渡来人と縄文人の末裔、「共存」して弥生時代へ
- 発掘現場の無数の人骨(レプリカ)は、みな西を向いていた=山口県下関市の土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム
photo : Kotoyori Tatsuo
頭を東、足を西に横たえられた無数の人骨は、頭を少し上げ、大陸に続く海を見るかのように葬られていた。
山口県下関市。
響灘ぞいの丘陵地にある弥生時代の土井ケ浜遺跡は、中国大陸や朝鮮半島からきた渡来系弥生人の骨が300体以上も出た埋葬地跡だ。発掘現場はドームで覆われ、レプリカの人骨で出土当時の状態が再現されている。
「中国大陸の戦国時代、戦乱を避けて逃げのびてきた人々だったのでは」。土井ケ浜遺跡・人類学ミュージアム館長の松下孝幸は、そうみている。
土井ケ浜の人骨は背が高く、顔は面長で鼻が低く、のっぺりしていた。小柄で、顔の幅は広く、みけんの下がくぼんでいる縄文人とは明らかに違う。大陸からき た弥生人が縄文時代からいた人々と混血し、いまの日本人を形づくったとする説を裏付ける有力な根拠となった。
ただ、松下は1982年の調査で、奇妙な頭骸骨(ずがいこつ)を取り上げた時のことをいまも覚えている。
「えっ、こんなのが出ていいのか」と声を上げた。
300を超える骨の中で1体だけ、縄文人そっくりの顔のつくりをしていたからだ。「701号」と名付けられたその人骨は、渡来系弥生人の人骨と寄り添うように埋葬されており、松下は「共同体の一員とみなされていたようだ」と話す。
長崎県や熊本県の海沿いで骨が見つかる弥生人は西北九州型と呼ばれ、縄文人と似た顔つきだ。「701号」は、その仲間だったかもしれないという。
松下が注目したのは、遺跡で見つかった男性用の腕輪に大型の巻き貝ゴホウラが使われていた点だ。
この貝は琉球列島のサンゴ礁域で生息する。土井ケ浜の人々がゴホウラを求めて九州の西海岸を南下したとすれば、西北九州型の弥生人が水先案 内人を務めた可能性がある。土井ケ浜にいた「701号」もその一人だったのではないか、と松下は推測する。弥生時代の地域交流を示唆する仮説だ。
一方、弥生時代中期(約2000年前)になると、北部九州では渡来系弥生人が人口の8~9割を占めていたという。多数の人々が渡来し、縄文人の子孫らを数 で一気に圧倒したとの考え方も成り立ち、かつて「100万人渡来」説が唱えられたこともある。だが、実はそれほど大規模でもなかったようだ。
九州大教授の中橋孝博は、それほど大規模でなくても人口比の劇的な変化は起こりうることをシミュレーションで示した。
中橋は「北部九州で見つかった戦傷人骨は、ほとんどが渡来系弥生人の骨で占められている」とも指摘する。出土した人骨を見る限り、渡来系弥生人どうしが争った形跡だけが目立つのだ。
国立科学博物館の篠田謙一も、DNA分析をもとに、縄文人の子孫らと弥生人は平和的に混じり合った可能性があるとみる。
父親から息子に引き継がれるY染色体のDNAを調べると、東アジアでは少数派のグループが日本では大きな割合を占めており、縄文人由来のDNAが残っていると考えられる。
もし渡来系弥生人が縄文人を一方的に征服したのなら、縄文人由来のY染色体DNAは極端に減っていてもおかしくない。南米では、先住民を欧州系が征服した結果、欧州系のY染色体DNAが急増したという。
縄文人と渡来系弥生人の融合が平和的に進んだことが、日本人のなりたちの特徴のようだ。
(琴寄辰男、吉川啓一郎)
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