5月2日、福岡県の北九州市役所から報告書が届いた。第18回自分史文学賞のこと、昨年9月末日に締切ぎりぎりに郵送、今年1月17日に応募結果が発表になった。それから、春先に講評があるとの連絡で、実を言うと非常に心待ちにしていたもの。丁寧な対応とはおもっていたが、残念なことに選外の作品の選評はなかった(つまりわたしの作品にも)。個別にはない。この分では、1次審査も通過できなかったんだろう。期待はずれで、気分は陰々滅々とまではいかくても、これはこれで結構、粛々たる気持ちである。
書き直しして、何度も応募して大賞を受賞した方がいたそうだが、わたしの場合そもそも制作するモチベーションが違うからなあ、でもどこかで出版してみたいものだ。どうも、わたしの作品の場合、情景描写がなく論述っぽいのだろうか。文学ではないな。この賞と趣旨が違っていた可能性がする。
応募総数377、このうち60歳以上が294にのぼる。なんだろう、これは。うーん。おもな題材として、太平洋戦争の悲惨な時代、社会背景がからんでいるのか。この世代にとって、生涯を振り返るときに避けられないパラダイムなのだろうか。
1次審査作品 公表されず
2次審査作品 48
3次審査作品 17
最終候補作品 7
入選作は大賞1、佳作2、北九州市特別賞1である。
これで、永久に北九州市を訪れるチャンスがなくなった。かつてあれほど、月一のペースで行っていたのに。門司港レトロ、日本のリバプールなどとは、もう面映ゆくて言えないな。残念至極である。
興味のある方は下記のサイトをのぞいてみてください。
北九州市自分史文学賞
しかし、地区大会は「楽器店采配」で行われて居た為に「本当の審査」をして頂けませんでした。
楽器を買ったり、スタジオを使ったりしないと駄目だったのです。
確かに数回「東北大会」に出た事もあります。
但し「この曲を内緒で貸してくれないか?」と言う条件付きで。
つまり「自分の曲が他人名義で・他人の歌で」東北大会に出たと言う事です。
「何回か東北大会に出れば、君自身もちゃんとした姿で出させてあげるから。」
そんな甘い誘惑に負けて一生懸命曲作りをしましたが、結局一度も出る事はありませんでした。
更に「ヤマハ系列のロックバントコンテスト」を、郡山で行って居た際も「東北大会出場条件」は似たようなものでした。
福島からのエントリーは「審査と演奏出演」のみ。
それ以来、コンテストエントリーに興味が無くなりました。
今回は北九州市が主催するのですから、多分九州の人間で無いと「受賞対象」にならなかったのかも知れませんね。
毎日文章を拝見させて頂いて居るワタシにとって、うざね博士さんの文章が劣るとは考えられません。
どうか気落ち無く、これからもワタシを毎日うならせて下さい。
貴ブログの毎日の更新内容を拝見。お返しではないのですが、なかなか貴ブログに書き込みできないでいます。切り口がつかめないといいますか。あっという間に話題が過ぎていくというか。まあ申し訳ないんですが、どんな社会記事でも身近に発想していかないと駄目だと感じているせいでしょうかね。言うからには自分からやらなきゃ、という気持ちです。言い放っなしはわたしのやることではありませんし。
自分史文学賞は、やはり読み物、文学的なものではないといけないのでしょう。わたしの作物はちょっと異色なのですね。造園デザインという具体的な仕事の
履歴と、どなたにもある人生を重ね合わせたものですが、何らかの機会にでも出版したいですね。
もう少しランドスケープ業界の晴れ舞台に出るチャンスがあったらチャレンジする予定です。
今までわたしの身近な知人の間では、好きな仕事をたどってきたこの内容に、業種を超えて若い人に好評だったのです。
それでは、またまた。