いまだ寒い日が続く、春遠からじ。
先日の新聞にある人の死亡記事がのっていた。わたしにとってそのころ二十歳ぐらいだから、そのことは38年ぶりのことである。遅く来た、苦い青春の話だ。
佐野進さん、旧日本社会党の衆議院議員だった方である。3期務めて引退、享年88歳である。
当時は東京6区(江東区・墨田区)が選挙地盤で、あの、講演会で右翼少年に殺された社会党の委員長である、浅沼稲次郎の跡を引き継いだのだそうだ。わたしはそのころ、上京後に入った夜間の大学に幻滅し、新聞配達、土方のアルバイトで住み込み働きながら、再度、再入学を期し予備校に入り浪人生活を送っていた。
世の中は大学紛争の騒然とした時代、学内では毎日集会と政治デモのあわただしく落ち着かない毎日であった。東北の片田舎の高校からのぽっと出のわたしである。社会の変革にと問題意識ばかり山のように抱えて、なにかしなければならないと衝迫していた。当時、わたしは‘心情三派’を自任している。しかしゲバルトなどという直接行動には疑問を感じていた。
そこで、都内錦糸町にあった佐野進さんの衆議院議員選挙の応援に自分から手弁当で飛び込む。一週間ほど、選挙事務所に通ったものだ。
やがて、そこで ‘反戦青年委員会’で活動中の都庁職員のI氏と知り合う。
この間、彼からの今年の年賀状でこの3月に定年と書いてあったのだが、彼は最後に建設局支部の書記長というバリバリの組合幹部であり、いずれ来る社会主義革命を信じて今までずーっとそれを通してきたらしい。
あのころ、生活の資を得ながら大学に通うという状態であった。それは、慢性的な金欠病の日々である。だからといって貧乏学生は恥ずかしいことではなかったが、将来は会社に入って家庭を持ってなどという人生は全く考えていなかった。
わたしには、そういう一般的な物質欲、社会的に偉くなろうなどという野心もないのであった。
しかし、それからが悪い。人生からドロップアウトの日々を送った。悪事はしていないから裏街道を歩んだわけではない。他人に迷惑をかけたわけではない。しかし、周囲の知人はこんなわたしをもう駄目だと思っていたらしい。肉親、兄弟、親戚の心配は遠い世界のことであった。
その後、たまたま結婚を考え始めた29歳に、職業安定所で探して、やっと、造園という好きな今の仕事に就いた。実は、後日談でも、やり直すのも難しいともいわれたのだが・・・・。
それから、あるべき道を全速力で追走し、仕事にのめり込む挽回の人生になった。それは模索を重ねつつ、果てしようもない自立の道でもあった。
どうもわたしは、若い時から、自分の利益になることよりもそういうボランティア活動に一所懸命になる性格らしい。自我にこだわり挙句の果てに自分を見失う、そういう愚かさがあるらしい。
先日の新聞にある人の死亡記事がのっていた。わたしにとってそのころ二十歳ぐらいだから、そのことは38年ぶりのことである。遅く来た、苦い青春の話だ。
佐野進さん、旧日本社会党の衆議院議員だった方である。3期務めて引退、享年88歳である。
当時は東京6区(江東区・墨田区)が選挙地盤で、あの、講演会で右翼少年に殺された社会党の委員長である、浅沼稲次郎の跡を引き継いだのだそうだ。わたしはそのころ、上京後に入った夜間の大学に幻滅し、新聞配達、土方のアルバイトで住み込み働きながら、再度、再入学を期し予備校に入り浪人生活を送っていた。
世の中は大学紛争の騒然とした時代、学内では毎日集会と政治デモのあわただしく落ち着かない毎日であった。東北の片田舎の高校からのぽっと出のわたしである。社会の変革にと問題意識ばかり山のように抱えて、なにかしなければならないと衝迫していた。当時、わたしは‘心情三派’を自任している。しかしゲバルトなどという直接行動には疑問を感じていた。
そこで、都内錦糸町にあった佐野進さんの衆議院議員選挙の応援に自分から手弁当で飛び込む。一週間ほど、選挙事務所に通ったものだ。
やがて、そこで ‘反戦青年委員会’で活動中の都庁職員のI氏と知り合う。
この間、彼からの今年の年賀状でこの3月に定年と書いてあったのだが、彼は最後に建設局支部の書記長というバリバリの組合幹部であり、いずれ来る社会主義革命を信じて今までずーっとそれを通してきたらしい。
あのころ、生活の資を得ながら大学に通うという状態であった。それは、慢性的な金欠病の日々である。だからといって貧乏学生は恥ずかしいことではなかったが、将来は会社に入って家庭を持ってなどという人生は全く考えていなかった。
わたしには、そういう一般的な物質欲、社会的に偉くなろうなどという野心もないのであった。
しかし、それからが悪い。人生からドロップアウトの日々を送った。悪事はしていないから裏街道を歩んだわけではない。他人に迷惑をかけたわけではない。しかし、周囲の知人はこんなわたしをもう駄目だと思っていたらしい。肉親、兄弟、親戚の心配は遠い世界のことであった。
その後、たまたま結婚を考え始めた29歳に、職業安定所で探して、やっと、造園という好きな今の仕事に就いた。実は、後日談でも、やり直すのも難しいともいわれたのだが・・・・。
それから、あるべき道を全速力で追走し、仕事にのめり込む挽回の人生になった。それは模索を重ねつつ、果てしようもない自立の道でもあった。
どうもわたしは、若い時から、自分の利益になることよりもそういうボランティア活動に一所懸命になる性格らしい。自我にこだわり挙句の果てに自分を見失う、そういう愚かさがあるらしい。