〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

状況は絶望的、らしい。しかし希望はある

2006-06-01 | 環境問題
6月に入りました。こうしてブログをやっているととくに感じるのですが、時間がたつのはほんとうに速いですね!
一刻もむだにせず、言葉だけでなく実際に、よい人間になれるようがんばりたいものです。

なのですが、例によってついつい安易なほうに流れてしまいます。まさに凡夫の性ってやつですね。それを言い訳にしていてはなりません!

・・・というわけで、強烈な戦争映画というので評判の「炎628」(85年、ロシア、エレモ・クリモフ監督作品)をDVDで見てしまいました。

これままさに「見てしまった」という表現がぴったりの映画です。見ないほうがよかったかもしれません。そのとおり、原題は「COME AND SEE」の意味のロシア語。
とにかく、白ロシアの人々の強烈な戦争の記憶・トラウマということがよくわかりました。

しかもいっそうげんなりすることには、この話は史実にもとづいているのだとのこと。なぜ人間はそこまでやってしまうのか?
戦争について語る際は、こういう負の、というか暗黒の側面を、忘れてはならないと思いました。
いや、一度これを見てしまうとたぶん忘れることはできないでしょう・・・

この映画のテーマはたぶん、私たちの誰もがそういう非道・蛮行をやってしまう可能性をもっているのだという告発なのだと思います。


さて、私たちに現実に迫っている危機は、なによりもエコロジカルな深刻な問題です。これに対処するには、「なんとなくヤバイ」「できることからやる」というようなあいまいな心情的な反応ではたぶんもうダメだと思います。

それはとりあえずいいことだとは思うし、できればそういうラクな行き方で私もやりたいのですが、それでは間に合わないことは、文字通り、いわゆる「火を見るよりも明らか」だと思われます。

具体的に、なにが真に危険なのか、危機の予測がどのようなデータに基づいているのか、それはなにが原因なのか、まずはしっかり頭で理解する必要があると思います。

そのためのテキストとして、いま小沢徳太郎先生の「スウェーデンに学ぶ『持続可能な社会』」(朝日新聞社)を学んでいます。
とはいえようやく第三章、こういう社会科学系の本をあまりしっかり読んだことがなかったせいかもしれませんが、我ながら遅読ぶりにびっくりです。それに、こういう本質的なことをズバッと語っているものから、ついつい逃げてしまうような集中力のなさもあるようです。
環境問題を我がことと思う気合が、まだまだなのでしょう。がんばりたいものです。

それにしてもスウェーデンという国の先見性には、驚かされますね。
理想を理想にとどめず、着々と現実にしていく気概がある国のようです。その目指すところは「緑の福祉国家」であるとのこと。なかなかいいキャッチフレーズではないでしょうか?

ひるがえって我が日本がとりわけですが、それ以外の先進諸国も、現状の経済拡大路線を変える気はさらさらないようです。
その違いは中・長期的な目標を明確に設定して、そこに向けて着実に課題を処理していく、かの国の“バックキャスト”という政策手法があるようです。まずさきにビジョン・理想があるわけですね。

蛇足ですが、あらゆるところで、たとえば具体的な人生でも、こういう意思決定の仕方というのは大切だと思われるところです。スウェーデン人は“大人”だなと思いました。

対して例えばわが国は、たしかにビジョンのないまま対症療法に終始するという“フォアキャスト”一本やりです。紹介されている年金問題など、まさにそんな感じですね。行き先のわからないままバスが右に左に突っ走っている、前方に崖が見えてきた、そんな不安感があります。

あと、「二十一世紀も人間は動物である」という指摘、当たり前のようで、ふつうに生きているとほんとうに見失われがちな視点だと思います。
怖いのは、いまの環境破壊が、私たちが動物として取り入れる水、空気、食物、日光、そういった不可欠のものを汚染し破壊しているということです。
環境への負荷は人体への負荷に収斂される・・・現に、私たちのこの身体に、です。

著者が力説しているように、こういう人類規模の“愚行”を改めるには、何より政治主導による経済構造、そしてそれがよって立つ“みんながなにを欲するか”という文化状況を、かなり根本的に変容させる必要がある、というのはひじょうにもっともなことに思われます。

そうして考えると、環境問題を“地球にやさしい”とか“環境との共生”とかというような、もっともらしいけど曖昧模糊としたコンセプトに矮小化するのは、こういっては傲慢のようですが、それは偽善的に感じられてなりません。
それでは危機に間に合わないという意味でも、ちょっともうダメのような気がします。

もちろん人の偽善を指摘するからには、なにが善なのかについての自分の見解をはっきりさせておく必要があると思います。そしてそれが言葉だけに終わったりしていないか。
もっと勉強していく必要があるようです。


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