酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

ソ連貨物船が来た!小学校の頃

2007-06-15 11:57:10 | 塩竈小学校の頃の話
「いいか今日、ソ連の貨物船が一万トン岸壁さぁくっからっしゃ。間違っても、見さぁいぐんでねぇど」
朝一、エツジの話でした。(学級担任です。毎度ですが)
そんな話聞いて「ああそうですか」と引き下がる、僕らではないのです。

「なしてだべ。エツジもわざわざ、貨物船来る事なんか、教えっことねぇべさ。俺達に見に行けって言ってるもんでねぇかや」
「んだっちゃ。だれ、見さぁ行けってことでねぇかや」
「んだ、んだ。実はエツジが一番みてぇんでねぇか?」
「んだっちゃ」
「んで、見さぁいぐべ。なんじょする?」
「自転車で、貨物駅(現在の本塩釜駅。当時は塩釜貨物駅でした)の前さぁ3時でいいべ。掃除ねぇからっしゃ」

話は、すぐに決まりました。
一万トンの船は、狭い塩釜港では大きく見えます。当時まだ、仙台港は建設中でしたから、東北の港で一万トンの船が入れるのは塩釜港しかありませんでした。また税関事務所が合同庁舎にあり、横浜より北、東北にはここ塩釜にしかありませんでした。ですから、外国船が入ることはまれにあるのでした。塩竈市立第二小学校は港を一望に見渡せる山の上にあります。昼休み誰かの声が聞こえました。
「ソ連の貨物船、今、港さぁ入ってくっとこっしゃ。こっちゃから見えっぺ」
ドッヂボールを中断して、港の見えるとこまで行きました。タグボートに引かれながら、一万トン岸壁の奥に消えていきました。
「でけぇなや」
「やっぱすぃ、見さぁいぐべ」

朝打ち合わせていた通り、僕らは午後3時、塩竈貨物駅に集合しました。
「んで、全員だべ。行ぐべか」
メンバーはいつもの?通りです。酔漢を含めて、5名。もちろん、いろいろ話題を提供してくれる、しんどう君、さとうただし君、すがわら君、そして、こうき君です。
貨物駅の脇、踏み切りを越え、自転車屋の前からコンビナート方面へ自転車を走らせます。一本杉消防署(ここには塩竈唯一の化学消防車がありました)の手前、可動橋を過ぎ、さて左折、岸壁に向おうとしたとき、道路が封鎖。検問所が出来ていました。交通整理のおまわりさんが僕らを止めました。
「これ!おめぇらこっから先は立ち入り禁止だべ!何しさぁいぐんだ!」
「やべぇっちゃ。なんじょすっぺ」
「俺ら、社会の自由研究で、第二管区の船さぁ調べる事にしたのっしゃ」
(すげぇ、言い訳。こうき君です。こんな事思いつくんですから。さすが委員長です。で、現在はどこか高校の先生しているはずです)
「おじか(二管区当時の旗艦。今は ざおう だけどね)なら手前の岸壁っしゃ。そんな事言って、ソ連の船、見さぁ来たんでねぇべな!」
      図星!
「やっぱすぃ、作戦変更だべ」「んだっちゃ」「んでも、なんじょすっぺ?」
後ろで見ていた僕らは先頭にいるこうき君がどうするか、見守っておりました。
「すみません。岸壁、間違ってました。そこから曲がって行くからっしゃ」
そうか、こうき君は、一度退散の方法を取ったのでした。
道路の隅、作戦変更です。
「なんじょすっぺ?」すがわら君
「岸壁伝いに行ったらいっちゃ。そっから、船さぁ近づけっぺ」しんどう君。
「おめぇ、このあたり詳しいなや」「とうちゃん、第一貨物さぁいたおん。そんでよくつりこさぁ、したべっちゃ」「んで、しんどうさぁついていぐべ」
なるほど、彼の言った通りでした。じゃりが山のようになっている、岸壁の隅を通り抜け、倉庫伝いに自転車を走らせました。でかい亀井(総合商社カメイです。まだ先になりますが、中学校の頃で詳しくお話します)の倉庫を抜けた時です。船尾が見えました。
「でけぇーーーー」みんな、一斉に自転車を止めました。
「ビルよりでけぇんでねぇか」
濃い青色した船体に、積荷を降ろした後でしょうか、喫水線が見えてます。
「ふみひこ(すがわら君)何持ってんのっしゃ?」
「双眼鏡っしゃ」「用意いいなやな」
「誰か見えっか?」
「いたっちゃ。外人だべ」
「どれ、おれさぁもかせ」 みんなしてふみひこ君の双眼鏡の取り合いです。
なるほど、甲板の上から下を覗いている船員が見えました。
「女もいっぺ」「うそ!いるわけねぇっちゃ。どれ貸してみ。んだ、女っちゃ!」
彼らは、僕らに手を振りました。
「手ば振ってきたど」僕らも、調子の乗って手を振りました。
「おーい」とさとう君が叫びました。そして、みんなして「おーーーーい」って手を振ったその時。
「こらぁ、おめぇら、何してんのっしゃ!」
「やべぇ、逃げっと」
僕らは一目散にこの場を離れました。
「でけかったなや」「んだ」「で、何しさぁ、塩竈に来たんだだべ」
僕らは無事に帰られたと思っておりました。って?翌日です。
「あれほど、言ったのに、昨日ソ連の船見さぁ行った馬鹿いるおん!酔漢!こうき。こっちゃ来!」
エツジが怒っています。
「見てぇ気持ちさぁ、わがんなぐてぇねぇけんど、あれ程いぐなって言ったでねぇか?」
「やっぱし、見てかったおん」と私。「酔漢とおんなじっしゃ」とこうき君。
「他にもいたのは知ってんけんど。あぶねぇからいぐな!って言ったのっしゃ。おめぇらの班、二週間バツ当番だかんな」

今にして思えば、共産圏の船ですから、いろいろ規制されている部分も多かったのだと思います。電気屋から最新式のラジカセが消えたりしましたから。でも、船はかっこよかったなぁ。

その年の冬、塩竈は(理由はわかりませんが)ソ連時代のミンスク市と友好都市となりました。塩竈第二小学校の廊下壁には、ミンスクの小学校から、児童の書いた絵が飾られました。その絵は僕らとは明らかに違う色彩を持っていました。でも、普段画用紙に絵を書いている僕らでしたが、彼らの絵は、カレンダーの裏だったり、再利用した紙を使っていたのを覚えております。「もったいなくて使ってんのかや」僕らの間で話題になりました。そして、僕らの書いた絵も確か、ミンスクへいったと思います。
ソ連の体制が崩壊し、ベラルーシになりましたが、あの絵を書いた当時の子供達(僕と同じ年の頃)は、今どんな生活をしているのか、ふと思うのでした。

コメント (7)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 塩釜に来た矢吹ジヨーって?... | トップ | ロッテオリオンズの話 プロ... »
最新の画像もっと見る

7 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
「天の山」 (Tetchan)
2014-05-30 21:16:16
みなさま、はじめまして。 牛生町に平成時代に移住してきたTetchanと申します。
娘たちが三小でして、きょう暇があったので「天の山」のまわりを探検しておりました。 
「天の山」の東側の道路が三小の体育館裏へつながっているのを発見しアハ体験でした。
それで、試しに検索してみたら、こちらのHPへたどり着いた次第です。
ソ連船の話を読んでいて、娘に「これ、塩釜に住んでるお爺さんの昔話だよ。」なーーんて言ってたら、なんと私のほうが3歳上でありました。(笑)
「天の山」のお屋敷が移住当初から気になっておりましたが、少し謎が解けてうれしいです。
そのへんで、ほぼ同年代の「天ちゃん」とすれ違っているかも知れないんですね。 そう考えると面白いです。
昔は牛生町の下部地区は底なしの田んぼだったらしいですが、もしもこのへんのご記憶がございましたらお聞かせください。 
p.s. 大震災の津波は少し到達しました。 我が家は大丈夫でしたが、道路は数十センチの川になりました。
土地を買う時に、近所のお爺さんにチリ津波は来なかったと聞いていたので買ったのでした。
返信する
36年、でも・・・ (丹治)
2008-06-06 11:03:16
小生、36年の生れです。明治じゃありません。勿論のこと、1936でもありません。
武蔵の進水、確か大潮の日の満潮の時刻を選んだのではありませんか。柔かい地盤の上に鋼鉄製の重量物を組み立てたり動かしたりするノウハウを三菱重工が持っているのは、三菱長崎で武蔵を船台の上で建造し、進水させた実績があるからだそうですね(国は忘れましたが、地盤の緩い場所に溶鉱炉を建てたのが三菱重工だと聞いております)。大和と信濃はドックで建造してドックで進水させたんでしたね。武蔵は吉村昭氏の『戦艦武蔵』、信濃は豊田穣氏の『空母信濃(の生涯?)』なる本があります。(申し訳ありません、豊田穣氏の信濃の本、正確な題名は失念しました)。
ところで酔漢さん、エツジ先生はどうして生徒たちがロシヤ船を見に行くのを禁止したんでしょうね。ラチを警戒されたのでせうか(小生もオヤジに「一人で見に行ってはイカン」と言われました)。ロシヤ船に女の人が乗っていること、小生も子供心に不思議でしたよ!!
返信する
進水式 (クロンシュタット)
2008-06-06 05:58:22
武蔵の進水の際は、艦体が長崎港内の対岸にぶつからないよう、相当気を使ったようですね。
外国がらみの建物の前には、目隠し用の建物を、わざわざ建ててまで隠蔽したようです。

すんません元軍国少年だったもんで...

東北造船の隣の造船所は、友人の「天ちゃん」の家の所有でした。
下馬の交差点から七ヶ浜へ向かう道路周辺は、「天の山」といいますが、「天の山」のてっぺんに「天ちゃん」の家があります。
昔々の地主さんだったのですね。
よく「EL&P」なんかを聞きに遊びに行ってました。
「天ちゃん」もいいおばさんになっているんでしょうね。確か宮城学院→一女というゴールデンコースでしたが...
返信する
あの話ですね! (酔漢です)
2008-06-05 18:22:29
「本日は軍の防空演習であるから、家の外へは出ないやうに」
あちこちに木塀が立てられ、港が見えなくなってました。サイレンがなり、なんでも港に近いあたりは、岸壁から溢れた波で津波のようだったとか。

そんな事実。知りません?本当だって、37年生まれですから。
明治だって?ちゃんと昭和です!

一度、ドックの中での進水式に招待されたことがあります。あれは、間近でみると迫力があります。
船にお酒をぶつけるのを観ました。
映画観てるみたいでした。

横須賀の港。風景がやはり塩竈に似てます。
もっとも、横須賀には20万トンの岸壁がありますが。
返信する
津波じゃないけど・・・ (丹治)
2008-06-05 16:57:19
津波といえば・・・地理自信津波の時、今の本塩釜駅のガード辺りに遊覧船が立てかけ状態になったそうですね。生れる前の年ですから、実際に見た訳じゃないですが。
十勝沖地震は小学校一年生の時でした。「津波が起きた」ってんで、悪ガキ何人かで港に行こうとしたらオヤジが血相変えて止めました。恐いもの知らずっていうか、ガキは誰でも考えることが同じですね。
この地震は、宮城県内では犠牲者が出た最後の津波だと記憶しております。確か、七ヶ浜で一人。何とも痛ましいことです。
津波じゃないけど、こんなこともありました。東北造船で一万トン級の貨物船が進水するってんで、対岸の岸壁から見てました。船が海に入るや、岸壁の空気抜きの穴が一斉に噴水になったんですよ。塩竈港も狭い港ですから、一万トンの船が急に入って水位が上ったんですね。
酔漢さん、長崎で武蔵が進水した時のことを思い出しませんか?
返信する
津波警報でねクロンシュタット様へ (酔漢です)
2008-06-05 12:16:44
ある土曜の午後、友人と遊んでおりましたら、塩釜消防署(旧本塩釜駅隣、火の見やぐらがありました)の放送で、津波警報が発令されたとか。
遊びの途中の酔漢一味は、「行ってみっぺ!」となりました。観光桟橋あたりで、消防の人に
「あぶねぇからこっちゃくんな!」といわれまして。
「んで、人いねぇとこさいぐべ」と。しんかし川の河口へ移動。そこには、潮位を測る計測棒があったのでした。
しばし待つこと1時間。
「津波こねぇのかや」と思った瞬間。
急に潮位が下がりました。約50cm位。そしたらすぐ潮位が1m位川面がせりあがりました。
その時、サイレンが一斉になりました。
津波を目の当たりにしました。
しんかし川を海が逆行しました。
「小さくてえがったっちゃ!」
本音でした
返信する
1万トン岸壁 (クロンシュタット)
2008-06-04 06:27:37
1万トンのソ連船の初入港は、結構TVとかでも取り上げていましたね。
実は、初入港の時なのか、忘れてしまいましたが、
私もソ連船を1万トン岸壁まで見に行ったことがあります。

仙台新港(昔は「新」が付きましたね)が出来る前は、港塩釜には、誇りがありましたよね。
でも、震度3ぐらいの地震でも、街中に津波警報が鳴り響くのは、困りモノでした。
我が家の隣が、海上保安庁の社宅で(おじかの船長の息子は友人)、警報のたびに、近所中大騒ぎでした。
返信する

コメントを投稿

塩竈小学校の頃の話」カテゴリの最新記事