は「津波警報」が発令されていない。(これが被害を大きくした)しかし、父は潮が急激に引くのを見て、君が岡へ避難した(愛車、ハンターカブ)と言っていた。
「潮が急激に引いたのに気づいた人がいたんだべ。半鐘があちこちで鳴った。多くの人が高台に上がってきた」
この知恵が、当時被害を少なくしたのだろう。
この地域の人達は決して「津波に素人」ではなかったはずだ。
釜石をはじめ、三陸沿岸に住む人達にとって「津波から、身を守る術」は、他の日本人にくらべて、教育もされ、その恐ろしさは肌で感じている。
体験の少ない小学生にはお年寄りがその体験談を聞かせていた。
未曾有の津波だった。
言葉が出ない。
「家が横倒しになっていた」
「花渕港は残骸だらけ。ガソリンスタンド(細道と、菖蒲田方面へ大きく曲がっている個所、ヨットハーバーへの入り口。漁港のそば)から、港側にあった家は流されている」
彼からの話であった。
上記、写真。
馴染の道である。
昨年は父が亡くなったこともあり、この同性寺までの道を何度往復したことか。
また、瓦礫が散乱している場所は田圃。
祖父の祖父の前からの田であった。
何度、遊んだことか。そして、ここのお米を何度頂いたことか。
津波は、花渕城岸壁を迂回し、周辺の家をなぎ倒した後、この道に沿って、奥まで侵入。
同姓寺まで至っている。
波の高さ。想像できずにいる。
同性寺本堂の写真も送られて来た。
ご住職は、本家の方々、親類の方々。心配である。避難所にいるのか。
花渕では祖母姉が亡くなったと聞いた。
心痛再び我身を襲う。
「もっと長生きしていただきたかった」
一昨日、藤沢自宅へ届いた一通の案内状。
父一周忌法要の案内。
日時 5月1日(日曜日) 午前十時~
場所 七ヶ浜花渕浜 同性寺
案内状は妹が作り、酔漢そして母との連名。
消印は、三月十一日。
地震が襲うほんの数時間前。
塩竈から母が投函したものであった。
何から何をしたらいいのか?
片付ける家があるだけましですかね。
あちこちヒビが入っていますが、いまだに二階は手をつけていません。
少しでも思い出の道や山や海が残っていることを願います。
投函した日とは・・・・
現在ポストは、投函口がふさがれています。
色々な手続きが遅れてしまいます。
花渕浜の友人たちが家も車も流されたと聞いていたので覚悟はしていましたが、
実際に画像で見るとあまりに悲惨な光景に涙が出てきます。
わが家の周りも大変な被害を受けました。
阿川沼に菖蒲田の家々が押し流されてくるのを目撃。自分の目を疑った瞬間でした。
道路は車が積み重なり、流れ着いた木材で埋め尽され悲惨な状況に・・・
普通の暮らしが出来るまで時間がかかると思いますが、頑張るしかないです。
みんなで力を合わせて乗り越えていこうと思います。
もしかしたら、入れ替わるようにして帰ることになるかもしれませんが、施設を昔からよく知っているので、何とかスタッフをサポート出来るよう、頑張りたいと思います。