れんげ上人伝記 ③
敵の首を討ち取った、豊春親子夫婦の喜びは、この上も無いものでした。しかし、喜
んでばかりは居られません。何時追っ手が来るとも知れないと、夜半、仮の住まいを捨
てると、若を妻に抱かせ、自らは母を肩に掛けて、逃亡の旅に出たのでした。
女子供連れで目立つ為、人目を忍んで夜になると歩き、日数を重ねて、和泉の国佐野
の里(大阪府泉佐野市)あたりにまでやって来ました。しかし、もともと、貧乏な豊春
には蓄えも無く、とうとう食べる物もなくなり、飢えに疲れ果ててしまいました。
もうこれ以上は歩けないという所に、荒れ果てた辻堂を見つけました。とりあえず、
今夜は、ここで休むことにしようと、この辻堂を一夜の宿とすることにしました。親孝
行の豊春は、自分の疲れは露にも出さずに、母を労り、
「のう、母上様。年来の願いも叶った上は、本国に帰り、父の本領を安堵して、母上様
にも安楽に暮らせるようにと思っておりましたが、本望を遂げた甲斐もなく、食べ物も
無くなってしまいました。ここで、飢え死ぬを待つとは、恨めしい世の中です。」
と、涙を流して謝りました。母上は、
「おお、嬉しい事を言ってくれるのですね。私は、もう老木。老い先短いのですから、
飢え死にしようと、構いません。ただ、本領を安堵したお前達の姿を見られないことだ
けが心残りですが、私に構わずお行きなさい。」
と、夫婦に気遣って、自分を捨てるように言うのでした。有り難い母の心遣いに、若の前は、
「大変有り難いお心。なんとか、母上にご奉公する方法はないものでしょうか。ああ、
そうです。思い出しました。天竺のしょうえん女(不明)という方は、年老いた母が
飢え死にしそうになった時、自らの乳を与えて親孝行をしたと聞きました。私も、母上
様に乳を与えるならば、少しは飢えを凌ぐことができるでしょう。」
と、豊若を豊春に抱かせると、老母の傍に立ち寄って、
「せめて、乳をお飲みいただいて、空腹を癒してください。」
と、母乳を勧めました。まったく、これ以上の親孝行は、ありません。母は、若の前
の母乳を有り難く飲みましたが、
「ああ、嬉しいことです。嫁としてのこれまでの親孝行、返す返すも感謝しておりますよ。
この度は、御身の切なる願いであったので、乳を頂きましたが、そのようなことは、二
度としないで下さいよ。不憫の上にも愛おしい孫の食事を、どうしてこの婆が奪うことが、
できますか。こんな老木は捨てておいて、孫子を労ってやりなさい。」
と言って、それからは、母乳を飲もうとはしませんでした。それから夫婦は、老母を
休ませると、二人で密かに、身の成り行きを相談しました。豊春は、
「如何とも、運命尽き果てた。女房よ。あと、四、五日あれば、本国に帰り着くという
所だが、どうしようも無い。この有様では、その前に飢え死にしてしまうだろう。私や
お前は、一日二日、食べなくてもなんとかなるだろうが、母上様はもう限界である。
お前の乳を飲んでくれれば、なんとか本国に帰り着くこともできるだろうが、豊若を
気遣って飲んでくれそうに無い。この子が居なければ、母に母乳を与えることもできる
だろうが、流石にこの子を捨てることもできない。お前はどう思うか。」
と、涙を流して話します。若の前は、
「ごもっともです。母乳を飲んでいただければ、死なずに本国に帰ることができます。
この子のことを心配して、飲んでいただけないのです。お心の優しい母上様です。
不憫な事ではありますが、幼い子を何とでもして、老母に乳を与えてお連れいたしましょう。
行きとし生ける物、子の死を悲しまない物はありませんが、命長らえれば、又、子には、
恵まれる事もあります。しかし、親に別れたなら、二度と会うことはできません。恨め
しい浮き世ではありますが、母上様を労ることの方が大事です。」
と、泣き崩れました。豊春も涙ながらに、
「さても頼もしい言葉。私には実の親であるから、この身諸共失っても惜しくはないが、
お前にとっては、舅(しゅうと)であるのに、そこまで深く孝行してくれるのか。まったく、
唐土(もろこし)のとう夫人(不明)にも勝る賢女だな。また、郭巨(かっきょ:中国故事)
という者は、貧乏のため食い詰め、口減らしをしようとしだが、老母を助け、一人の嬰児
を、山の中に生き埋めにしようとしたという。その時、掘った土の中から、黄金の釜
を掘り当て、再び長者になったとか。そのような天の哀れみがあればよいが、私は、ど
の様な因果で、たった一人の子供を殺すはめになるのだろうか。しかし、私も一人しか
居ない親の為にそうするのであれば、これが天命と諦める外ない。」
と、消え入る様に嘆く外ありません。無惨にも、幼い子供は、これから殺されるとも知
らずに、父や母の顔を撫でて、戯れ遊んでいるのです。若の前は、
「ああ、世の中で、親の恩程重いものはありません。今日まで、三年の間育ててきた
幼気(いたいけ)盛りのこの子を、親の為に殺すのなら、仕方のないことです。それに
しても豊春殿。見てください。今から殺されるとも知らないで、無惨にもこの子は、無
心に遊んでいます。ああ、不憫な子です。これまでの旅の苦労も、この子が居るから耐
え忍んでこれらましたが、この子が亡き後は、どうやって心の憂さを晴らしたら良いの
でしょう。このような薄い親子の縁であったなら、なんで生まれてきたのですか。」