酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ある友人の手記 その六

2011-05-30 07:57:47 | 東日本大震災

今朝のテレビ。
題「避難所で体を守る為には」
ある大学教授が作成したパンフレット。
「手洗い、うがいをまめにする。マスクをする」インフルエンザ流行を防止。
「高齢者は水分を多く取り、体を動かす」エコノミー症候群を防止。

どこにそんなものがあるのだ!笑わせるな!

2011-03-15 05:16:24

上記日付の「くだまき」です。

彼があきれた報道も同じようなものでした。

   

そして午後の二時を過ぎたくらいだった。

妻とラジオを聞いていると、いきなり電気機器が動き出す音がした。

 冷蔵庫のモーターが音を立て、時間設定が必要な機器のディスプレイが点滅をはじめた。地震での故障も含めていろいろ試してみたが、取りあえず壊れたものはないようだった。ただしテレビはマンションの共同アンテナがずれ、音声だけで画面はノイズでほとんど見る事ができない。パソコンも光ケーブルが復旧していないらしく、ネットには入れなかった。

 それでも大きな幸せだった。妻と二人で顔を見合わせて笑った。

 とりあえず携帯の充電をし、固定電話からも実家など何カ所かに電話をしてみたが、通話規制をしているらしく通じなかった。

 電気が通ったのでレンジが使えるようになり、冷蔵していた食品がぎりぎりで持ったので食事は少し楽になりそうだった。僕がよく熱を出すため、冷凍庫には日頃から保冷材となるものがたくさん入っており、おかげで傷まずに済んだらしい。問題は割れてしまったレンジ用の皿だが、レンジの原理から考えて、ガムテープでつなぎ合わせても危険はない筈だと思い、試してみたら普通に使えた。カセットコンロのガスが切れそうだったから本当に助かった。部屋を暖めるのにファンヒーターも使えるが、灯油の残量が気になったので、出来る限り厚着を続け、あとはこたつで凌ぐことにした。エアコンもあるのだが、古い型なので消費電力が大きい。他の誰かの事も考えて極力使わないようにした。

 その一方で町の物流はほぼ完璧になくなってしまった。商店は震災前に仕入れていた在庫が切れてしまい、昨日は開いていた店も閉じてしまっている。普通なら災害から三日を過ぎれば、物資が豊富にとは言わないが、枯渇してしまう事はないだろうと思っていた。ところが現実は食糧と燃料が驚くほどの速さでなくなってしまった。兵糧ぜめにあったというよりは、援軍が来る筈なのに現れないといった感じなので、皆、苛立ちや焦燥よりもただ首を傾げるような雰囲気だ。

 しばらくしてふいに家の固定電話が鳴った。妻の友人が東京から電話してきた。その後も立て続けに何本かかかってくる。不思議なもので遠くからのものはつながるが、県内同士はまったくつながらない。被害状況を考えれば当然に思えるが、よく考えると奇妙だ。東京と被災地Aはつながり、被災地Bともつながるのに、被災地AとBはつながらない。しかし理屈からすれば回線はつながっている筈なのだ。それが通話制限というものらしい。僕には分からない難しい技術的問題があるのかもしれないが、すみやかな安否確認のためにも、一番必要なところ同士が使えないのは妙な話だと思う。近所のスーパーの安売りを知るのに、ニューヨーク経由でないと分からない、そんな感じだ。

 携帯が復活したので、姉や何人かの知人にメールを送ろうとした。しかしなかなか送信できなくて、何度も繰り返した末、忘れた頃に送れるという繰り返しだ。またセンターで蓄積していたメールもなかなか受信できない。それでもなんとか姉家族の無事と、何人かの知人の無事は確認できた。ひとまずほっとしたが、実家とは嫁が一度連絡を取っただけだ。両親は携帯を持たないのでメールは使えないし、電話は不通。そのうち姉がメールの返信で、義兄が様子を見に行ってくれていたと聞いたので更に安心した。

 知人のひとりは実家である岩手県釜石市の実家が流され、宮城県名取市にいるおじとおばが亡くなったらしい。釜石市には昔、母親と二人で旅行した事があるし、仕事でも何度か訪れている。列車で行くと宮沢賢治で有名な花巻市から沿岸に向かう感じになるが、海へ行く筈なのになぜか風景はどんどん山の奥へと進んでいく。民話の里である遠野市を通るのだが、その辺りは遠野物語に出てくる山人やまよひがの話を思い出すのに十分なほど山深い。本当に海に向かっているのか不安になる。しかし列車が勾配を下りはじめると、いきなり釜石の駅につく。後背地が山であるリアス式海岸特有の感覚だ。昔の釜石駅はこういっては失礼だがとてもぼろかった。駅を出てから目立つのは新日鉄釜石の工場であり、家がびっしりと立ち並んでいる印象だ。海の町という雰囲気はそこから伝わってこない。しかし海岸線に出るとすべては一変し、豊かな海が広がっている。深さが六十メートルを越える防波堤があり、何度も歴史的な津波から立ち直った町なんだなと思わせるものだったが、それも破壊されてしまったらしい。海を見下ろす高台に大きな観音様があったけれど、これだけの規模だから、多くの人がその救いの手からこぼれ落ちてしまったのかもしれない。

岩手県山田町の知人は、「町は壊滅。でも元気です」とメールをくれた。過去の大きな津波でも被害は少なく、三陸で一番津波に強い町と言われていた山田町がそれだけの被害をうけるとは改めて驚くしかなかった。

今回の津波で最大の被災地ともいえる石巻市で実家が浸水した友人は、家に駆けつけてみると、泥だらけの一階部分をじっと見つめながら父親が黙って日本酒を飲んでいたそうだ。そんな父親の背中を見て涙が溢れたと言っていた。海水と泥を含んだ畳は男三人でも重く感じるほどで、その上に油とヘドロの臭いでたまらないという。途方もない作業だ。

他にも地震で怪我をして入院したという人もいた。津波に目が行ってしまい、忘れがちになるが地震自体での被害だって大きいのだ。仙台市内でも内陸部の折立や緑ヶ丘、岩切などは相当な被害が出ている。きっと他にもあるだろうが、津波や原発問題に隠れて、行政の対応も十分ではないようだ。

中には阪神淡路大震災も経験したという者がいて、どちらも経験して不運というべきか、どちらも生き残り運がいいというべきか、返す言葉に困った。

時々、犠牲者数や報道の印象などで悲劇にランクをつけてしまう人間がいるけれど、被害を受けたひとりひとりからしてみれば、そこに差など存在しない。ひとり芝居だろうと、たくさんのキャストがいる芝居だろうと、悲劇は悲劇だ。

 また燃料がなくて動きが取れないと言う人も多かった。一人は朝六時にならんで昼過ぎにようやく三千円分入れられたとの事。当然、津波で塩釜などの備蓄基地もやられている筈だし、より厳しい被災地のためと緊急車両が優先になるのは当然だ。だが給水場まで遠い人は車がいるし、緊急ではなくとも医療を必要とする人だっているし、大家族ならば食糧調達に開いている店を探さなければならない。もちろん遺体の身元確認に行くにも車は必要だ。原理原則もいいが、それは机上の話であって、実際の世界はもっとイレギュラーなものだ。こういう時には現場での判断を優先すべきなのに、その権限を持つ人は霞ヶ関でテレビを見ている。あるDIYセンターの店長が本社に無断で灯油の販売をして、多くの人に提供したそうだが、同様に限定的でもいいから一般向けスタンドを用意し、普段より量は少なくしてでも、広く行き渡らせないと、何も好転しないように思えた。ひとりの田舎の店長に判断できる事が、なぜか国レベルでは分からないらしい。

 それにしても東北道は制限があるにせよ、少なくとも国道四号は通っているのだから、時間はかかっても関東方面から多少は物が入ってくる筈であり、ここまで枯渇するのはどこか妙な気がした。震災後ずっと国道四号は、東京から青森まで全線通行出来るのにだ。岩手県には青森県側から北海道や秋田県なども物資を送っているようだが、福島と宮城は途絶している。妻の知人で福島市に住む人は、やはり物資が枯渇しているが、国道四号はがらがらだという。どうも福島は原発問題で隔離されている気がするとメールをくれた。

 隔離。嫌な言葉だ。

 でもあながち誇張ではない気がした。

 報道関係者の多くが気仙沼や陸前高田に着いている事実は、FMならテレビ音声も拾えるから知っている。彼らの車は緊急車両に含まれないので、国道四号線か日本海側を回っている筈である。つまり車両は十分に入れる。それなのにより被害の少ない地域でも一般の物流が止まっているのは、どう考えてもおかしい。関東でも相当な揺れだったようだし、多少は物流が混乱するにせよ、西日本は何も問題はない。東北に依存していた産品はともかく、ほとんど何も入ってこないというのはどう考えても異常だ。

 でも、ないものはない。現実としてない。

 考え込んだところで何かが好転するわけでもないので、考えるのをやめた。

 話を戻そう。

 その後、次々と電気がついたというメールをもらったが、それでもまだついた方が少数だった。いずれにせよ電気の復旧は市内でも急速に進んでいるようで、何だかほっとした気分になった。ライフラインの回復は物理的な便利だけではなく、精神的にも何かを回復させてくれる。フレーザーは「火の起源の神話」で火をおこす方法の発見こそが人類のあらゆる発明の中で最も記念すべき事だと書いている。現代の火は間違いなく電気な訳で、その復旧は神話の追体験だ、なんて言ったらさすがに大袈裟すぎるかなと思うけど、でもそれくらい喜ばしい出来事だった。

 電気があれば米が炊けるので、早速前に実家から送られてきた玄米を精米しに行った。近所には何カ所かコイン式の精米所がある。はじめの頃、妻はそれに驚いていたが、宮城は米所だけに農家から直接玄米で買う家も多い。僕らの住むところも市の中心街から七キロだがまだ周囲に農家もある。大きく水没した若林区も近い。若林区は仙台で一年間で消費する米をまかなえるだけの水田地帯があった。そのほとんどが津波にのまれ、塩害のせいで数年は稲作が出来ないとそうだ。広大な仙台平野の北側には大きな港が集まり、工業や商業の町だが、南側は小さな漁港と農家が多い。その南側にある亘理町では名物のイチゴが全滅だという。港の被害だけではなく、農地の被害も大きいのだ。

 僕は精米を終えると家に戻り、例によって午後の水汲みをした。

 ようやくひと息つき、音声だけのテレビはつけずに、充電できた携帯で少しだけ民放テレビを見た。

 繰り返し流される、いくつもの津波の映像。

 見知った町がことごとく壊滅する姿から目が離せなかった。

 正直、言葉がでない。 小さい画面でも、その衝撃は大きかった。

 ある種の暴力と言っていい映像の数々。

 釜石市のギネスにものったあの立派な堤防どころか、あの田老の巨大な防潮堤すら簡単に破壊されている。かつて田老で会った人は「あれがあるから、そう心配はない」と笑っていたのに。

 宮城県では南三陸町が壊滅的だ。僕くらいの年齢だと合併前の志津川町と歌津町という呼称の方がなじみがある。漁業で有名なだけでなく、シヅガワリュウとかウタツギョリュウといった魚竜の化石が見つかった町で、僕もそれを見に行った事がある。その辺りから岩手へと続く北上山地は、国内でもっとも古い時代の地層がまとまって分布する貴重な化石の産地として、知る人ぞ知る地域である。そこでは他にも幻のイナイリュウが発見されている。魚竜たちの化石はどうなったのだろう?太古の記憶と共に海へと戻ってしまったのだろうか。

 福島原発のような事故はおこさなかった女川原発のある女川町だが、大学の時の友人にこの町の出身がいた。ある時、僕が大学の前でバスを待っていると、目の前に軽自動車が止まった。カーステレオからは北島三郎が大音量で流れている。「乗るか?」と声をかけてきたのはその友人だった。僕はそれに苦笑いを浮かべた。すでに車には彼の所属するラグビー部の大男たちが、天井に頭をぶつけそうになりながら小さくうずくまるように乗っていたからだ。彼らの重量で車はいわゆるシャコタン状態になっている。「乗れねって」と僕が答えると「大丈夫だ。お前は小せぇし」と笑った。確かに僕はそう大きくはない。でもちょうど世代の平均身長くらいだ。連中がでかすぎるのだ。そいつの部屋はカーテンの代わりに大漁旗が張られ、外からはそれがはっきりと見えていた。いかにも港町の男くさい奴だった。あいつの実家は大丈夫だったのだろうか?

 ヘリコプターからの映像で、その近くにある鮎川港が一瞬映し出される。鮎川はかつて捕鯨で栄えた町だ。僕くらいの年齢で沿岸部育ちだと、子どもの頃に一番食べた肉は鯨かもしれない。少なくとも僕はそうだ。母親の味のひとつと言っていい。捕鯨についてはいろいろと論議があるけれど、ある地域においてはそれが普通の食文化だったのは間違いない。鮎川港の近くに立ち並ぶ食堂では、調査捕鯨による肉を使って、鯨料理を出している。僕も食事時に町の近くを通りかかると、鯨の竜田上げを食べに行っていた。おそらくそれらの店々も途絶えそうな捕鯨と共に、押し流されてしまったのだろう。

 無責任なコメンテーターや専門家が、先日のチリからの津波が小さかったので、津波に対する防災意識が低下していた事が被害を大きくしたのではないかなどと言っている。

 確かに東北の沿岸部はある意味で津波なれはしている。しかしそれは単純な防災意識の低下ではなく、一種の経験則だ。その辺りは、どこの町に行ったって、三陸大津波の時はここまで、チリ地震津波の時はここまで、といった津波到達の指標がある。更に僕自身もそうだが親や近所の人から津波のすごさを聞かされて育つ。しかもチリからの津波と違い、体験した事のないあの大きな揺れだ。津波が来る事くらいどんな人でも分かる。

問題はその規模だ。過去に聞いている津波の規模をはるかに越えていた。僕はかつての津波経験者たちに、鉄筋の三階まで上れば安心だと聞いていたし、港で働く人たちはそれを信じていた。しかし南三陸町では四階に逃げても駄目だったという。つまり過去の経験則がまったく役に立たなかったのだ。油断があったのは「津波がこない」という事ではなく、「ここまではこない」という思い込みだった。

 また識者とやらが、車で逃げると渋滞するから駄目で、とにかく走って高台に逃げるのが鉄則だなどと言っている。

 机上の一般論なら間違いなくその通りだ。けれども過疎で高齢者が多い町ばかりなのに、そんなに元気に走れる人ばかりだと思うのがおかしい。実際に犠牲者の多くは高齢者だ。足が不自由な人や、寝たきりの人は見捨てろとでもいうのだろうか?事実、そういう親族を助けようと家に戻り、そのまま流されてしまった人の話をたくさん聞く。足の悪い旦那を後ろから励ましながら歩いていた奥さんだけが、ほんのわずかな差で津波にのまれたとか、身障者の家族を車に乗せて逃げようと頑張っていたが、結局は家族全員が犠牲になってしまったとか、近所の歩けない人を助けに行ってそのままとか、それぞれにそれぞれの戦いがあった。

 亡くなった人たちの小さな頑張りに目を向けず、暗に考えの至らない愚かな行動の結果だとするのは、あまりにも安易で残酷だ。

 遠く離れたところでは、そんな好き勝手な言論が飛び交っている。

 せめて自分にできる事として、じっくり地図くらいは見てから話をして欲しい。

 たとえば仙台から千葉県にかけての広大な海岸線はほぼ平坦地であり、リアス式海岸ではない。仙台湾からだと東京湾に至るまで、港はあっても湾はひとつもないのだ。そのほぼすべてが最大十メートルもの津波にのまれた事実を想像して欲しい。新聞にある地名を調べれば、内陸五キロくらいまでは、軒並み全滅しているところが多いのが分かる。川があるところでは内陸の海に面していない地域でさえ大きな被害にあった。

 もっともっと想像して欲しい。

 津波の映像は助かった人のものばかりだから、高い位置から撮っている。自分がその場で町の中にいるとして、想像してみればいい。ビルや建物のせいで津波がどこからどうくるかなんて分かりはしない。昔のゴジラは身長五十メートルという設定だった。都庁の陰にゴジラが隠れていても見えないように、自分の位置から津波の高さはなかなか分からない。気がついた時にはのみ込まれている。津波を知る町の者はふとそれを想像する事がある。少なくとも僕はそうだった。そんな地域の人たちでも逃げられはしなかった。

 天災は誰のせいでもない。

 それなのに推理小説みたいに、誰か犯人探しをしているように見える。

 それにしても妙なのは、テレビで語られるメッセージの数々は、いったい誰に向けられているものなのだろう?まだ圧倒的多数の被災者は、僕と違って電気が通じないところにいる。テレビなんて見れやしない。 放送といえば、新聞には南三陸町で最期まで防災無線で避難を呼びかけ続け、津波の犠牲になった職員二人の話が載っていた。そのうちのひとりはまだ結婚したばかりの若い女性だ。「われわれは目に見えない多数のために働く、という口実のもとに、目に見える一人のために何かするのを避けていることが多いように思う」と書いていたのは心理学者の河合隼雄だ。

 僕は思う。その二人の呼びかけは、きっとよく知っている誰かを思いながらのものだったに違いない。あの人は逃げたかな、この人は大丈夫だろうかと、まさに目に見える一人ひとりに向かって、声をかけていたのだと思う。 一方、テレビに出ている識者とやらが言う。

 避難所ではこうして協力し合いましょう。そして頑張ってください。

 生活の中ではこういう工夫をしましょう。そうやって頑張るのです。

 日本中が応援しています。だから頑張りましょう。

 どこのご家庭にでもあるラップを身体に巻くと暖がとれます。阪神淡路大震災での知恵ですよ。

 おいおい。

 家や車や、多くの人をさらっていくほどの津波だ。ラップだけは流されないとでも思うのかい?


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