愛媛の伝承文化

大本敬久。民俗学・日本文化論。災害史・災害伝承。地域と文化、人間と社会。愛媛、四国を出発点に考えています。

愛媛文化界の先哲・曽我鍛(そが・きとう)さん

2011年02月23日 | 地域史

先にも紹介した曽我鍛(そがきとう・号は正堂)さんは、明治12年に布喜川村(鴫山)で生まれ。松山中学校を経て、早稲田大学に進み、歴史学を学んでいます。

大学卒業後は帝国大学史料編纂掛(今の東京大学史料編纂所)や三井家史料編纂嘱託を経て、帰郷。大正~昭和初期に伊予日々新聞・大阪毎日新聞の記者として活躍します。

同時に、伊予史談会の設立・雑誌『伊予史談』の編集にたずさわるなど、戦前の愛媛県内の文化界の中心人物として活躍しました。

現在、愛媛の歴史の基礎史料となっている『宇和旧記』・『松山叢談』・『大洲旧記』などを活字化・刊行したり、大阪毎日新聞時代には、正岡子規の没後、子規にゆかりのある人を集めて対談記事を掲載したり(『子規全集』に再録)するなど、郷土史(歴史)・俳句(文学)に関するさまざまな礎を築いた人物です。

また、八幡浜関係では、戦前の村誌では質の高さで県内でも有名な『双岩村誌』の編纂・執筆に携わり、また、戦前の八幡浜地方の正月や亥の子など民俗行事を克明に随筆で紹介しています。また、坪内逍遥や安部能成など各界の著名人とも交流があり、その書簡や書などの遺品もご遺族により保管されています。

これまで郷里の三瓶町・八幡浜市では、曽我鍛(正堂)については充分にその業績が認知されていない状況でした。しかし、この曽我鍛(正堂)が使用していた書籍等の資料は、現在、三瓶文化会館にて保管されており、この最近、一部が館内にある「ふるさと資料展示室」にて常設で展示されました。

また、近年、ご子孫により、曽我鍛(正堂)の執筆した文章が八幡浜新聞にて公表されるなど、地元で曽我鍛(正堂)の業績を再認識しようという流れができつつあります。

さて、曽我鍛の読み方は、『愛媛県史人物編』や『愛媛県大百科事典』には「そが・きたえ」となっています。一般には「きたえ」と呼ばれています。しかし、曽我さん本人が著した『郷土伊豫と伊豫人』の奥付には「きたふ」と表記されており、また、「Kito」という蔵書印があることもご子孫に教えていただきました。号も「鬼塔(きとう)」・「黄塔(きとう)」ですので、曽我鍛は「きとう」と読むのが正しいのでしょう。これまで、愛媛の郷土史研究の大先達として多くの人に知られていても、ほとんどの人は「きたえ」と呼んでいます。今後は、「そが・きとう」と呼ぶのがいいと思います。