彼ならではの「震災記」ではございますが、「酔漢のくだまき 小学校の頃」を思い出します。以下、お読みくださればおわかりになられるかと思うのですが、「塩竈はそんな街」だったのです。
石巻市は宮城県第二の都市であり、津波の被害はとてつもなく大きい。僕がはじめて石巻に行ったのは、小さい頃、父親の実家に向かう途中で立ち寄った時だ。ちょうど昼食の時間だったので、駅の近くでラーメンを食べた。でも一番印象に残ったのは、当時、製紙工場の臭いがひどかった事だ。後に石巻の友だちとは、その臭いと塩釜の魚臭さとどちらがよりひどいかというくだらない論争をしたほど凄かった。という事は塩釜も相当なものだったという事だが。石巻はすでに製紙工場の臭いはなくなったけれど、今は津波による泥と油で新たな異臭に包まれている。
もちろん三十年間住んだ塩釜は思い出だらけだ。高台にある東北で一番初詣客が訪れる奥州一宮の塩釜神社近くまで水没し、子どもの頃から二十台半ばまで住んでいた海寄りの地域の被害は甚大だった。そこは海からすぐで水産加工の工場が立ち並び、魚市場と市中心地との中間にある所だ。最寄り駅であるJR仙石線の本塩釜駅から、夜でも目映い楼閣のように浮かぶ海上保安庁の巡視船を眺めながら、十分ほど歩けば家につく。正月には年明けと共に汽笛が鳴らされるのを聞く、そんな町だ。
ある時、友だちといかだを作って、どこかの島まで行ってみる事にした。松島の隣だし、湾内に島はたくさんある。当時は木材なんてそこらに転がっていたし、建築資材などもよく捨ててあったから、それらでいかだを作って入江に浮かべて乗り込んだ。ほんの十数メートル進んだだけでいかだは危険な状況になり、沈没寸前になってしまった。それを見かけた造船所の人が怒鳴るように「何やってんだ」と声をかけてくれて、「沈没する」と答えるとこちらにロープを投げて引き上げてくれた。怒られるなと覚悟したが、続いてかけられた言葉は「いかだの作り方が悪い」だった。それから僕らは丁寧にいかだの作り方を教えてもらった。もちろん「流されると危ないからロープでつないで遊べ」と最後には言われたが。
また僕が子どもの頃にはまだ野犬の群がいて、囲まれて噛まれたりするような事もあった。小学生の頃、僕がそんな群に囲まれて困っていると、軽トラックから下りてきた長靴をはいた知らないおじさんが、大声を上げながら突入してきて、野犬たちに強烈な蹴りくらわせながら「こうやってつま先を立てて腹に突き刺すようにしろ」と蹴り方についての説明してくれた。すべて追い払ってくれるのかと思っていたら、おもむろに「やってみろ」と促されて驚いた。
塩釜はそういう町だった。
デートをしたり、その娘と別れて思い出の品を投げ込んだ岸壁、買い物をしたり食事をした店々、小学校の友人がやっている寿司屋、子どもの頃から母親の手料理よりも慣れ親しんだ味のそば屋、電車で友人に会うと飲みに行った居酒屋、家の向かいにあった雑貨屋と八百屋、斜向かいの中華料理屋、子どもの頃からの知り合いやご近所だった家々、かつて姉が勤めていた大型スーパーの後継店の屋上には人が取り残され、それらすべてが津波にあった。今の実家からでも百メートルも行けば、そこから先は見知った風景のすべてが被害を受けていた。昔住んでいた地域、桟橋の辺り、塩竃神社に連なる商店街、僕にとってなじみの深い塩釜の九割は津波の猛威にさらされたといっていい。
もしパラレルワールドというものがあるとしたら、僕は分岐したいくつかの世界で確実に津波にのみこまれているだろう。その日、暖かくて天気がよければ、自転車で十分ほどの名取川の河川敷を散歩していたかもしれない。それならば遡上した津波に流された可能性がある。事実、そういう日もあったのだ。あるいはたまたま車で実家に行くか仙台に戻る途中だったりすれば、間違いなく数千台が波にのまれた産業道路を通っている。気まぐれで国道四十五号線を通っていても同じ事だ。国道脇には変形して潰れた車がごろごろしている。僕はそのどちらかのルートしか使わない。どちらを選択していたとしても流されていた。また季節が少しずれていたら蒲生干潟で渡り鳥を見に行っていたかもしれない。あそこはほぼ逃げ道がない(近くに高台がない)から、確実に助からなかっただろう。更には仕事で頻繁に、北は青森県の八戸市から南は福島県のいわき市まで、津波にあった地域はよく訪れていたので、そのどこかで被災していてもおかしくはない。移動中はもちろんだし、たとえば二階まで水没した宮城農業高校は自宅からも近いのでよくついでに訪問していたし、四階までつかった気仙沼向洋高校も年に何度かうかがっていた。要するにちょっとした運の問題に過ぎなかったのだ。
そんな直接的な思いだけではない。最近閉校した内陸のある高校は、十年くらいの間、毎年講演会に呼んでもらっていた。内陸なのになぜかいつも昼食として寿司が出るところで、講演会以外でも年に何度も訪問していたし、先生とも個人的に食事に行ったりしていた。新聞によればそこが今は遺体安置所だ。卒業生の心中はきっと微妙なものだろう。それでも生きているだけましだと思ってくれているだろうか?
サッカーの日韓ワールド杯で、日本がトルコに敗れた試合が行われた宮城スタジアムのあるグランディ21の施設も遺体安置所になっている。かつて国をあげての華やかさに彩られた所も、今は静かに祈りを捧げる場所だ。
ラジオは切なさだけでなく、身近な情報も与えてくれた。たとえば夜には仙台中心部の一部で、今日から電気がついていると教えてくれた。実際に近所を歩いていると、各地からやってきた電力会社の社員の方々が懸命に働いている。妻などは新潟県から来ている方に思わずお礼を言ったそうだ。彼女の母の出身地が新潟だというのもあったのだろう。被災地の最前線とはいえないこの町で目につくのは、そういった企業の努力だ。電気、水道、通信の他、震災以降、自分たちも被災者なのに、家にも帰らず商店を開けてくれる人たちもいる。ならんでいる人たちも苛立つ事なく、周囲の人と情報交換などをしながら、ひたすら待っている。新聞は欠かさずに届いている。それなのに相変わらず市からの広報はまったくない。若林区と宮城野区の津波被害が大きいとはいえ、区としての単位ならば青葉区と泉区、そして僕の住む太白区の行政は無事な筈だ。地震被害が霞んでしまっているけれど、宮城県沖地震の時を考えても、建物被害や崖崩れ、液状化などもある筈で、最寄りの地域の確かな情報を可能な限り発信しないと二次災害もありうる。それなのに給水場すら、情報を持つ人からの口こみでしか伝わってこない。僕も何人かに公園の水道の事を教えてあげた。
水道と言えば、僕らの場合、日に三度の水汲みが必要なんだと前日とこの日で分かった。余所では何時間も待ってようやくという状況が続いているそうだから、三度も汲めるというのは本当にありがたい。
食糧の買い出しや水の運搬、暖を取るためなど、いろいろと活用されている車だが、そのせいもありガソリンが相当に枯渇してきたという話も聞いた。津波被災地では点在する地域の行き来、家族の安否確認など、とにかくガソリンがいる。スタンドも破壊されているだろうし、残されていても震災前の備蓄分しかない。
広域災害でものをいうのは絶対に移動力だと感じる。テレビだろうと携帯だろうとツイッターだろうと、安否や情報をどこかに伝えるには、まずはその場での発信者がいる。憶測ではなく正確な情報でないと、無責任な二次災害や混乱を招きかねない。だからまずはその場への移動力だ。確かな事を知るには直接足を運ぶしかない。
ガソリンの枯渇は安否確認をも停滞させる。家族の安否を確認しないまま、より安全な場所へ移動しろと言われて、はいと答えられる人がどれだけいるだろう?自分の大切な人がそうなった事を想像してみればいい。少なくとも僕には無理だ。津波で分断され点在した集落を歩いて訪ね歩くのは大変である。更に悲しい事だが遺体を確認するのでも、津波で沖に流されてしまった人は、必ずしも生活していた周辺で見つかるとは限らない。何キロも先の違う町の浜辺に打ち上げられているかもしれない。だから悲しみをこらえて、近隣の遺体安置所を巡り歩くしかない。そのためにはどうしても車が必要だし、ガソリンがいる。他の移動手段はなにもない。
生きていた人であれ、亡くなった人であれ、少しでも早く家族に会えればいいのだけれど。僕にはただ祈る事しかできない。
暗くなる前に夕食を取ってしまおうという事で、妻がカセットコンロでうどんを作った。まだまだ日が落ちるのは早く、日没は六時少し前。出来た頃には手元が少し怪しいくらいに、そこそこ薄暗くなっていた。ストレスからだろうか、三日目にして血便が出た。気休めのために胃腸薬を飲んだ。妻に迷惑がかかるので、体調は崩したくない。
余震は相変わらず活発で、何だかいつも揺れている感じがするほどだ。いわゆる地震酔いというわけではない。大体は本当に揺れている。とにかく桁外れに余震が多いのだ。しかも余震とはいえ単独なら大地震レベルのものもある。これだけ揺さぶられている状態が続くと、それだけで十分に疲労する。建物が軋む音がする度に心臓が瞬時に縮む。震度には慣れたから多少大きくても「ああ揺れているな」くらいの思いしかないのだが、心臓だけは正直だ。結局この日、本震のマグニチュードは九・0に変更され、観測史上世界で四番目の大地震となった。後で知ったが、三月末までに震度四以上の余震が何と八十二回、マグニチュード五以上は三百七十回を越えたそうである。およそ日本で起こるマグニチュード五以上の地震の約三年間分をすべてこの短期間に経験したらしい。有感地震というだけなら、いったいどれくらいあったのか見当もつかない。一ヶ月以上たっても気象庁は三月二十日以前の正確な数字を出せないでいるが、尋常な数でなかったので無理はない。
僕らは二人で毛布にくるまってラジオを聞いた。それにしても改めてラジオはいいと思った。高校くらいまではよく深夜ラジオを聞いていたが、最近は車で移動する際に聞くくらいである。ラジオからは何だか電波を通してはほんのりと温かい感じが伝わってくる。地元局だからパーソナリティもスタッフも全員被災者だ。求めているものや感じているものが近いせいだろうか、うるさくないし、おしつけがましくもない。身近な役立つ話題も嬉しいし、それにこういう時だからこそしみじみと音楽はいい。選曲は応援ソングみたいな奴が多いけど、暗闇の中で人の声は優しい。震災後、はじめて少し救われたと思った。
その日もいつでも逃げ出せる体勢で床についたが、ラジオからの声のせいか、鼻先さえ見えない真っ暗闇でも、少し落ち着いて眠れた。ラジオ万歳。
次の日も恒例の水汲みからはじまる朝だった。
どうやら人の生活というのは、夜から朝にかけて消費する水が一番多いらしい。
公園の水道では若い女性と会った。今年、仙台で就職したばかりで、一人暮らしをしているという。情報も入らないし、まだ土地勘もないとの事で、とまどい疲れた表情をしていた。妻と私は知っている限りの情報を伝えてあげた。その娘はラジオは会社から借りたが、電池があまりなくてと言っていた。公園からの帰り道に、妻が単三電池なら余っているから、電池の事を聞いてみればよかったとつぶやいた。確かにそうだ。こんな時だから少し後悔した。
新聞には福島原発の事がいよいよ一面に出ていた。かなり予断を許さない状況らしい。
個人的にはそもそも安全神話なんて信じてはいないから、いつかこういう事もありうるだろうくらいに思っていた。人間は必ず失敗をする。それが悪いとかじゃなく、そうやって進歩もしている。過去の原発事故はほぼヒューマンエラーによるものだし、人が介在する限り、必ずどこかに盲点があると思った方がいい。人間の視点ではこの世界で起こる事のすべてを完全に理解する事は無理なのだ。だから驚きはしなかった。
それにしてもお膝元の町々は複雑だろう。原発のある地域は何となく沖縄の基地問題と似た構図を持っている気がする。原発を基地に置き換えれば、地元ではそこから利益を得る人も、迷惑を感じる人も両方いるのだ。今回の事故も同じ住民であっても、人によっては加害者側でもあり被害者側でもある。直接ではなくとも東電と関わる者は少なくない土地柄だ。ただの商店だって東電で働いている人を多く相手にしているのだし、サービス業ならどうあれそこから利益を得ている。一方的に東電だけが得をしていた訳ではない。問題は町によって、あるいは人によって、東電との関わり方の度合いが違うので、いろいろと温度差や対応の差が生まれる事だ。誘致した自治体とそうでない自治体がある。様々な形で東電と関わる住民とまったく関わらない住民もいる。津波で家を流された人もいれば、退避さえ解除になれば立派な家に住む金持ちだっている。それぞれの立場で温度差があるだろう。そのすべてを一緒にして原発の被害者と呼ぶには、利害が絡まり過ぎているように思えた。
だからおそらく見た目ほど単純な問題ではない。
いずれにせよ入手できる情報がまだ少なく、しかも曖昧過ぎた。用心するにこした事はないだろうが、どうやら原子炉が爆発したわけではないし、原爆のように被爆するわけではなく放射性物質による被曝だ。直接アルファ線やらベータ線を受けるわけでもない。とりあえず百キロは離れているし、ごくわずかな将来のリスクという可能性の問題よりも、今を生きるのには水が必要だ。十年後の事も、今日がなければはじまらない。
水汲みを終え、賞味期限切れのパンを食べ、地震ですっかり忘れていた薬を飲んだ。血圧の薬だ。血圧を下げるだけでなく心拍数も抑える効果がある。数年前に高血圧症がひどくて体調を壊して以来、ずっと服用している。僕はまだいいが、糖尿病など深刻な持病がある人はこういう時はきつい。叔父に筋ジストロフィーの人がいるのだが、筋萎縮性側索硬化症とか、この状況が致命的な人たちがたくさんいるのを思うと胸が痛む。いつも弱者が最初に犠牲になる。そしてその次は義務を負った人たちだ。被災した自治体関係者や現地の医療スタッフ、自衛隊や警察消防、福島原発の職員など、当たり前のようにハードワークをしなければならない。弱者でもなく無責任でもいられる僕は、被災地の中の平和な人間だとつくづく思う。
新聞で津波にのまれながらもお年寄りを助けた人の話を読むと、少しは救われる。けれどその隣に載っている、目の前で家族を流された人の話を読むと、胸が苦しくなる。波に飲まれて思わず手を離してしまった、という切ないつぶやき。
届かないのは分かっているが、あなたのせいではないよ。
誰のせいでもない。
誰かが悪くてこうなってしまったわけではないんだ。
手を離してしまったんじゃない。離れてしまった。
あなたが意図したわけじゃないから、自分の掌をそんなに見つめないでいい。
誰のせいでもない。
だからみんなで助けなければならないのだけれど。
もう少し若くて、そしてガソリンがあれば、平和な僕はこの身ひとつでその場に飛び込んで行っただろう。身体を駆使して、ただ黙って生きる事を支え続ければいい。
でも現実の僕は軟弱で、水を汲み、たった三階まで上るのさえきつくなっている。
ごめんなさい。
僕には妻ひとりを助ける力しかありません。
無力だけど、忘れないで言い続けようと思うんだ。
誰のせいでもないんだよ。
だからみんなが助け合わなければならない。
神戸の町は、元の人口に戻るまで十年かかった。
これから長い時間をかけた支援が待っている。
せめて僕はその支援をするひとりでいよう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます