酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

無事。

2011-03-29 09:47:25 | 東日本大震災
さ○さん高校から、酔漢さん記載の大学を経て、現在唐丹町小白浜在住の「しんぺい」さんの状況です。
3月28日昼、「しんぺい」さん本人と連絡が取れました。(携帯電話)
御家族全員無事で、小白浜の御自宅におられます。
電気はまだ来ておらず・固定電話もダメだそうです。
声は元気そうでしたので、ひとまず安心しました。

上記、googleの情報検索(安否情報)で、無事を確認できた。
くだまき、下記へ投稿して2日。
ようやく彼の情報が入ってきた。
ここでは、彼の安否を心配していた友人が三名。(酔漢も含めて)
彼の人望の厚さを垣間見る思いがした。

今朝のNHkニュース7時35分ごろ。丹治さんが被災した「新地駅」の避難の様子をCG等を使って再現していた。
「あの列の中に丹治さんがいた」
そう思いながら見ていた。
あの列車から避難できたのはほとんど奇跡に近かったことが分かった。
そう、丹治さんも話していたが、「あの時、地元の警察官が乗車していなかったら」であった。
列車が地震で停車し、列車から降車するところまでは、出来たであろう。しかし、警察官二名は全員40名を整列させたうえ、列を作って避難所まで速やかに誘導させていた。
途中歩けなくなったお年寄りは、軽トラを止めてそれに乗せて避難所まで連れて行ったとか。見事である。
列車内の乗客乗員が無事でいられたのは彼らのおかげである。
「丹治さん一人で列車を降りていたら」
そこから先の発想は止める。

ひーさんのコメントから「その時、どこにいたか。これが運命を分けた」とある。
紙一重の生還は「大和を語る」で何度となく話して来た。
そうなのだ。

3月11日。母は「父法要案内状」を出すため、郵便局へ向かった。丁度投函が済んだのが、午後1時半。家に着いたのが2時頃。
その日は午前中寒くて出歩けず、午後近くになっての外出であった。しかも、いつもならば、もう少し、遅い時間だったはずである。
「いつもの時間であったら」
そこから先の発想は止める。

名取在住の従弟は津波で呑まれた名取川沿線の道を、ほぼ毎日車で走っていた。
だが、地震発生時は、移動することなく、自宅兼工場にいた。
「いつものルーティンだったら」
そこから先の発想は止める。

酔漢、当初の休みを3月7日~11日まで計画していた。
帰省する予定でいた。
おそらくそうであったら11日は名取叔母の家へ向かう途中であったろう。
塩竈市内から閖上の交差点まで、(東部東道路を使うのが好きでなかったので)車を運転していたに違いない。
いつも、2時半ごろに塩竈を出るのが自分の癖。
だが、休みが無くなる。
「当初の休みだったら」
そこから先の発想は止める。

いつもの生活をしていたから。いつもと違った道を通ったから。いつもと同じことをしていたから・・・・。

運命を分けていることを改めて知った。

「生死を分けたのは、あの地震の時どこに居たかですね。家が海岸で波に飲まれても離れた街に仕事に行ってればセーフ! また学校に行ってた子供も助かったりしている。
しかし、自分が助かっても家族が揃わなければ、やはり悲惨なことですね。」

ひーさんのコメントを噛みしめている。






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8 コメント

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googleですか~ (ひー)
2011-03-29 17:23:38
役に立つものですね。
確認できたことなによりです。
良かったです。
いつも地震があると思うのですが、携帯は通話を縮小していることに「何のために携帯を持っているのか?」・・・混雑し機会がパンクするのは知っていますが、その為に容量を増やして欲しいと思うのです。
あの時テレビでは、緊急の方以外は使用を控えて下さい!と云っている。
あの時緊急じゃなくていつが緊急なのかと問いたいくらいだ。
携帯が繋がっていれば助かった人がいたのかも知れない。抑制するのではなく緊急の為の設備を増やして欲しいものです。
これは、民間では限度と言うものがありますので、国のフォローが必要でしょう。
又医療施設でも停電の為に亡くなってしまった方がいます。皮肉なものですね。
返信する
お邪魔いたしますm(__)m (クリス)
2011-03-29 19:57:50
震災後に話していて、父が、
『いわきか仙台だったら、大変なことになってたな…』
としみじみと申しておりました。
仙台は地震の被害が大きく、いわきは原発に近いことから、心配の少ない所にいてくれて良かったという意味だと思います。

今まで住んだ所とは違って、現住地は全く親類縁者も親しい友人もいない土地なので、もしこちらの被害が大きかったら、何をおいても飛んできたのではないかと思います。
あの日あの時、その人が何処にいたのかが、はっきり明暗を分けたというのは、確かにそうなのでしょうね。


土曜日のことですが、丹治先生からお電話を頂きました。
少し前に手紙を差し上げていたのですが、ようやく郵便が再開したそうで、届いてすぐに電話してくださったようです。
お元気そうな声を耳にすることが出来て、本当に嬉しかったです。

一日も早く復興して欲しいところですが…福島県出身者としては、原発問題が一刻も早く収束することを願うばかりです…。
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地獄から生還した花山OB (takeda )
2011-03-30 06:24:42
身勝手な言い分かもしれませんが、普段、直接やりとりする人達が生きていたのは、不幸中の幸いでした。
そのなかでも、花山で同期だった親友が、石巻で津波から逃げて、逃げて、逃げまくってアパートの二階までたどり着いたのは奇跡的でした。
同じく同期のチンネン君は仕事の合間に花山まで来てくれましたが、単に自然の家の裏山を抜けるだけで、車がスタックしたので、助けを求めるためだったという(笑)。
さすが、チンネン、美談には終わらないと思いました。

なぜか、facebookやブログを通じてお見舞い金が届いたので、チャリティーに遣おうと計画しています
返信する
Unknown (ぱるえ)
2011-03-30 14:41:31
丹治さんも危機一髪だったんですね!
本当に本当にご無事でよかったです!
新地駅の話は今日のお昼のワイドショーでもやっていました。
警察官のお二人の誘導も素晴らしかったですが、
パニックを起こさずに指示に従った乗客の皆さんの冷静な行動もよかったんだと思います。
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ひー様へ (酔漢です )
2011-03-31 07:45:58
釜石からメールが来ました。本人です。
「舟と車が流された」
とありました。
彼にとっては生活の糧とも言うべきものです。
心中察するところですが、最後にはこう。
「今、早寝、早起き。健康的だ」
逆鏡に強い彼。
この強がりで本当に安心した次第です。
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クリス様へ (酔漢です )
2011-03-31 07:53:05
丹治さんから貴殿のエピソードを聞いておりました。
あの学生であったのかと。思い出した次第です。丹治さんの消息については、ドイツ在住の方も探しておったとかで、その一部がドイツ語だったが為に、日本からのコメントがなかったとか。
この事実、はいかにも、丹治さんらしい。
広野町役場で働く友人。(今は避難先)
もっか奮闘中。
彼女が早く戻れる日が来ることを祈っております。
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takeda様へ (酔漢です )
2011-03-31 08:26:15
第一回のこども自然クラブのメンバーとは違っておりました。
事件多発!ボランティアであった僕らはその都度右往左往。徹夜の日々。
ですが、あの悪がき供?(失礼)が大人になって花山へ帰って来ました。
ちんねん君。らしい。
彼の一図な思いは、少年時代から変わってなかったのですね。
この気持ちがいいですね。
他のボランティアにも伝えたいのですが。
ごとう君にお知らせしましょうか。
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ばるえ様へ (酔漢です )
2011-03-31 08:30:57
「本当に危機一髪だった」と丹治さんは話しておりました。
逃げている最中、津波が迫ってくるのが分かったとか。避難所も高台にあるとは言え、山の上とかではなかったようです。
最初にヘリコプターでの映像では、折れ曲がった電車が映し出されました。
時刻表と丹治さんのメールの時間とを照合。
「この電車に彼が乗車していたのは間違いではない」と分かったときの思い。
本当に焦りました。
本人、大学には戻れない為、コメントができない(研究室にPCがあります故)と申しております。
皆様へ宜しくとの事でした。
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