【ロヒンギャ危機】 ロヒンギャ武装勢力の真実
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2017年10月13日
ミャンマー西部ラカイン州の少数派イスラム教徒ロヒンギャを注視してきたほぼ全員が、この1点については同意していた。つまり、あまりに苦しい毎日を送るロヒンギャの中から、いずれ国家の権威に抵抗する武装勢力が生まれるだろうと。
8月25日早朝に約30カ所の警察や軍施設への襲撃が始まった。これを機に、ミャンマー軍は容赦のない掃討作戦を開始し、50万人以上のロヒンギャがバングラデシュに避難せざるを得なくなった。そしてこの襲撃によって、「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)を自称する正体不明のグループ率いる武装闘争が、ロヒンギャの間に根付いたことが、明らかになった。
一方で、バングラデシュにいる難民や武装勢力のメンバ―に話を聞くと、ARSAの戦略はまだ稚拙で、全てのロヒンギャが支持しているわけではないと分かる。
ミャンマー治安部隊の説明でも、8月25日の襲撃のほとんどは単純なもので、自殺行為にも等しい突撃がほとんどだったという。武装勢力の武器は、なたや鋭い竹の棒だった。
早い段階での最大級の襲撃は、マウンドーの南の沿岸部にある町、アレル・タン・ジョーの警察施設に対するものだった。
アウン・ジョー・モー警部補は襲撃後に現場を訪れた記者団に対し、襲撃の予告があったので、襲撃前夜に施設内に現地当局者全員をかくまったと話した。
警部補によると、午前4時に約500人の男たちからなる集団が2組、それぞれ海岸から駆け上がってきたという。
男たちは海岸付近に住んでいた移民局職員1人を殺害したが、警官たちが自動式の銃器で応戦したため、簡単に退散した。17人の遺体が残された。
これは、バングラデシュで1人のロヒンギャ難民から聞いた話と一致している。
ラカイン州をどのように追われたか話してくれた男性によると、8月25日の襲撃の数日後、武装勢力が男性の村全体を襲撃に参加させようとしたと不満をあらわにした。
男性によると、武装勢力は牛やヤギを好き勝手に奪い、ロヒンギャの独立国ができた暁には代金を払うと村人たちに告げた。新しいなたを青年たちに与え、近くの警察署を襲撃するよう命令した。
ARSAにはたくさんの武器があるので後で村の応援に戻る――。武装勢力はそう約束した。言われた通り村から約25人が攻撃に加わり、その多くが死んだ。
武装勢力からの応援はなかったという。
4年前にARSAに加わった20代の若者に会うことができた。彼は今はバングラデシュにいる。
ARSAの指導者アタ・ウラ―氏が2013年にこの若者の村を訪れ、ロヒンギャの不当な扱いに抵抗して闘うべき時だと主張したそうだ。
ウラ―氏は、それぞれのコミュニティーが5人~10人ずつ出すよう要求した。村から丘陵地帯に連れて行かれた村人たちは、そこで古い車のエンジンピストンを使って簡易爆弾を作る訓練を受けた。
若者の村はこれに勢いづき、訓練を受ける村人たちに食べ物や身の回りのものを運ぶようになった。若者も最終的に、訓練を受け始めたという。
訓練を受けた村の男たちは、とがった竹の棒で武装し、村の巡回を始め、村人全員をモスク(イスラム教の礼拝所)に行かせた。銃は全く見なかったと、若者は話した。
「世界の注目を集める」
8月25日に銃声が聞こえ、遠くの方で火が燃え上がるのが見えた。男性が「アミール」と呼ぶ地元のARSA司令官が到着し、軍が攻撃しに来ていると男たちに伝えた。
先制攻撃をしろと命令された。どうせ死ぬのだから、信念のため殉教者として死ねと言われた。
若者によると、あらゆる年齢の男たちがナイフや竹の棒で武装し、向かってくる兵士に突撃し、大勢が死傷したという。死んだ数人の名前も教えてもらった。
この襲撃の後、若者は家族と共に水田地帯に逃げ、バングラデシュを目指した。逃げる間、仏教徒ラカイン族の男たちにも襲われたという。
そんな不毛な攻撃になんの意味があるのか。私は若者に尋ねた。
世界の注目を集めたかった――。若者はそう答えた。それまであまりに苦しかったので、死んでも構わないと思っていたのだと。
国際的な聖戦主義者グループとのつながりは否定した。自分たちの権利のために戦い、ミャンマー軍から銃や弾薬を奪おうとしている。それだけだと。
この若者をはじめ複数の人の話からは、戦闘にフルタイムで参加している戦闘員数百人が中核にいる集団の様子がうかがえる。中には外国人が若干名いるのかもしれない。また、訓練も受けず武器も持たないまま直前になって攻撃に参加した人たちが、何千人といただろう。
8月25日、パキスタン生まれのロヒンギャ男性、アタ・ウラー氏は、頭巾をかぶって武器を持った男性2人を携えたビデオを公表した。ウラー氏は、ラカイン州の住民衝突を機に2012年にARSAを立ち上げた人物だ。
8月の襲撃は、「ロヒンギャ大量虐殺」への防衛行動だったとウラー氏は言う。
「我々を包囲して攻撃してきた」ミャンマー軍に対抗して、機先を制するほか、自分たちARSAに選択肢はなかったと。
ウラー氏は、国際社会に支援して欲しいと訴えた。アラカン(ラカイン州の別称)は当然ながらロヒンギャの土地だと主張した。
しかしウラー氏はその後、ARSAがラカイン州の他の民族とは争っていないとたびたび発言している。
他のムスリムへの連帯を呼び掛けていない。ウラー氏は自分の闘いを、イスラム教聖戦(ジハード)と位置付けていないし、世界のイスラム教徒の闘争という文脈で語ってもいない。
アタ・ウラー氏は他のイスラム教集団に不信感を抱いていると言われる。今も、支援を求めている様子はない。
「アタ・ウラー氏と広報担当者は明確に、民族国家主義運動を自認している」。タイ・バンコクの安全保障アナリスト、アンソニー・デイビス氏はこう指摘する。
「国際的なイスラム教聖戦主義や『イスラム国』(IS)、アルカイダと、何も実質的につながっていない。自分たちの闘争の目的は、ラカイン州内のロヒンギャの権利回復だという認識だ。分離主義者でもなければ、イスラム教聖戦主義者でもない」
しかしながらミャンマー軍は、アタ・ウラー氏の組織を「外国の支援を受けた、ミャンマー国民に対する陰謀」だと巧みな印象操作に成功した。大量のロヒンギャがバングラデシュへ逃げたことは、ミャンマーではほとんど報じられていない。
ミン・アウン・フライン国軍最高司令官は9月上旬、ラカインはロヒンギャのものだというアタ・ウラー氏の発言を取り上げ、ミャンマーはいかなる領土も「ベンガル人過激主義テロリスト」(同司令官)に明け渡すことは決してない、と警告した。
ラカイン州での軍事作戦についてフライン国軍最高司令官は、「1942年以来の未決案件」と呼んだ。これは、当時の英国軍と日本軍の戦闘で、前線が移動し続けた時期への言及だ。
人口バランスの「修復」?
1942年当時、ロヒンギャとラカイン州の仏教徒はもっぱらそれぞれ、相手の敵軍を支持していた。双方で民兵による虐殺が相次ぎ、大量の人口移動もあった。
ミャンマーとラカイン州で国家主義者の多くが、ラカイン州のロヒンギャ人口はベンガルからの移民のせいで不自然に激増したと考えているのは、この当時のことがあるからだ。
そのため、今年8月末からわずか4週間でロヒンギャ人口の半分をラカイン州から追い出したのは、軍の「一掃作戦」が成功したのだとも言える。ラカイン州の人口バランスは確実に、イスラム教以外が優位な状態に戻ったので。
それだけに、ではARSAは今後どうするのかという疑問が残る。ラカイン州内には今やほとんど、もしくは全く拠点が残っていないのだ。
国境をまたいで攻撃を仕掛けるのは、今までよりずっと難しくなるだろう。それにバングラデシュがおそらく黙っていない。バングラデシュは隣国に押し付けられた難民危機に激怒してはいるものの、抜け穴だらけの長い国境沿いで衝突が起きないよう、これまで常に注意を払ってきた。
私たちに情報を提供してくれた若者は、「首長」やバングラデシュにいる他のARSA指導者とは定期的に連絡を取り合っていると話した。ただし、アタ・ウラー氏との接触はない。
ARSAが次に何をどうするつもりか、まったく見当もつかないと若者は言う。難民キャンプで私たちが取材した人のほとんどは、ARSAの存在に気づいていた。組織について小声で話すだけでも、明らかに緊張している人もいた。
8月の衝突に至るまでの数カ月間で、複数の内通者がARSAに殺されたと言われている。かなり、信ぴょう性の高い情報だ。
しかし同時に、ロヒンギャの間ではARSA称賛も広がっている。1950年代以降、ミャンマー軍に歯向かった唯一の組織なのだ。
「バングラデシュの態度が今後の展開を大きく左右する」と、アンソニー・デイビス氏は言う。
「国境を閉鎖し続けるかもしれない。あるいは、バングラデシュ系にせよ外国系にせよ、ロヒンギャがいなくなった空白にイスラム過激派が入り込んでくるくらいなら、ARSAに最低限の支援を提供するかもしれない。
「国境を越えて隣国に圧力をかけるため、軍情報部が反乱運動組織を活用する。そういう事例は、よそでも起きているので」
(英語記事 Rohingya crisis: Finding out the truth about Arsa militants)
【ロヒンギャ危機】アウンサンスーチー氏の言い分、どこまで本当か
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2017年09月20日
ミャンマーの実質的指導者アウンサンスーチー氏は19日に初めて、ラカイン州の武力衝突と難民危機について公の場で言及した。
BBC東南アジア特派員のジョナサン・ヘッド記者は、ミャンマーとバングラデシュの国境の両側からロヒンギャ問題の取材を続けている。ヘッド記者がスーチー氏の主張がどこまで本当かを点検した。
スーチー氏「今月5日以降は武力衝突や強制排除作戦は行われていない」
今月7日、私はアレル・タン・ジョーで行われた政府主催のマスコミ視察ツアーに参加した。その際、遠くから自動小銃の音が聞こえ、4本の太い煙が立ち昇っていたのを目撃した。複数の村が焼かれていたとうかがわれる。
その後、同じ日に、ロヒンギャのガウドゥタールヤ村が、複数の武装警官の目の前でラカイン族の仏教徒によって焼かれた。村の近くには警察署がある。
バングラデシュからは、ナフ川の向こう岸で複数の煙が立ち昇っているのが見えた。煙の規模からして、村が焼かれていたとしてもおかしくない。
アウンサンスーチー氏は、これを「強制排除」作戦とは呼ばないのかもしれない。しかし、この川岸付近の地域でミャンマー軍と警察が非常に多く見られることから、少なくとも当局の暗黙の了解がなかったとは考えにくい。
○ アウンサンスーチー氏「宗教、人種、政治的立場を問わず、この国の法に背き、国際社会が認める人権を侵害するすべての人物に、対処する」
ミャンマー軍は70年以上にわたり人権侵害を重ねてきたが、ラカイン州だけでなく、国内で武力衝突が続く多数の地域で、軍人が処分を受けたという記録はほとんどない。
それが今になって処分されるようになるとは考えにくい。ミャンマー軍は、約40万人のロヒンギャが避難したのは、武装勢力「アラカン・ロヒンギャ救世軍」(ARSA)の襲撃に関与したからだと主張している。
マウンドーで取材した1人の大佐は、多くのロヒンギャ難民がレイプされたという訴えについて、事実であるはずがないと私に話した。自分の部下は強姦などするには戦闘で手一杯だし、ロヒンギャの女性はそれには魅力がなさすぎるからと。
○ スーチー氏「ラカイン州に住むすべての人は、分け隔てなく教育と医療を受ける機会がある」
これはまったく事実と異なる。ロヒンギャは長年にわたり、差別され、様々な制約を受けてきた。当局の許可がなければ移動できず、結婚すらできない。許可を得るためには往々にして、賄賂を支払う必要がある。
ラカイン州で2012年に起きた暴力沙汰を機に、ロヒンギャへの規制は強化された。
ミャンマー国内の難民キャンプにいる多くのロヒンギャは、特別な許可がない限りそこから離れられず、その地域に縛られている。そして特別許可はなかなか得られない。
そのキャンプにいて、5年間も教育を受けられない生徒たちを私は知っている。
私は4年前、ラカイン州ラテダウン南部にある、ロヒンギャのアーナウピーン村を訪れた。そこでは周辺のラカイン族仏教徒たちはロヒンギャを非常に敵視しており、ロヒンギャはたとえ病気やけがの治療が目的でも村を出られなかった。
今月18日、私はバングラデシュでガウドゥタールヤ村から来たアブドルマジドさんに話を聞いた。私自身、その村が焼かれるのをこの目で目撃した。
アブドルマジドさんは私に、「5年前から、仕事のためでも村の外に出らなかった」と話した。
(英語記事 Rohingya crisis: Are Suu Kyi's Rohingya claims correct?)