酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

下駄を鳴らして奴が来た!立ち喰いそば屋のおばちゃん

2007-11-02 12:16:13 | 仙台中学校の頃の話
 仙台市立五橋中学校。校庭は仙台市内の中学校でも一、二を争う程狭く、生徒数は仙台市内の中学校でも一、二を争う数でした。酔漢の居た学年も10クラスほどありました。全校生徒が校庭に集まりますと芋を洗うような状況になります。
 以前より塩釜市立第二小学校を紹介いたしました。県下で二番目の児童数の小学校でしたから、酔漢、小、中とも古い校舎と人の多い学校で学んだこととなります。尤も、当時の五橋中学校でおそらく学区内で通っている生徒は全校の三分の二程しかなく、後は、ご他聞にもれず越境通学者です。前回のブログで、私の学年で塩竈組は男子5人、女子1人と書きましたが、全体ではかなり多くの生徒が塩竈から通っておりました。特に、この編の主人公丹治道彦氏の学年(酔漢より一つ上)には女子が3名程おりました。みなさんとても成績がよかったんですよ。ひらさわ先輩お元気ですか?で、どんな話からはじめようか考えた末の今日のおはなしです

 中学校の中に購買部がございました。文房具をはじめ、学校で使う教材をあらかた取り揃えておりましたので、かなり重宝いたしました。何故か、軟式のテニスボールを売っていて、学校で禁止されているのにも関わらず、それを買って屋上で遊んでいたりしました。購買部のおばちゃんは無愛想ではありましたが、そこそこ人気がありました。酔漢も2年生の頃には顔を覚えてもらいました。
 その二年時、夏休みです。丹治氏は3年生。夏期講習に通っていた頃です。酔漢は英語塾(あの堀見英学塾)に通っておりました。七夕(8月です)の直前は夏期集中授業が行なわれていたのでした。
 その塾の帰り、まだ暑い午後5時頃、青葉通りをいつものように歩いておりました。
「なんだ、酔漢でねぇか」
「あっ丹治先輩。こんな時間になして?」
「みちのく学習会の帰りだっちゃ。学院大学でやってんのっしゃ」
「俺は塾の帰りだっちゃ」
「いつものメンバーと一緒でねぇのか?」
いつものメンバーとは、堀見塾に通う塩竈組の事です。
「今日は頼まれた買い物があるから、先に出たのっしゃ」
名掛丁は七夕飾りの準備の真っ最中でした。
駅までもう少しというところで、(まだ、今の仙台駅は出来ていません。工事中でした)丹治氏がおもむろに
「腹へったなや」と言い出しました。
「俺もだっちゃ」
「そばでも喰うべか」
「んで『みちのくそば』さでも行きますか」
「そうすっぺ」
みちのくそばは、パチンコ大学仙台駅前店の脇にありました。脇と言いましても、同じビルの中にありました。
立ち食いそばは、酔漢大変お世話になりました。名掛丁はずれの「日の出」「日の出ビルの『日の出』」旧仙石線ホーム。旧本塩釜駅中、そして旧本塩釜駅前(名前忘れました)など、いろいろ食べたなぁ。最近では一昨年息子と旅をしました時の仙山線山形駅ホームの立ち食いはおいしいです。以外かもしれませんが、神宮球場のカレーそばは事のほか上手いです。
閑話休題
のれんをくぐり、エアコンのないカウンターに二人並びました。
「おばちゃんかけそば」
「んで俺も」
お小遣いが少ないのもありました。確か120円位だったと思います。
「おまちどぉ」
とすぐさまそばが出てきました。
が、そのそばは「かけそば」ではなくて、そばの上に「てんかす」が載っていたのでした。
「俺達頼んだの『かけそば』でねかったけかや」
「んだっちゃ。『かけそば』だっちゃ」
丹治さんが「おばちゃん、俺達たのんでの『かけそば』だったっちゃ」
と言ったとき、そのおばちゃんがにやりとしながらこう言ったのでした。
「あんだ達おらほの学校だすべ。んでサービスだっちゃ」
「おらほの学校って・・・・・あーーっつ。購買部のおばちゃん」
「なして気付かねかったんだべ」
「んで、そのままいただくからっしゃ」
僕らは「てんかす」サービスのかけそばをいただきました。
似てるとは思っておりましたが、まさか本当に購買部のおばちゃんだとは知りませんでした。
「やっぱりてんかす入りはうめぇっちゃ」
「んだ、んだ」
僕らはそそくさ食べ帰宅に着きました。
それから、暫く、「みちのくそば屋」に通いました。結構おいしい立ち食いそばだったのです。
この事を、塾で話しますとこうへい君が「俺も行った事あるけんど、似てるって思っててっしゃ。双子かなやと思っていたっちゃ」といかにも彼らしい答えが返ってきました。
2学期が始まり、購買部は相変わらずの人気です。おばちゃんは「みちのくそば」に居た時と違い、いつものように無愛想なまんまでカウンター越しに座っておりました。
「酔漢、やっぱし同じ人かや」と丹治氏。
「んだって、『おらほの学校』って言ってたっちゃ」
「んで、やっぱし、同じ人物だったんだなや」
「んだっちゃ」

今はもう「パチンコ大学」も「みちのくそば」もなくなりましたが、立ち食いそばを食べるたび、この事を思い出します。

当時、夕方の青葉通り。ラーメンの屋台が並びます。
「大分軒」そして井上ひさしさんの小説「青葉繁れる」でも登場した「南部軒」など数件の屋台が並んでおりました。
中学生ではなかなかのれんをくぐる勇気はありませんでした。
「大人になったら入ろう」と思っておりました。
が、大人になった頃、屋台は姿を消しておりました。
ファーストフードが立ち並ぶ今、腹を減らした学生はそこに行くんでしょうね。
場末の立ち食いが、懐かしくもあります。
ねぇ、先輩。

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大学通学 (クロンシュタット)
2008-06-07 17:23:52
二高の仲間内では、当時「大学に行く」と言えば「パチンコ大学」通学でした。
私は「ABC会館」派でしたが。

ああ、とうとう私にとっては「禁断」の二高ネタに触れてしまいました...

二高の位置が川内にある都合上、仙台駅との通学経路はどうしても仙台市中心部を通らざるを得ません。
特に「バス定期代を別用途に使い込んでいる」派は、川内から駅前まで、とにかく歩いて通学せざるを得ないのでした。
そのため、番町とか中央通は、ある程度までは二高悪ガキどもの天下となってしまうのです。

友人の片倉君(白石藩主の子孫)いわく、当時の二高有名人NO.1の私の武勇伝が、いよいよ展開されますです。


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二高おぬしもなかなか・・ (酔漢です)
2008-06-09 16:06:05
悪代官のようなセリフを口にしてしまいました(笑)
やることは一緒?
あの頃はまだ、「羽もの」全盛期?でしたか。
パチンコかぁ20年近くやってません。
じゃぁ20年前?「ABC」でした
返信する
缶ピー (クロンシュタット)
2008-06-10 06:27:29
当時の「大学」の隅っこには、なんと「手打ち式」の台が残っていました。
5台か10台かでしたが、「手打ち式」のファンがまだ残っていた時代です。

パチンコの開店には、二高悪ガキどもは、車で出勤もしてました。
高校3年でも運転が許される時代でした。
仙台繁華街で婦人服チェーンを経営していた家のUは、高3でベンツを持ってましたから。

貧乏人の私は、「煙草代稼ぎ」が目的ですので、「ABC」に必ず500円は出る台を確保していました。
純情な高校生でしたので、大勝は狙わない打ち方でした。

煙草は「缶ピー(缶入りピース)」でした。
かばんに入れて通学していると、教科書が葉っぱまみれになってしまいます。
二高では「生徒会室」周辺や(広瀬側)川原が喫煙場所でした。
「生徒会室」周辺が、煙草が原因でボヤを起こしたこともあります。
でも、教師へも煙草やライターを貸してたりしていたのですから、ボヤが起きても、まあまあ、ということで。

購買部といえば、二高悪ガキは、近くにある東北大の購買部&食堂に入り浸っていました。
たいがいが東北大には落っこちてしまいましたが、キャンパスライフは満喫できたのでした。

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