接点 ある二人の科学者
2011-03-25 11:26:16 | 東日本大震災
過去に語ったところではございます。
ですが、今一度振り返りたい。斯様に思いました。
福島原子力発電所の未曾有の大事故。
「終息宣言?」耳を疑うばかりです。
広野町役場におります、チー坊。彼女は役場復帰と共に、広野町へ戻りました。
釜石市唐丹におります「しんぺい」君から一通のメールが届きました。
「今、地域のコミュニティーをつなげていくのに必死」
災害のあった、嘗て自身が住んでいた土地を離れる事を余儀なくされている方々多々。
地域に残っている彼、彼女達が、嘗てのような街を取り戻すためにどれだけの苦労をしているのだろう。
岩沼市の集団移転計画が発表されてのは一昨日。
これは海岸地域を中心部に近い高台へ移転するというもの。
同じ市内であれば、まだよかろう。と思うのは、住んでいない自分だからなのだろうか。
自問を繰り返しております。
さて、これも過去の「くだまき」からなのですが、大和を語るでも申し上げましたように、「兵器が技術を押し上げる」。
この事実を今一度見てみようと考えて、この「くだまき」にいたしました。
「原子力」と「地震」。特に「原子爆弾開発」の史実を整理致します。
「リケンのふえるわかめちゃん」。多賀城に工場がございます。
酔漢も、工場見学へ出かけたことがございます。
これは、酔漢の勤めております会社の販売実績上位のご褒美でございました。
(塩竈、松島一泊・・・・実家さぁいぐみてぇなもんだべさ)
「リケン」は漢字で「理研」と書きます。
会社概要を見ますれば、こうございます。
わたしたち理研ビタミンの「企業理念」は、1917年 (大正6年) の理化学研究所創立時から「天然物の有効利用を図る技術と商品で、人々の健康と栄養に寄与し、社会に貢献する」ことです。 この企業理念を継承し「経営理念」として掲げます。
大正6年。「理化学研究所」が創設されております。創始者「高橋 譲吉」。タカジアスターゼの創製。アドレナリンの結晶単離という世界的な科学者でございます。
その、三代目所長が「大河内正敏」でした。
専門は造兵学。政財界とも太いパイプを持つ貴族院議員でもございます。
「所長!利き酒をしましょうよ!今度は自身作ですぞぉぉ!」
大河内所長に声をかけておりますのは、「鈴木梅太郎」先生。
「今度はどちらが、本物の酒か、わかりますかな?」
「鈴木君。私は食通なのですよ」
「ですから、所長が分からなければ、誰にもわからないと・・今度の合成酒は自信があるんです!」
力説する鈴木梅太郎先生でございました。
「鈴木梅太郎」は、それ以前、世界的な発見をいたしております。
「オリザニン」=「ビタミンB1」がそれです。
東京大学農学部教授時代、脚気の特効薬として開発。ですが、東大医学部との確執。(農業の専門家が医学に口出すするな!という圧力)
それにより、理化学研究所へ研究基盤を移しておりました。
将来の食糧難を見越しての研究が「合成酒の製造」でした。
「さぁ、さぁ所長。呑んでみてくださいヨ!」
鈴木に薦められて、二つを飲み比べる大河内所長。
「右が日本酒。左が合成酒・・・ですな!」
「どうして・・分かったの・・です?」
「はははは!鈴木君!私は食通なのですよ!」
鈴木梅太郎の凄さを知らない方々は多いと思います。
ビタミンB1の発見で、日本人の脚気が年々減っているのです。
医学会から追われ、最後まで医学会との協力体制をとれないまま、独自で日本人の健康を守ろうとした。
その志は、日本人が忘れてはいけない事なのだろうと思います。
「このままでは、理研の財団としての財政は困窮を極める」
「予算を縮小させて・・・」
「じゃぁ一体どこの研究室の予算を削るんだ!」
「まぁ金が無くなったら・・・紙とえんぴつで研究は続けることは可能ではある」長岡半太郎先生の弁。
「物理屋のあんたはそれでもいいかも知れんが。化学(ばけがく)から実験を取ったら何が残るんだ!」池田菊苗先生の弁。
理事達を含めた会議は紛糾中。
「大丈夫デス!お金の事なら心配いりません!」
大見栄を切った大河内所長でございました。
理研の庭先。
「やはりここでしたか?」
「所長こそ。何しに?」
「まぁ、いろいろと考え事をね・・・」
「浮かない顔して。まぁ僕の研究からお金のなる木は育たないよ!」
「なぁんだ。君はもうしっていたのかね・・」
「蟻がね。昨日僕が印をつけていた通りの道をまた行進してるんだ。不思議だとは思わないかね」
「寺田君、君は不思議な人だなぁぁ」
寺田寅彦。東大物理学部教授。
「そうだ!一つ思い出したぁぁ」
「なんだい?」
「鈴木君の合成酒!あれ売れない?」
「・・・・・・・・」
日に日に、財政逼迫の財団法人「理化学研究所」なのでした。
語りの前置きが長くなっております。
どうしても、理化学研究所の昭和初期から語らなければ、この問題を見据えることはできないと考えました。
本筋まではまだまだ遠いのですが、ここからなのです。
寺田寅彦。鈴木梅太郎。仁科芳雄。中谷宇吉郎。長岡半太郎。・・・・。
それぞれ自身のテリトリーは違ってはいるものの、その本流は理化学研究所にあった訳です。
地震と原子力。この二つの自然災害と大きな人災。
これを結びつける手がかりがここにあるんだと思います。
お亡くなりになられました「星新一」さんの御言葉で、今回は結びます。
歴史は過去から現在に向かって流れてはいるが、それを教える際には、逆に現在から過去へ遡っていくようにしてはどうだろうか。
2011-03-25 11:26:16 | 東日本大震災
過去に語ったところではございます。
ですが、今一度振り返りたい。斯様に思いました。
福島原子力発電所の未曾有の大事故。
「終息宣言?」耳を疑うばかりです。
広野町役場におります、チー坊。彼女は役場復帰と共に、広野町へ戻りました。
釜石市唐丹におります「しんぺい」君から一通のメールが届きました。
「今、地域のコミュニティーをつなげていくのに必死」
災害のあった、嘗て自身が住んでいた土地を離れる事を余儀なくされている方々多々。
地域に残っている彼、彼女達が、嘗てのような街を取り戻すためにどれだけの苦労をしているのだろう。
岩沼市の集団移転計画が発表されてのは一昨日。
これは海岸地域を中心部に近い高台へ移転するというもの。
同じ市内であれば、まだよかろう。と思うのは、住んでいない自分だからなのだろうか。
自問を繰り返しております。
さて、これも過去の「くだまき」からなのですが、大和を語るでも申し上げましたように、「兵器が技術を押し上げる」。
この事実を今一度見てみようと考えて、この「くだまき」にいたしました。
「原子力」と「地震」。特に「原子爆弾開発」の史実を整理致します。
「リケンのふえるわかめちゃん」。多賀城に工場がございます。
酔漢も、工場見学へ出かけたことがございます。
これは、酔漢の勤めております会社の販売実績上位のご褒美でございました。
(塩竈、松島一泊・・・・実家さぁいぐみてぇなもんだべさ)
「リケン」は漢字で「理研」と書きます。
会社概要を見ますれば、こうございます。
わたしたち理研ビタミンの「企業理念」は、1917年 (大正6年) の理化学研究所創立時から「天然物の有効利用を図る技術と商品で、人々の健康と栄養に寄与し、社会に貢献する」ことです。 この企業理念を継承し「経営理念」として掲げます。
大正6年。「理化学研究所」が創設されております。創始者「高橋 譲吉」。タカジアスターゼの創製。アドレナリンの結晶単離という世界的な科学者でございます。
その、三代目所長が「大河内正敏」でした。
専門は造兵学。政財界とも太いパイプを持つ貴族院議員でもございます。
「所長!利き酒をしましょうよ!今度は自身作ですぞぉぉ!」
大河内所長に声をかけておりますのは、「鈴木梅太郎」先生。
「今度はどちらが、本物の酒か、わかりますかな?」
「鈴木君。私は食通なのですよ」
「ですから、所長が分からなければ、誰にもわからないと・・今度の合成酒は自信があるんです!」
力説する鈴木梅太郎先生でございました。
「鈴木梅太郎」は、それ以前、世界的な発見をいたしております。
「オリザニン」=「ビタミンB1」がそれです。
東京大学農学部教授時代、脚気の特効薬として開発。ですが、東大医学部との確執。(農業の専門家が医学に口出すするな!という圧力)
それにより、理化学研究所へ研究基盤を移しておりました。
将来の食糧難を見越しての研究が「合成酒の製造」でした。
「さぁ、さぁ所長。呑んでみてくださいヨ!」
鈴木に薦められて、二つを飲み比べる大河内所長。
「右が日本酒。左が合成酒・・・ですな!」
「どうして・・分かったの・・です?」
「はははは!鈴木君!私は食通なのですよ!」
鈴木梅太郎の凄さを知らない方々は多いと思います。
ビタミンB1の発見で、日本人の脚気が年々減っているのです。
医学会から追われ、最後まで医学会との協力体制をとれないまま、独自で日本人の健康を守ろうとした。
その志は、日本人が忘れてはいけない事なのだろうと思います。
「このままでは、理研の財団としての財政は困窮を極める」
「予算を縮小させて・・・」
「じゃぁ一体どこの研究室の予算を削るんだ!」
「まぁ金が無くなったら・・・紙とえんぴつで研究は続けることは可能ではある」長岡半太郎先生の弁。
「物理屋のあんたはそれでもいいかも知れんが。化学(ばけがく)から実験を取ったら何が残るんだ!」池田菊苗先生の弁。
理事達を含めた会議は紛糾中。
「大丈夫デス!お金の事なら心配いりません!」
大見栄を切った大河内所長でございました。
理研の庭先。
「やはりここでしたか?」
「所長こそ。何しに?」
「まぁ、いろいろと考え事をね・・・」
「浮かない顔して。まぁ僕の研究からお金のなる木は育たないよ!」
「なぁんだ。君はもうしっていたのかね・・」
「蟻がね。昨日僕が印をつけていた通りの道をまた行進してるんだ。不思議だとは思わないかね」
「寺田君、君は不思議な人だなぁぁ」
寺田寅彦。東大物理学部教授。
「そうだ!一つ思い出したぁぁ」
「なんだい?」
「鈴木君の合成酒!あれ売れない?」
「・・・・・・・・」
日に日に、財政逼迫の財団法人「理化学研究所」なのでした。
語りの前置きが長くなっております。
どうしても、理化学研究所の昭和初期から語らなければ、この問題を見据えることはできないと考えました。
本筋まではまだまだ遠いのですが、ここからなのです。
寺田寅彦。鈴木梅太郎。仁科芳雄。中谷宇吉郎。長岡半太郎。・・・・。
それぞれ自身のテリトリーは違ってはいるものの、その本流は理化学研究所にあった訳です。
地震と原子力。この二つの自然災害と大きな人災。
これを結びつける手がかりがここにあるんだと思います。
お亡くなりになられました「星新一」さんの御言葉で、今回は結びます。
歴史は過去から現在に向かって流れてはいるが、それを教える際には、逆に現在から過去へ遡っていくようにしてはどうだろうか。
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