酔漢のくだまき

半落語的エッセイ未満。
難しい事は抜き。
単に「くだまき」なのでございます。

接点 ふたりの科学者。それから・・・理研二

2012-04-06 09:55:05 | 東日本大震災
再び、「理研のふえるわかめちゃん」から。
その姉妹品。海草サラダに入っております赤い海草。「トサカ」という海草です。
「ちぎれたわかめ」ではないのでした。
よく釣りをしてますと、海草がひっかかってきますが、これによく混じっているのでした。
鶏の鶏冠に似ていることからついた名だと聞きました。
「理研」の名前はこの「理研ビタミン」をまず先に思い出しますが、「岡本理研ゴム」などなど、「理研」をルーツとしている会社は他にもあります。
「理研ビタミン」これは商品名であり、登録商標でもありました。

「所長!所長!・・・・しょちょう!」
「何だね!鈴木君?そんなに慌てて・・・・これ!いいだろう・・・・うん?」
「あ・・・・・あの・・・・ですね!」
理研所長室。大河内所長はと言いますと、何やら骨董を眺めている様子です。
「これ!いいだろう!ねぇ鈴木君。古伊万里なんだ・・・」
(「北宋だな」と指で弾いたかどうか・・・・)
「そんな!眺めている場合じゃないんですヨ!」
「また、合成酒の新酒でも・・」
「チ・ガ・イ・マス!世紀の大発見なんです!」

和歌山の奥。「海草郡木本村」一人の天才的農芸学者がおりました事を知る方は少ない。
彼の功績がなかったら、どれだけの人命が失われたことだと推察いたします。
彼の名「高橋克己」農芸学者。鈴木の後輩に当たります。
大正12年。理研鈴木研究室の研究員になっております。
彼もまた、東大医学部からの圧力により東京大学から理研へその研究の場を移しているのでした。
当時、ビタミンAの存在自体は確認されておりましたが、それを抽出する技術が確立されておりません。
これを「鱈の肝臓」より抽出することに成功致します。
ビタミンAという命名は後になってから。「ビオステリン」という名をつけました。
・・・彼の話をもう少し・・・
この功績により「帝国学士院賞」を鈴木と共に受賞します。この報奨金は全て、母校「和歌山中学」へ寄付いたしております。
そして、世界特許となる技術となりますが、それに伴う利益も和歌山へ寄付しております。
その総額は現在では七億円とも換算されるそうです。
32歳の若さでその生涯を閉じております。

「なんだね?世紀の大発見?」
「そうなんですよ所長!うちの高橋がビタミンAの抽出、結晶化に成功しましたぁぁぁ!」
「な!なんと!・・・・・あっつ!・・おっとっと・・・・」落としかけた古伊万里の皿を慌てて拾う大河内所長でした。
当時の死亡率一位は結核。
十分な栄養補給が一番とされております。
ビタミンAは夜盲症のこう薬として、また結核患者の栄養補給としてとても大事な成分だったのでした。
「鈴木君!これは・・売れますぞぉぉ!」
「量産化は可能です。溶媒の問題がまだ片付いていませんが、すぐに取りかかります。三共製薬が乗り気でして、特許申請後その権利をば・・・・」
「すずきくーーん」
「所長!な!なんですか!その意味深な・・・笑顔は?・・きもち・・わ・・・る・・・・・・」
「君はそれを外部委託するつもりなのかね?」
「はぁ?所長。ここは研究所ですぞ!工場ではないのですぞ!」
「工場?作ればいいだけじゃないですか!」
「作るって!そんな金がこの研究所にあるわけが・・」
「お金の問題ですか?鈴木君は早く量産化に取り組んで下さい。工場は私がしっかり作ります!」
「でも・・所長!売れなかったら・・」
「何を心配しておるのですか!売れるに決まってるじゃないですか!」
ここでも大見栄を切った大河内所長です。
「全く!経営の素人が、何をとち狂って工場なんかを!」
周囲の猛反対を押し切り工場建設へと着手します。
その間、鈴木梅太郎、高橋克己を中心として、量産化へ向けた研究が昼夜を問わず行われておりました。

(Wikipediaより拝借)
「所長!完成ですね」
「三共では三年はかかると言われました」
「諸君らの努力だよ。半年足らずで量産化したわけだからね」
新聞発表をした翌日・・・。
所長室の電話が鳴ります。
「大川内だが・・」
「たいへん!で!す!所長!正門がぁぁぁ・・」ここで電話が途切れます。守衛からでした。
窓から正門を見ますと!
長蛇の列が出来上がっております。
「おーーい!早く正門をあけろよぉぉぉ!」
「『びたみぃぃん』とやらを売っておくれよぉぉぉぉ」
大勢の人々が大騒ぎでやって来ております。
「理研ヴィタミン」は、その売れ行きが半端じゃない。
これまでの理研の財政赤字を半年で黒字に転じる程の威力を発揮致しました。
科学者達が経営し、その研究費をも自身で生み出す。
嘗てない経営手法。
理研は大きなコンツェルンを形成していきます。

「先生!外が大変騒がしい・・ですね」
「中谷君、さぁ、我々の研究を始めようか・・」
寺田寅彦は、中谷宇吉郎と共に、火花の研究を行っているのでした。

どんぐりを拾って喜んだ妻も今はない。お墓の土には苔の花がなんぺんか咲いた。山にはどんぐりも落ちれば、鵯の鳴く音に落ち葉が降る。ことしの二月、あけて六つになる忘れ形身のみつ坊をつれて、この植物園へ遊びに来て、昔ながらのどんぐりを拾わせた。こんな些細な事にまで、遺伝というようなものがあるものだが、みつ坊は非常におもしろがった、五つ六つ拾うごとに、息をはずませて余のそばへ飛んで来て、余の帽子の中へひろげたハンケチへ投げ込む。だんだん得物の増して行くのをのぞき込んで、頬を赤くしてうれしそうな溶けそうな顔をする。争われぬ母の面影がこの無邪気な顔のどこかのすみからチラリとのぞいて、うすれかかった昔の記憶を呼び返す。
「おとうさん、おおきなどんぐり、こいも~~~~みんな大きなどんぐり」と小さい泥だらけの指先で帽子の中に累々としたどんぐりの頭を突っつく。
「大きいどんぐり、ちいちゃいどんぐり、みいんな利口などんぐりちゃん」と出たらめの唱歌のようなものを歌って飛び飛びしながらまた拾い始める。余はその罪のない横顔をじっと見入って、亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりの好きな事も折り鶴のじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだと、しみじみそう思ったのである。(「どんぐり」明治三十八年四月、ホトトギス。寺田寅彦随筆集より抜粋)

寺田は、物理学者として東京大学に籍を置いております。
その寺田はその後東大から理研に完全移籍いたします。
文学者や作家ではございません。この独特な感性が寺田寅彦の物凄さを語っております。
科学は、それから全く寺田の思うところとは別の方向へ動き出していきます。

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