〔前ブログで書いていた、鶴見済著『完全自殺マニュアル』の分析・批判記事の全文を再掲しました。末尾の第12回のあとが、本ブログの当該記事に続きます。〕
『完全自殺マニュアル』完全批判(1)
かつて『完全自殺マニュアル』(鶴見済著)という本が世間を騒がせた。
その自殺を奨励するようなミもフタもない内容は、当時オウム事件で社会倫理的な「底が抜けた」脱力感をいだき、宮台真司氏の「終わりなき日常」「意味もクソもない」という言説に説得力を感じたとくに若い世代を中心に、ちょっとした社会現象にもなったものだ。そして実際に少なからぬ自殺者に生んだという。
たしか発刊はちょうど自分が大学に入ったころだったと思う。当時の暗くて索漠とした気分にぴったりの、無機質でアイロニカルな装丁が目を引く同書を書店で見かけ、即座に購入したものだ。そしてその内容に「ああ、キツけりゃ死ねばいいんだ」という「答え」を得たような気になったのを思い出す。
あとで聞くと、親はそんな本を買って実際に死ぬんじゃないかと心配していたそうだ。死ぬ気はなかったけれども、何かつらいきっかけがあればわりと簡単に実行していたのではないかとも思う。『マニュアル』に書いてあるとおり、自殺はかなり簡単なことだから。
その反(非)社会的な内容が問題視され、当時の朝日新聞で特集が組まれていたのを思い出すが、その論調はたしか「自殺はよくないけれども、死にたくなるようなこの社会で若者が自殺に出口を求めているのはもっともであり、その主張は否定できない。われわれはその現実を見つめなければならない」と、『マニュアル』が述べていることを追認するようなものであったと記憶している。
何せ良識派を自認する大新聞がそう言っているので、これで社会的なお墨付きが与えられたのだと思ったものだ。いま思えば何と無責任な、と腹立たしく感じるのだが。
もはや手元にないので覚えている範囲であるが、『マニュアル』の言っているところをつづめて説明すると:
・この世の社会構造は強食弱肉で、ひたすら抑圧的な意味もなくくだらないものである。
・そこでは人は歯車となるかドロップアウトするかしかなく、くだらない人生を押し付けられた被害者であるにすぎない(一貫した斜めに構えた被害者意識が同書の語りの特徴である)。
・人間は自分の弱い心、社会に適応できないダメな心を、結局どうすることもできない。
・その「真実」にどうしようもなく気づいてしまった人間、および歯車にもアウトサイダーにもなれない心の弱い人間が、そこからの出口としての自殺、手段としての死を、自分の権利とするのは当然である(自分には世の中のウソを暴露する能力がある、というナルシシズムもまた著者の基本的姿勢である)。
・そのために首つりから飛び降り、轢死、etc…の方法を、実例を交えて列挙する。クールにドライに、軽くてフラットに、かつおもしろおかしく。
ということになると思う。
昨今、集団自殺の連鎖が社会現象となっているが、それを無責任に煽っているネット上のいわゆる自殺系サイトも、基本的には似たようなスタンスの同工異曲だろう。『マニュアル』はそれらのはしりだといって差し支えないと思うが、どうだろうか。
しかし多少年齢と学びを重ねたいまなら、同書がどうまちがっているのか、そして毒が盛り込まれたいわば社会的「悪書」がなぜ正当に排撃されることがなかったのか、はっきりと言うことができる気がする。
まず自殺に向かって吸い寄せられてしまうような、心の落ち込み状態、無気力、絶望感とは、その人の固定的な性格特徴であり、もはや変えることのできないものであるという、著者の無前提な人間観について。
これまでちょっと書いてきたように、人間の主観的な気分や思考、信念というのは、自覚すればかなりどうにでもできるものであるのは明らかである。
またそのことを、臨床心理学、人間性-トランスパーソナル心理学、さらには人間の内面に関する古代の哲学・方法論である仏教(呪術-神話的な信仰対象としての仏教ではない、念の為)は、幾多の臨床的データをもって明らかにしてきたのではないだろうか。
もしこのことに対し反論するのならば、実際にそれらの方法論を批判者が試みた上で(方法を正しく履行したか検証を要することはいうまでもない)、直接経験された内面的・主観的結果にもとづいたものでなければならないだろう。または自分で独自の臨床例を積み上げて反証せねばならない。
それが言葉の正しい意味での科学的姿勢というものだ。
しかし世間的な常識では、人間の性格上の問題というのは、遺伝的欠損や幼児期のトラウマが刻み込んだ脳みその機能不全が原因であって修正不能、というような、粗雑な人間機械論が基調になっているといってよいと思う。
つまり同書の一見真実を抉っていると見えるミもフタもない修正不能の人間観とは、実は単に世間的な常識に迎合したものにすぎない。
要するに、人間とはこういうものにすぎないとクールに現実を洞察しているように見えて、人間の主観的な事実、心という内面のリアリティに決定的に疎い、ということである。
次に、自殺を推奨する同書の主張の根拠は、かなり薄っぺらい通俗的なニヒリズムに基づく人間観・社会観であるのは明白である。
しかしそうしたニヒリズムは、ちょっと自分の生きているあり方を反省してみれば、根本的な認識不足・錯覚にすぎないことがすぐわかる。
その上、あまり知られていないことだが、近代主義に基づくニヒリズムとは、もはや現代科学が主流の今日において根拠を失ってしまっているものである。いいかえれば、前提自体があまりにも古くさいのだ。
次回以降、べつに述べていくが、それらのことに無自覚に、あたかも自分が人間の真理を喝破した者であるかのごとく、脱力と死を奨励する著者の教祖化したナルシシズムは、古いを通り越してあまりに恥ずかしい。
著者の、自分の視点の偏向と依って立つ背景に無自覚な、きわだったナルシシズムも、この本の批判されるべきポイントである。
ところで、そうした人間機械論やニヒリズムが、この社会の暗黙の本音としてすでに自明化・空気化しているのは、おそらく論をまたないことである。
だからこそ、そのことに見て見ぬふりをしている良識派の代表(いわば「いい子」の最大公約数)である大新聞も、そこをあからさまに衝かれると、眉をひそめつつ、それが世間の良識の裏にある「真実」であることを認めざるを得なかった。その本音こそ、さきに紹介した「朝日」のもっともらしい論調の背後にあったものだと思う。
おそらくいま、ジャーナリズムのいわゆるオピニオン・リーダーから市井のぼくら一般人まで、「意味もクソもない」という無自覚なニヒリズムがいわば当たり前の共通感覚・常識になってしまっているといってよいと思われる。そのためにぼくらは、なぜ自殺が悪いことなのか、はっきりと言葉で言うことができなくなっているのではないだろうか。
つまり、「自殺は悪いことなんだよ」と言う、その根拠が言えなくなっているということである。どころか、「自殺も本人の価値観にもとづく自由な選択なので仕方ない」と思っている人すら多いようである(「死にたいやつは死ねばいい」とは、かつて自分も本気で思っていたことである)。
この本がかつてそれなりに流行したこと、それがいま自殺系サイトにおいてたくさんの亜流を生み出し、多くの脱力した人を引き寄せている背景には、こうした世間的な暗黙の常識があると見える。
このように、『マニュアル』の著者の、一見この世の暗い事実を暴き出したかのような、寒々しいけれども本当の新しいリアルだと思えた主張は、じつはこの世間の常識的な暗黙の雰囲気に安易に乗っかったものであるにすぎない。だからこそすこしばかり流行したのだろう。
そしてこのような本が堂々と普通の書店において平積みで売られつづけていたのだ。
社会的責任という自由の本質的に重要なもうひとつの側面を捨象した、「あらゆる言論には、その社会への悪影響いかんに関わらず自由が保証されなければならない」という、あまりにも一面的で単純化された自由観が、その一見なにげない書店の日常の背景にあったことが見て取れる。
そのころから始まったように思うのだが、さらにいま、個人がどのような情報を手に入れようとそれは「自己責任」においてその個人の自由-勝手であるという風潮が、なし崩し的に、とめどもなく進行している。
ぼくらがコンビニで、子供が手に取ることができる書棚にあからさまに18禁の本が置いてあるのを最近見かけるようになったのも、ネット上で有害情報の氾濫(どころかそっちのほうが大多数に見える)が野放しになっていることも、そうした病理的な社会的雰囲気に根ざしたものであると思われるのだが、どうだろう。
しかし悪いものは悪い、誤っているものは誤っていると主張せねばならない。でないと社会も、その中に生きる個人も、「みんな違ってみんないい」という没価値的なうんざりする多様性の中で、方向性を見失って溶解してしまうからである。というかそれこそが、ぼくらが強い違和感をもって現に日本社会に見ている倫理的崩壊現象なのではないだろうか。
すべてが平等に尊重されなければならないというのは、自由と多様性がことのほか礼賛される現代にあっては当たり前で、むしろ正しいことのように思われるかもしれない。
しかしそれを極端に押し進めて、すべての視点に平等な価値があるとするなら、人間的成長と自殺、慈悲と殺人、平和と戦争、エコロジーと環境破壊、マザー・テレサとヒトラーが、同じように尊重されねばならないことになってしまう。それは単なる思考停止・判断停止である。
これは極論だろうか?
ここで俎上にする『マニュアル』は、そもそも思想とも言えない思想がベースになっており、いろんな詰めの甘さがあって穴だらけなので、批判するのは幸い容易である。
引き続き学び得た範囲で根拠をもって、同書ならびに同書が代表したような虚脱的な厭世観がいかに偏狭な錯覚に基づくものであるか、さらにいまの視点で見るといかに「恥ずかしい」ものであるかを、明らかにしていきたいと思う。
記憶を頼りにやっているので錯誤が当然あると思うが、その点はするどくご指摘いただければと思う。
かつてこの『マニュアル』に影響を受けたものとして、一度はっきりと言葉でこの本を斬っておくことは自分にとって意味があることだし、またこの本の二番煎じや自殺系サイトを見てなんとなく納得してしまった方が、そうした一見もっともらしく聞こえるニヒルな真理主張にじつは根拠がないことをちょっとでも納得していただければ、とてもうれしい。
かつての自分に語るつもりで、このことを書こうと思う。
[2005-09-08 15:14 by type1974]
『完全自殺マニュアル』完全批判(2)
これから何回かにわたって『完全自殺マニュアル』批判を展開していくが、ところで、このような軽いノリでかなりいい加減に書かれた本を、何のために目くじらを立てるかのように批判するのか、ここでその意図を明らかにしておきたい。
まずその論理の拙劣さにもかかわらず、『マニュアル』のメッセージの影響力と危険性、そしてそのことの責任は、いまだ大きいということである。100万部以上売れているベストセラーであることは知らなかったが、さらに現にネットで検索してみても、『マニュアル』はいまだに売られ多くの信奉者を産み続けているらしいのだ(「何者も信じない」という人間と、それを信奉する多くの人という、いたるところで見かける不思議な構図)。
危険性と責任に関して同書は、自殺の方法という単に事実的な情報を提供しているにすぎず、社会責任上何ら問題はない、自殺しようが読者の自己責任において「勝手にしてくれ」とうそぶいている。
もちろん同書の内容は、既存の法令に抵触するものではないらしいし、現に堂々と書店で売られ続けてきたように、残念ながらぼくらの社会の一般的な倫理水準もこれを見過してしまってきている。現在に至るまで『マニュアル』に対しては多くの批判があったらしいが、いずれも「キモチワルイ」「あってはならない」という感情レベルのものであったようだ。
ここで問うのは道義的責任である。同書が自己責任能力と判断能力の未成熟な中高生を中心とした若年層をターゲットにしていることは明らかである。そして多くの生きる意欲を見失っている精神的に未発達な若者に対して、ごく簡単に「死ねる」方法を提供しているということ、さらに実際それで自殺した人間が多く出たということは、どう言いつくろっても無責任な自殺幇助行為である。
「単なる情報提供」の裏には、そういう自殺を煽るようなメッセージを真に受ける、生きる自信を見失った若者が多いという計算と、そして実際に死ぬ人間が出るだろうという推測がはたらいていたのは明らかである。目論見どおり、それによって著者も出版社も大いに潤ったわけだ。
むろんニヒルに居直った著者も売上至上の出版社も、「道義」を問うたところで冷笑するだろう。残念ながらこの日本社会の現在の倫理水準はそれを問うことができていない。しかし道義とは、本来その人自身が気づかない深層の声が問うものである。著者・鶴見氏の生き様は今後そのことを証明していくだろうという意味で注目に値する(というか、現に証明しつつあるようだ)。
ところで、自殺を当然のものとするそのシニカルで一見特殊に見えるメッセージが、実はこの社会の暗黙の共通感覚を単に暴露し先鋭化させたものにすぎないのは、すでに明らかにしたとおりである。そのような無意味感、脱力感は、とくに若い世代においてすでに行動の基調というか原理となっているものであって、何ら目新しいものではない。
若年層による、一見不可解な問題行動の激増の背後に、そうした倫理的な「底づき」感があるのは、おそらく異論の生じないところと思われる。この『自殺マニュアル』を批判することは、そのような危うい雰囲気化した常識を問い直し、乗り越えることでもあるのだ。
『マニュアル』に典型的に現れた思想的混乱は、粗雑な物質科学主義・還元主義と、集団という契機を忘れた個人主義的民主主義を基調にした現行の学校教育を受けて育った人間が、ふつうに突き詰めると最後に必ず到る隘路なのだと思われる。
そういう学校教育の暗黙のプログラムが敷いたレールを、まっすぐ素直にたどっているという意味で、一見過激に見える著者の姿勢は、実はあまりにもありふれていて陳腐である。
しかしそのような行きづまりを相対化し超える視点は幸いなことに存在する。それをもとに、古いものは古い、誤っているものは誤っていると、ここではっきりと断言する必要があると思う。
さらに個人的な怨恨ということがある。かつてそのようなメッセージ(もちろん鶴見氏のものに限らず)を真に受け、「まったりと」脱力して若い日の多くの時間を無駄にし、手元の『マニュアル』でひょっとしたら死んでいたかも知れない自分、そして実際に死んでいった多くの自分に似た者たちがいるということ、さらにそういう錯覚を煽って恬として恥じない人間がいるということに、憤りを感じるのだ。しかしそのことは論旨とはまた別のことである。
ところで、ここで批判者である自分のコンテクスト・意図を明らかにしておく必要があると思う。何を正しいことと考えるか、それをもとに何をどうしたいのか、というシンプルな問いが共有できていないと、そもそもあらゆる議論は成り立たないからである。
自分はシンプルに、人が生きることの根本の動機とは、他者と仲良く、社会をよりよく、そして人生を意味深く、ということに尽きると考える者である。一見小難しく聞こえる思想というものは、その現実をあとから説明するために出てくるものであろう。また幸いなことに、そういうシンプルな事実を科学に基づいて思想的に裏付けることができるという時代に、ぼくらはすでに生きている。
そしてそのことを阻害し退行と絶望に至らしめる、毒を含んだ短絡思考を批判的に見る、というのがここでのコンテクストである。
これはあまりにナイーブに聞こえるだろうか?
しかし表層的な価値観に右往左往し、深層から湧き上がってくるものに翻弄されながら、ぼくらが心から求めているのは、自覚できているとできていないとにかかわらず、実はそうした単純な人生の事実であるはずだ。そうでない人がいるのだろうか?
そして、極端なニヒリズムで身構えた同書の空虚な論調の背後に、じつはそういう隠れたシンプルな願望があきらかにはたらいていることが見て取れるのである。ひじょうに歪んでしまっているために、著者本人も自覚できていないようだが。
とまれ、「批判のための批判」というよくある不毛な泥沼に陥らないよう、自分の足元に気をつけて進んでいきたいと思う。
2005-09-10 23:46
『完全自殺マニュアル』完全批判(1)
かつて『完全自殺マニュアル』(鶴見済著)という本が世間を騒がせた。
その自殺を奨励するようなミもフタもない内容は、当時オウム事件で社会倫理的な「底が抜けた」脱力感をいだき、宮台真司氏の「終わりなき日常」「意味もクソもない」という言説に説得力を感じたとくに若い世代を中心に、ちょっとした社会現象にもなったものだ。そして実際に少なからぬ自殺者に生んだという。
たしか発刊はちょうど自分が大学に入ったころだったと思う。当時の暗くて索漠とした気分にぴったりの、無機質でアイロニカルな装丁が目を引く同書を書店で見かけ、即座に購入したものだ。そしてその内容に「ああ、キツけりゃ死ねばいいんだ」という「答え」を得たような気になったのを思い出す。
あとで聞くと、親はそんな本を買って実際に死ぬんじゃないかと心配していたそうだ。死ぬ気はなかったけれども、何かつらいきっかけがあればわりと簡単に実行していたのではないかとも思う。『マニュアル』に書いてあるとおり、自殺はかなり簡単なことだから。
その反(非)社会的な内容が問題視され、当時の朝日新聞で特集が組まれていたのを思い出すが、その論調はたしか「自殺はよくないけれども、死にたくなるようなこの社会で若者が自殺に出口を求めているのはもっともであり、その主張は否定できない。われわれはその現実を見つめなければならない」と、『マニュアル』が述べていることを追認するようなものであったと記憶している。
何せ良識派を自認する大新聞がそう言っているので、これで社会的なお墨付きが与えられたのだと思ったものだ。いま思えば何と無責任な、と腹立たしく感じるのだが。
もはや手元にないので覚えている範囲であるが、『マニュアル』の言っているところをつづめて説明すると:
・この世の社会構造は強食弱肉で、ひたすら抑圧的な意味もなくくだらないものである。
・そこでは人は歯車となるかドロップアウトするかしかなく、くだらない人生を押し付けられた被害者であるにすぎない(一貫した斜めに構えた被害者意識が同書の語りの特徴である)。
・人間は自分の弱い心、社会に適応できないダメな心を、結局どうすることもできない。
・その「真実」にどうしようもなく気づいてしまった人間、および歯車にもアウトサイダーにもなれない心の弱い人間が、そこからの出口としての自殺、手段としての死を、自分の権利とするのは当然である(自分には世の中のウソを暴露する能力がある、というナルシシズムもまた著者の基本的姿勢である)。
・そのために首つりから飛び降り、轢死、etc…の方法を、実例を交えて列挙する。クールにドライに、軽くてフラットに、かつおもしろおかしく。
ということになると思う。
昨今、集団自殺の連鎖が社会現象となっているが、それを無責任に煽っているネット上のいわゆる自殺系サイトも、基本的には似たようなスタンスの同工異曲だろう。『マニュアル』はそれらのはしりだといって差し支えないと思うが、どうだろうか。
しかし多少年齢と学びを重ねたいまなら、同書がどうまちがっているのか、そして毒が盛り込まれたいわば社会的「悪書」がなぜ正当に排撃されることがなかったのか、はっきりと言うことができる気がする。
まず自殺に向かって吸い寄せられてしまうような、心の落ち込み状態、無気力、絶望感とは、その人の固定的な性格特徴であり、もはや変えることのできないものであるという、著者の無前提な人間観について。
これまでちょっと書いてきたように、人間の主観的な気分や思考、信念というのは、自覚すればかなりどうにでもできるものであるのは明らかである。
またそのことを、臨床心理学、人間性-トランスパーソナル心理学、さらには人間の内面に関する古代の哲学・方法論である仏教(呪術-神話的な信仰対象としての仏教ではない、念の為)は、幾多の臨床的データをもって明らかにしてきたのではないだろうか。
もしこのことに対し反論するのならば、実際にそれらの方法論を批判者が試みた上で(方法を正しく履行したか検証を要することはいうまでもない)、直接経験された内面的・主観的結果にもとづいたものでなければならないだろう。または自分で独自の臨床例を積み上げて反証せねばならない。
それが言葉の正しい意味での科学的姿勢というものだ。
しかし世間的な常識では、人間の性格上の問題というのは、遺伝的欠損や幼児期のトラウマが刻み込んだ脳みその機能不全が原因であって修正不能、というような、粗雑な人間機械論が基調になっているといってよいと思う。
つまり同書の一見真実を抉っていると見えるミもフタもない修正不能の人間観とは、実は単に世間的な常識に迎合したものにすぎない。
要するに、人間とはこういうものにすぎないとクールに現実を洞察しているように見えて、人間の主観的な事実、心という内面のリアリティに決定的に疎い、ということである。
次に、自殺を推奨する同書の主張の根拠は、かなり薄っぺらい通俗的なニヒリズムに基づく人間観・社会観であるのは明白である。
しかしそうしたニヒリズムは、ちょっと自分の生きているあり方を反省してみれば、根本的な認識不足・錯覚にすぎないことがすぐわかる。
その上、あまり知られていないことだが、近代主義に基づくニヒリズムとは、もはや現代科学が主流の今日において根拠を失ってしまっているものである。いいかえれば、前提自体があまりにも古くさいのだ。
次回以降、べつに述べていくが、それらのことに無自覚に、あたかも自分が人間の真理を喝破した者であるかのごとく、脱力と死を奨励する著者の教祖化したナルシシズムは、古いを通り越してあまりに恥ずかしい。
著者の、自分の視点の偏向と依って立つ背景に無自覚な、きわだったナルシシズムも、この本の批判されるべきポイントである。
ところで、そうした人間機械論やニヒリズムが、この社会の暗黙の本音としてすでに自明化・空気化しているのは、おそらく論をまたないことである。
だからこそ、そのことに見て見ぬふりをしている良識派の代表(いわば「いい子」の最大公約数)である大新聞も、そこをあからさまに衝かれると、眉をひそめつつ、それが世間の良識の裏にある「真実」であることを認めざるを得なかった。その本音こそ、さきに紹介した「朝日」のもっともらしい論調の背後にあったものだと思う。
おそらくいま、ジャーナリズムのいわゆるオピニオン・リーダーから市井のぼくら一般人まで、「意味もクソもない」という無自覚なニヒリズムがいわば当たり前の共通感覚・常識になってしまっているといってよいと思われる。そのためにぼくらは、なぜ自殺が悪いことなのか、はっきりと言葉で言うことができなくなっているのではないだろうか。
つまり、「自殺は悪いことなんだよ」と言う、その根拠が言えなくなっているということである。どころか、「自殺も本人の価値観にもとづく自由な選択なので仕方ない」と思っている人すら多いようである(「死にたいやつは死ねばいい」とは、かつて自分も本気で思っていたことである)。
この本がかつてそれなりに流行したこと、それがいま自殺系サイトにおいてたくさんの亜流を生み出し、多くの脱力した人を引き寄せている背景には、こうした世間的な暗黙の常識があると見える。
このように、『マニュアル』の著者の、一見この世の暗い事実を暴き出したかのような、寒々しいけれども本当の新しいリアルだと思えた主張は、じつはこの世間の常識的な暗黙の雰囲気に安易に乗っかったものであるにすぎない。だからこそすこしばかり流行したのだろう。
そしてこのような本が堂々と普通の書店において平積みで売られつづけていたのだ。
社会的責任という自由の本質的に重要なもうひとつの側面を捨象した、「あらゆる言論には、その社会への悪影響いかんに関わらず自由が保証されなければならない」という、あまりにも一面的で単純化された自由観が、その一見なにげない書店の日常の背景にあったことが見て取れる。
そのころから始まったように思うのだが、さらにいま、個人がどのような情報を手に入れようとそれは「自己責任」においてその個人の自由-勝手であるという風潮が、なし崩し的に、とめどもなく進行している。
ぼくらがコンビニで、子供が手に取ることができる書棚にあからさまに18禁の本が置いてあるのを最近見かけるようになったのも、ネット上で有害情報の氾濫(どころかそっちのほうが大多数に見える)が野放しになっていることも、そうした病理的な社会的雰囲気に根ざしたものであると思われるのだが、どうだろう。
しかし悪いものは悪い、誤っているものは誤っていると主張せねばならない。でないと社会も、その中に生きる個人も、「みんな違ってみんないい」という没価値的なうんざりする多様性の中で、方向性を見失って溶解してしまうからである。というかそれこそが、ぼくらが強い違和感をもって現に日本社会に見ている倫理的崩壊現象なのではないだろうか。
すべてが平等に尊重されなければならないというのは、自由と多様性がことのほか礼賛される現代にあっては当たり前で、むしろ正しいことのように思われるかもしれない。
しかしそれを極端に押し進めて、すべての視点に平等な価値があるとするなら、人間的成長と自殺、慈悲と殺人、平和と戦争、エコロジーと環境破壊、マザー・テレサとヒトラーが、同じように尊重されねばならないことになってしまう。それは単なる思考停止・判断停止である。
これは極論だろうか?
ここで俎上にする『マニュアル』は、そもそも思想とも言えない思想がベースになっており、いろんな詰めの甘さがあって穴だらけなので、批判するのは幸い容易である。
引き続き学び得た範囲で根拠をもって、同書ならびに同書が代表したような虚脱的な厭世観がいかに偏狭な錯覚に基づくものであるか、さらにいまの視点で見るといかに「恥ずかしい」ものであるかを、明らかにしていきたいと思う。
記憶を頼りにやっているので錯誤が当然あると思うが、その点はするどくご指摘いただければと思う。
かつてこの『マニュアル』に影響を受けたものとして、一度はっきりと言葉でこの本を斬っておくことは自分にとって意味があることだし、またこの本の二番煎じや自殺系サイトを見てなんとなく納得してしまった方が、そうした一見もっともらしく聞こえるニヒルな真理主張にじつは根拠がないことをちょっとでも納得していただければ、とてもうれしい。
かつての自分に語るつもりで、このことを書こうと思う。
[2005-09-08 15:14 by type1974]
『完全自殺マニュアル』完全批判(2)
これから何回かにわたって『完全自殺マニュアル』批判を展開していくが、ところで、このような軽いノリでかなりいい加減に書かれた本を、何のために目くじらを立てるかのように批判するのか、ここでその意図を明らかにしておきたい。
まずその論理の拙劣さにもかかわらず、『マニュアル』のメッセージの影響力と危険性、そしてそのことの責任は、いまだ大きいということである。100万部以上売れているベストセラーであることは知らなかったが、さらに現にネットで検索してみても、『マニュアル』はいまだに売られ多くの信奉者を産み続けているらしいのだ(「何者も信じない」という人間と、それを信奉する多くの人という、いたるところで見かける不思議な構図)。
危険性と責任に関して同書は、自殺の方法という単に事実的な情報を提供しているにすぎず、社会責任上何ら問題はない、自殺しようが読者の自己責任において「勝手にしてくれ」とうそぶいている。
もちろん同書の内容は、既存の法令に抵触するものではないらしいし、現に堂々と書店で売られ続けてきたように、残念ながらぼくらの社会の一般的な倫理水準もこれを見過してしまってきている。現在に至るまで『マニュアル』に対しては多くの批判があったらしいが、いずれも「キモチワルイ」「あってはならない」という感情レベルのものであったようだ。
ここで問うのは道義的責任である。同書が自己責任能力と判断能力の未成熟な中高生を中心とした若年層をターゲットにしていることは明らかである。そして多くの生きる意欲を見失っている精神的に未発達な若者に対して、ごく簡単に「死ねる」方法を提供しているということ、さらに実際それで自殺した人間が多く出たということは、どう言いつくろっても無責任な自殺幇助行為である。
「単なる情報提供」の裏には、そういう自殺を煽るようなメッセージを真に受ける、生きる自信を見失った若者が多いという計算と、そして実際に死ぬ人間が出るだろうという推測がはたらいていたのは明らかである。目論見どおり、それによって著者も出版社も大いに潤ったわけだ。
むろんニヒルに居直った著者も売上至上の出版社も、「道義」を問うたところで冷笑するだろう。残念ながらこの日本社会の現在の倫理水準はそれを問うことができていない。しかし道義とは、本来その人自身が気づかない深層の声が問うものである。著者・鶴見氏の生き様は今後そのことを証明していくだろうという意味で注目に値する(というか、現に証明しつつあるようだ)。
ところで、自殺を当然のものとするそのシニカルで一見特殊に見えるメッセージが、実はこの社会の暗黙の共通感覚を単に暴露し先鋭化させたものにすぎないのは、すでに明らかにしたとおりである。そのような無意味感、脱力感は、とくに若い世代においてすでに行動の基調というか原理となっているものであって、何ら目新しいものではない。
若年層による、一見不可解な問題行動の激増の背後に、そうした倫理的な「底づき」感があるのは、おそらく異論の生じないところと思われる。この『自殺マニュアル』を批判することは、そのような危うい雰囲気化した常識を問い直し、乗り越えることでもあるのだ。
『マニュアル』に典型的に現れた思想的混乱は、粗雑な物質科学主義・還元主義と、集団という契機を忘れた個人主義的民主主義を基調にした現行の学校教育を受けて育った人間が、ふつうに突き詰めると最後に必ず到る隘路なのだと思われる。
そういう学校教育の暗黙のプログラムが敷いたレールを、まっすぐ素直にたどっているという意味で、一見過激に見える著者の姿勢は、実はあまりにもありふれていて陳腐である。
しかしそのような行きづまりを相対化し超える視点は幸いなことに存在する。それをもとに、古いものは古い、誤っているものは誤っていると、ここではっきりと断言する必要があると思う。
さらに個人的な怨恨ということがある。かつてそのようなメッセージ(もちろん鶴見氏のものに限らず)を真に受け、「まったりと」脱力して若い日の多くの時間を無駄にし、手元の『マニュアル』でひょっとしたら死んでいたかも知れない自分、そして実際に死んでいった多くの自分に似た者たちがいるということ、さらにそういう錯覚を煽って恬として恥じない人間がいるということに、憤りを感じるのだ。しかしそのことは論旨とはまた別のことである。
ところで、ここで批判者である自分のコンテクスト・意図を明らかにしておく必要があると思う。何を正しいことと考えるか、それをもとに何をどうしたいのか、というシンプルな問いが共有できていないと、そもそもあらゆる議論は成り立たないからである。
自分はシンプルに、人が生きることの根本の動機とは、他者と仲良く、社会をよりよく、そして人生を意味深く、ということに尽きると考える者である。一見小難しく聞こえる思想というものは、その現実をあとから説明するために出てくるものであろう。また幸いなことに、そういうシンプルな事実を科学に基づいて思想的に裏付けることができるという時代に、ぼくらはすでに生きている。
そしてそのことを阻害し退行と絶望に至らしめる、毒を含んだ短絡思考を批判的に見る、というのがここでのコンテクストである。
これはあまりにナイーブに聞こえるだろうか?
しかし表層的な価値観に右往左往し、深層から湧き上がってくるものに翻弄されながら、ぼくらが心から求めているのは、自覚できているとできていないとにかかわらず、実はそうした単純な人生の事実であるはずだ。そうでない人がいるのだろうか?
そして、極端なニヒリズムで身構えた同書の空虚な論調の背後に、じつはそういう隠れたシンプルな願望があきらかにはたらいていることが見て取れるのである。ひじょうに歪んでしまっているために、著者本人も自覚できていないようだが。
とまれ、「批判のための批判」というよくある不毛な泥沼に陥らないよう、自分の足元に気をつけて進んでいきたいと思う。
2005-09-10 23:46
だからそれを揺るがしかねないものは許せないんです。心に余裕がある人はああだこうだ言わないですよね。もっと少数の人が知っているくらいが丁度いいのに知られ過ぎている。ちなみに勘違いされないように最後に付け加えますと別に安楽死とか自殺について推薦してる本じゃない。ただ、人の状況や捉え方次第でいくらでも知識は悪用出来てしまう。