夏休み真っ最中、夜9時頃。酔漢、夏期講習の予習をやっておりました。夜ともなりますと、塩釜港から吹いてくる海風が心地よく、エアコンがなくても涼しい環境で勉強できました。
「さて、そろそろ英語にすっかな」
勉強の占めは英語と決めておりましたので、自作の英作文に取り組もうとしたその時です。その海風と共に、遠くの方からなにやら不規則なリズムを奏でるかのようなカラコロ(ゲゲゲの鬼太郎の歌詞を思い出してください)と音が聞こえてきました。
「まさかな、夏だおんな下駄くらい履いている奴なんていっちゃやな」と思っておりました。が、その音はだんだん我が家の方へ近づいて来るのでした。
よーく耳を立てて聞いておりましたら、それもいつものあのメロディーを口ずさんでいるのでした。
そのメロディーは「戦車兵の歌」(バルジ大作戦サウンドトラックより)なのです。しかも独逸語(本人この表現の方が好きみたいです)で。
ちょうど玄関の前のところで歌がクライマックスを向え、下駄の音は遠のいていったのでした。
「やっぱしぃ来たんだっちゃ」酔漢がこう言うと2階から階段を駆け下り玄関の戸を開け、庭から細い通りを下駄のなっているほうへ向いました。
10m位先に、下駄を履いたあの御仁が颯爽と後ろ姿を見せているのでした。
酔漢追いかけるのをやめその後ろ姿を眺めておりました。
「なんだや、来たら来たで、お茶っこくれい飲んでいったらいかったちゃなや」
下駄をならして奴が来る
腰に手ぬぐいぶらさげて
学生服に染み込んだ
男のにおいがやって来る
まさにこの歌を絵に書いたような御仁こそ、現東北工業大学准教授丹治道彦氏なのです。もっとも今は流石に下駄は履いておりませんが。
小学校の卒業式も終わりました。仙台市立東二番丁小学校には32日間しかおりませんでした。長い歴史を持つこの小学校でも在校最短記録ベスト10には入っていると確信します。(自慢にもなんねぇっちゃ)ちょうど卒業式が終わった翌日、宮崎ばっぱ(塩釜二小4年次の学級担任。いよいよ登場です。エツジをたくさんブログで紹介いたしましたが、酔漢にとってこの先生も生涯忘れることのできない恩師です。
そのエピソードはじっくり書きますが。少しばかりチャートを持って紹介しますと。
「宮崎ばっぱ→おれたちひょうきん族→笑っていいとも→タモリ氏の好物・浦霞禅と栄太郎生どらやき」と出来上がります。答えは後程)から電話がありました。
「酔漢。久しぶりだねぇ。卒業おめでとう。で、五橋にいったらあんたの学年一つ上の先輩、紹介するから。大丈夫、あんたとぜったい話し合うから」
「先生だれっしゃ?」
「紹介するまでもないんだけどね、三小の教え子なんだけど。塩釜から五橋に通っているんだけどね。まぁ電車に乗れば一緒になるかな」
母が先生に用があったらしく、その答えは聞けずにおりました。
私の学年は、塩釜組は男子で5人、女子で1人おりました。春からは彼らと一緒の事が多く、暫く時間が過ぎました。
丁度6月です。宮城フィルハーモニーのコンサートが仙台市民会館で行なわれましたが、その日、いつものように、仙石線ホームを歩いておりますと、同じ五橋の制服を見つけました。
「あの、五橋の先輩すか?」
「んだよ。あんだは?」
「1年の酔漢です」
「俺、2年丹治。宮フィルコンサートさぁいぐんだけどっしゃ」
「俺もです」
「あんだ塩釜すか?小学校はどこっしゃ?」
「二小だっちゃ」
「んで宮崎先生知ってるすか?」
「おらほで4年の時の担任だっちゃ」
「なんだや、俺三小の時に4年の担任だったっちゃ」
昭和50年6月12日午後5時。仙台駅仙石線地下通路。酔漢と丹治氏との出会いです。
まだ当時、丹治氏下駄履きではありませんでした。
では彼がいつから下駄履きになったかって?
この話から約1年後位の事です。みなさん不思議かと思いますが、流石の五橋中学校でも、下駄履きは禁止なのです。丹治氏は、校門の前まで下駄履きで、校門の前で下駄を脱ぎ、裸足で靴箱までまいります。それから、上履きに履き替えているのでした。
これから先の学校生活は、彼を抜きにしては語れないほど多くのエピソードがございます。そして、今現在もそれは続いております。もう三十年以上経っているのになぁ。
今、ブログを覗き込んでいた家内がこう言ってます
「あーあ、ついに禁断のネタに手をつけたね」
「やっぱりこう思う?」
「思う、思う。これ書いたら、この話いつ終わるのかしら」
「間に自転車と落語と花山と書こうかなと・・・」
「そうね、丹治さんはどっかでからんでいるからね」
からんでいるって、そんなわけでもないんだけど・・・
家内、尚絅のOGです。高校に通っているとき、バスで丹治氏を見かけますと「雨が降る」ということになっていたようです。
あーあ恋よ良き友よ
俺は今でもこの街に住んで
女房、子供に手を焼きながらも生きている
丹治氏を軸に五橋中学校編は、始まります。酔漢が自転車マニアとなったのもこの時期ですが、まずは「仙台一、東北一変な中学校」のお話が中心になります。
(こう言っておりますのは、八木山中学校出の家内のコメントです)
「さて、そろそろ英語にすっかな」
勉強の占めは英語と決めておりましたので、自作の英作文に取り組もうとしたその時です。その海風と共に、遠くの方からなにやら不規則なリズムを奏でるかのようなカラコロ(ゲゲゲの鬼太郎の歌詞を思い出してください)と音が聞こえてきました。
「まさかな、夏だおんな下駄くらい履いている奴なんていっちゃやな」と思っておりました。が、その音はだんだん我が家の方へ近づいて来るのでした。
よーく耳を立てて聞いておりましたら、それもいつものあのメロディーを口ずさんでいるのでした。
そのメロディーは「戦車兵の歌」(バルジ大作戦サウンドトラックより)なのです。しかも独逸語(本人この表現の方が好きみたいです)で。
ちょうど玄関の前のところで歌がクライマックスを向え、下駄の音は遠のいていったのでした。
「やっぱしぃ来たんだっちゃ」酔漢がこう言うと2階から階段を駆け下り玄関の戸を開け、庭から細い通りを下駄のなっているほうへ向いました。
10m位先に、下駄を履いたあの御仁が颯爽と後ろ姿を見せているのでした。
酔漢追いかけるのをやめその後ろ姿を眺めておりました。
「なんだや、来たら来たで、お茶っこくれい飲んでいったらいかったちゃなや」
下駄をならして奴が来る
腰に手ぬぐいぶらさげて
学生服に染み込んだ
男のにおいがやって来る
まさにこの歌を絵に書いたような御仁こそ、現東北工業大学准教授丹治道彦氏なのです。もっとも今は流石に下駄は履いておりませんが。
小学校の卒業式も終わりました。仙台市立東二番丁小学校には32日間しかおりませんでした。長い歴史を持つこの小学校でも在校最短記録ベスト10には入っていると確信します。(自慢にもなんねぇっちゃ)ちょうど卒業式が終わった翌日、宮崎ばっぱ(塩釜二小4年次の学級担任。いよいよ登場です。エツジをたくさんブログで紹介いたしましたが、酔漢にとってこの先生も生涯忘れることのできない恩師です。
そのエピソードはじっくり書きますが。少しばかりチャートを持って紹介しますと。
「宮崎ばっぱ→おれたちひょうきん族→笑っていいとも→タモリ氏の好物・浦霞禅と栄太郎生どらやき」と出来上がります。答えは後程)から電話がありました。
「酔漢。久しぶりだねぇ。卒業おめでとう。で、五橋にいったらあんたの学年一つ上の先輩、紹介するから。大丈夫、あんたとぜったい話し合うから」
「先生だれっしゃ?」
「紹介するまでもないんだけどね、三小の教え子なんだけど。塩釜から五橋に通っているんだけどね。まぁ電車に乗れば一緒になるかな」
母が先生に用があったらしく、その答えは聞けずにおりました。
私の学年は、塩釜組は男子で5人、女子で1人おりました。春からは彼らと一緒の事が多く、暫く時間が過ぎました。
丁度6月です。宮城フィルハーモニーのコンサートが仙台市民会館で行なわれましたが、その日、いつものように、仙石線ホームを歩いておりますと、同じ五橋の制服を見つけました。
「あの、五橋の先輩すか?」
「んだよ。あんだは?」
「1年の酔漢です」
「俺、2年丹治。宮フィルコンサートさぁいぐんだけどっしゃ」
「俺もです」
「あんだ塩釜すか?小学校はどこっしゃ?」
「二小だっちゃ」
「んで宮崎先生知ってるすか?」
「おらほで4年の時の担任だっちゃ」
「なんだや、俺三小の時に4年の担任だったっちゃ」
昭和50年6月12日午後5時。仙台駅仙石線地下通路。酔漢と丹治氏との出会いです。
まだ当時、丹治氏下駄履きではありませんでした。
では彼がいつから下駄履きになったかって?
この話から約1年後位の事です。みなさん不思議かと思いますが、流石の五橋中学校でも、下駄履きは禁止なのです。丹治氏は、校門の前まで下駄履きで、校門の前で下駄を脱ぎ、裸足で靴箱までまいります。それから、上履きに履き替えているのでした。
これから先の学校生活は、彼を抜きにしては語れないほど多くのエピソードがございます。そして、今現在もそれは続いております。もう三十年以上経っているのになぁ。
今、ブログを覗き込んでいた家内がこう言ってます
「あーあ、ついに禁断のネタに手をつけたね」
「やっぱりこう思う?」
「思う、思う。これ書いたら、この話いつ終わるのかしら」
「間に自転車と落語と花山と書こうかなと・・・」
「そうね、丹治さんはどっかでからんでいるからね」
からんでいるって、そんなわけでもないんだけど・・・
家内、尚絅のOGです。高校に通っているとき、バスで丹治氏を見かけますと「雨が降る」ということになっていたようです。
あーあ恋よ良き友よ
俺は今でもこの街に住んで
女房、子供に手を焼きながらも生きている
丹治氏を軸に五橋中学校編は、始まります。酔漢が自転車マニアとなったのもこの時期ですが、まずは「仙台一、東北一変な中学校」のお話が中心になります。
(こう言っておりますのは、八木山中学校出の家内のコメントです)
「場末の地下道」は相変わらず薄暗かった。
通路脇の排水溝には、すえたにおいの泥水が澱んでいた。
壁に直に描かれた「沿線案内」は御座船がけばけばしく、薄暗さに浮きまくっていた。
途中、仙山線ホームへ分かれていく地下道は、果てしがない奥深さだった。
今日も川内から「歩き」でたどり着いた俺は、長髪をボリボリ掻き毟りながら、地下道を急いでいた。
「西塩釜行きに間に合えば、座れるからな...」
そのとき、通路のど真ん中で突然立ち止まった中学生たちが、視界に飛び込んだ。
「...宮崎先生知ってるすか?」「...俺三小の時に...」
「おーこの二人、三小かー...おおっと、発車ベルだ急げっ」
3両目の一番後ろの座席(下馬の階段前)を確保した俺は、
「宮崎先生か」とつぶやきつつ、向かいの宮城学院の生徒に視線を移していた...
私も、中学入学したて?の事でしたので。
あの現場にいらっしゃったとは、本当に驚きです。