酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

接点 ふたりの科学者。それから・・・関東大震災

2012-04-16 12:12:56 | 東日本大震災
理研、その敷地内には数棟の研究施設が立っております。
寺田研究室と仁科研究室は同じ棟にございました。
もっとも、サイクロトロンを作成した際は、仁科研究室は膨大な敷地に移動しております。
寺田研究室は、研究員が一人しかおりません。
中谷宇吉郎です。
生涯を雪の研究にささげた人物として知られております。

「先生、仁科研・・凄いですね。続々と全国から俊英が集まっているようですが・・」
「ここでは、大学では出来ない研究が存分にできるからね。これは理研の為にもいいんだと思うよ」
「先生は原子物理があまり好きじゃない・・と」
「なぁに、本道を追う研究は必要だと思うよ。でも、我々は我々の探求するべきところがあって、それはそれで役立つような研究になる」
中谷は、「自分自身が本道と外れている」そう思うのでした。

「寺田先生、おりますか」
「仁科研の坂田君、竹内君・・先生は外出中で・・」
中谷は実験器具の電源を切ります。
「この実験はなんですか?」
「これは、火花の研究に使ってるんだ」
「火花?線香花火の研究も寺田研はしてましたよね!実験で線香花火だもんなぁ」
「坂田君、何が言いたいんだ?」
「いやね、噂に聞く『寺田研究室の物理学』というものが、一体どんなものなのか知りたくなって・・」
「だったら、もう見たじゃないか。実験中なんだ。帰ってくれ!」
「中谷さん、今や量子力学が世界を席捲しているんです。これで宇宙も何も説明できるようになってくるんです」
最後にこう言い残した竹内です。
中谷は、呆然と立ちつくします。
「我々の研究は時代おくれなんだろうか・・」自問を続ける中谷でした。

「ねぇ、君。不思議とは思いませんか」
寺田の口癖です。
中谷宇吉郎は、関東大震災で被災した直後、寺田寅彦と出会います。
生涯、寺田を師として仰ぎ、寺田の死後もその後継者としての地位を高めてまいります。
北海道大学へ渡り、「雪の研究」で世界的学者となって行きます。
「中谷君、僕はね、『雪は天からの手紙』そう思っているんだ。雪の生涯は、儚い。だけどその短い生涯の中に多くの手紙を残している。それを解き明かすのも、理なんだ」
「先生・・・」
「その理は見出し、自然界の謎に迫るのは、僕らの役目だと思うんだ。そして、人の為になるような・・そんな研究をしてみようとは思わないか」
中谷宇吉郎もまた数多くの随筆集を残しております。
寺田寅彦の死後、見事にそれを実践し昇華させているようでもありました。

大正12年。九月一日。関東大震災発生。
寺田寅彦、日記。
(上野で二科会展に招待されております。寺田はその会場で地震に遭遇します)
T君と喫茶店で紅茶を呑みながら同君の出品画「I崎の女」に対するモデルの良人(おっと)からの撤回要求問題の話を聞いているうちに急激な地震を感じた。椅子に腰かけている両足の裏を下から木槌で急速に乱打するように感じた。多分その前に来たはずの弱い初期微動を気づかずに直ちに主要動感じたのだろうという気がして、それにしても妙に短周期の振動だと思っているうtにいよいよ本当の主要動が急激に襲って来た。同時に、これは自分の全く経験のない以上の大地震であると知った。(中略)主要動が始まってびっくりしてから数秒後に一時振動が衰え、この分では大した事もないと思う頃にもう一度急激な、最初にも増した烈しい波が来て、二度目にびっくりさせられたが、それからは次第に減衰して長周期の波ばかりになった。
無事な日の続いているうちに突然に起こった著しい変化を充分にリアライズするには存外手数がかかる。この日は二科会を見てから日本橋へ出て昼飯を食うつもりで出掛けたのであったが、あの地震を体験し、下谷の方から吹き上げて来る土埃の臭いを嗅いで大火を予想し東照宮の石灯籠のあの象棋倒しを眼前に見ても、それでもまだ昼飯のプログラムは帳消しにならずそのままになっていた。しかし、弁天社務所の倒漬みたとき初めてこれはいけないと思った、そうして始めて我が家の事が少し気懸りになって来た。
弁天の前に電車が一両停まったままうごきそうもない。車掌に聞いてもいつ動き出すか分からないという。後から考えるとこんなことを聞くのが如何な非常識であったかよく分かるのでるが、その当時自分を同様の質問を車掌に持ち出した市民の数は万をもって数えられるであろう。(略)十一時頃帰る途中の電車通りは露宿者で一杯であった。火事で真紅に染まった雲の上には青い月が照らしていた。


かなりの長文です。この日記を見ていて、ふと気づきましたのが「ある友人」君の手記です。
寺田寅彦はその日記において、震災記を記しております。
寺田にしても、予想を超える関東大震災の揺れです。ですが、その状況下におかれてなお、。物理学者として、自らの分析を冷静に行っております。
これは寺田の寺田たる所以。流石としかいいようがありません。
この後の状況は大正時代の当時と先の震災でも何も変わらない。
この事実に驚きました。

九月二日。曇り
(略)浅草の親戚を見舞うことは断念して松住町からお茶の水の方へ上がって行くと、女子高等師範の庭は杏雲堂病院の避難所になっていると立ち札が読まれる。お茶の水橋は中程の両側が少し崩れただけで残っていたが駿河台は全部焦土であった。明治大学前に黒焦の死体がころがっていて一枚の焼けたトタン板が被せてあった。神保町から一ツ橋まで来て見ると気象台も大部分は焼けたらしいが官舎不思議に残っているのが石垣越しに見える。(略)夕方に駒込の通りへ出てみると、避難者の群が陸続と滝野川の方へ流れていく。(略)妻が三毛猫だけ連れてもう一匹の玉の方は置いて行こうと云ったら、子供等がどうしても連れて行くと云ってバスケットかなんかを用意していた。


延々と日記は続いております。
この日記に描かれている寺田さんご一家の行動は、くしくも、被災地で聞いている数々の話と共通していることが解ります。
上記、ペットの猫の事。またここでは割愛いたしておりますが、被災した、親戚数名を預かることになったこと。
九月三日には食料の買い出しをしております。

帰りに追分辺りでミルクの缶やせんべい、ビスケットなど買った。焼けた区域に接近した方面のあらゆる食料品屋の店先はからっぽになっていた。そうした食料品の欠乏が暫時に波及して行く様が歴然と分かった。帰ってから用心に鰹節、梅干し、缶詰、片栗粉などを近所へ買いにやる。何だか悪い事をするような気だするが、二十余人の口を託されているのだからやむを得ないと思った。午後四時にはもう三代吉の父親の辰五郎が白米、薩摩芋、大根、茄子、醤油、砂糖などを積んで持って来たので、すこし安心することが出来た。しかし、またこの場合に、台所から一車もの食料品を持ち込むのはかなり気の引けることであった。(略)夜警で一緒になった人で地震当時前橋に行っていた人の話によると、一日の夜の東京の火事は丁度火柱のように見えたので大島の噴火でないかという噂があったそうである。

寺田寅彦は、夜警団のボランティアを買って出ます。
例の朝鮮人暴動というデマが流布していたからでした。

冒頭の写真は寺田寅彦の絵葉書です。宛は「小宮豊隆」です。これには、学者としての寺田の見方が記されております。
(小宮豊隆は独文学者。後に漱石の記録を整理しております。帝大時代に寺田と小宮は出会っております)

九月二十九日(土)小宮豊隆宛書簡
(略)今度の地震は東京ではさう大した事はなかったのです。地面は四寸以上も動いたが振動がのろくて所謂加速度は大きくはなかつたから火事さえなかつたら、こんな騒ぎにはならなかつた。死傷者の大多数はみな火災の為であります。火災を大ならしめた原因は風もあるが地震で水道が止まつた事、地震の為に屋根が剥がれて飛び火を盛にした事、余震の恐怖が消防を萎微させた事なども大きな原因のやうです。(略)帝都復興院といふものができるらしい、不相変科学を疎外した機関らしいやうです。新聞に出るやうなことは一々申し上げません。調査の必要から昔の徳川時代の大震大火の記録を調べているが、今度吾々のなめたと同じやうな経験を昔の人がもう埃になめ尽くしている。それを忘却してしまつて勝手な真似をしていた為にこんな事になつたと思ふ。昔に比べて今の人間がちつとも進歩していない。進歩しているのは物質だけでしやう。嘗て昔の政府や士民のやり口が今より立派なやうな気もします。朝鮮人が放火したなどといふ流言から無辜の人を随分殺し、日本人までもむざむざ殺したのが随分夥しいさうです。朝鮮人をかばった巡査迄も殺されたさうです。それが面白半分にやつたのも大分あるらしい。明暦の大火では丸橋忠弥の残党が放火して暴れるという流言があつたさうですが今度程の騒ぎはなかつたらしい。


中谷宇吉郎はその自身の随筆「流言蜚語」にその様子と自論を記しております。
震災で自らが被災した中谷の視点は、上記寺田のものより激しく、そして厳しく日本人を非難しております。

先に震災記を一部紹介しました。
次回、再び、地震と津波に寺田寅彦がどう考え、どう行動し、何を記録として残していったのかを語ります。
おそろしい位に予言に満ちた、そして未来への警鐘。
東日本大震災を寺田が目撃しておったならば、「何も生かされていない」この事実に驚くのでしょう。
「災害は文明が発達するほどその被害は甚大となる」
この言葉の重さと共に、受け入れなくてはならない事実。
あまりにも、その代償が大きかった。

くだまきは「寺田寅彦」をもう少し掘り下げて見ます。
本日最後にもう一つ寺田寅彦の言葉を語ります。

しかし、困ったことには「自然」は過去の習慣に忠実である、地震や津浪は新思想の流行などには委細かまわず、頑固に、保守的に執念深くやってくるのである。紀元前二十世紀にあったことが紀元二十世紀にも全く同じように行われるのである。科学の方則とは畢竟「自然の記憶の覚書」である。自然ほど伝統に忠実なものはないのである。
それだからこそ、二十世紀の文明という空虚な名をたのんで、安政の昔の経験を馬鹿にした東京は大正十二年の地震で焼き払われたのある。
(昭和八年、鉄塔より 「津浪と人間」より)

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