しだの小太郎 ⑤
さて、辛くも命が助かった信田殿は、再び都へと向かいました。日数も積もって、や
っと大津に辿り着きましたが、多くの宿が有る中で、人商いをする「辻の藤太」の宿に
投宿する悲しさは、運も尽き果てたとしか、言いようがありません。藤太は、信田殿を
見て、
『こりゃあ、良い商い物が現れたわい。』と思い、声を掛けました。
「これは、これは、何処へいらっしゃるのですか。」
と、聞けば、信田殿は、
「都へ。」
と、答えました。藤太は、
「お見受けするに、まだ、お若くていらっしゃいますが、お一人で大変でしょう。送り
届けてあげましょう。」
と、言うなり、信田殿を馬に乗せ、都へと運びました。都に着くと、藤太は、博労座(ばくろうざ)
へ行き、王三郎を呼び出して、信田殿を料足と取り替えました。信田殿は、それと知ら
ぬ内に、人買いに売り飛ばされてしまったのでした。それから、王三郎は、信田殿を鳥
羽の舟渡(三重県鳥羽市)へと売り飛ばしました。ここでも、更に売り飛ばされ、やがて、
加賀の国は宮腰(石川県金沢市金石町)へと辿り着いたのは、春の頃のことでした。
賎の仕事を教えられ、田んぼでの農作業にこき使われましたが、労しい事に、信田殿は、
鍬の使い方もろくろく分かりません。かの三皇(さんこう:中国伝説)の昔に、神農皇
帝は、自ら鋤(すき)を持って、その一畦の田を耕し、五穀の種を蒔いたので、勧農の
成果も著しく、尺の穂丈も長くなったと伝えられています。賢く徳の高い君主の国が、
栄えることの例えですが、かの信田殿の農業は、涙の種を蒔くようなもので、野でも山
でも、林でも、只ひれ伏して、泣くより外のことはありませんでした。これを見た人々は、
「役立たず」とけなして、隣国に買い取る人すらなくなりました。とうとう人々は、信
田殿を持て余して、ついには追い出してしまいました。もう、哀れというより、愚かと
いう外はありません。
〈放浪の道行き〉
心を他所に白雲の
打ち出でぬれば天の原
身は中空(なかぞら)なる神の
とどろ、とどろと歩めども
泊まり定めぬ、浮かれ鳥
鳴く音に、人も驚きて
開けぬる門を、杉の下
身は、飢え人となるままに
袂に物を乞食草
草場に掛かる命をば
露の宿にや置きぬらん
定まる方の無きままに
足を限りに行く程に
能登の国に聞こえたる
小屋湊に着きにける(石川県輪島市:輪島港の旧名)
この頃、小屋の湊では、夜盗が出没していたので、家々は、門をぴったりと閉めて
用心をしていました。これを知らない信田殿は、門外に佇んで、
「世に無し者(日陰者)に、慈悲をましませ。」
と、言って歩きました。そこへ、老人が一人通りかかり、
「あら、恐ろしや。盗賊が、下見に来たわ。討ち殺せ。」
と騒ぎ立てました。人々はこれを聞いて、艪櫂(ろかい)、舵をてんでに持って、集ま
って来ました。人々は、ひと杖づつ叩きましたが、老人は、
「そんなことでは、生ぬるい。討ち殺せ。」
と言うので、人々は、更に散々に打ち叩きました。そうして、騒いで居るところへ、浦
の刀禰(とね)の女房がやって来ました。この女房は、情け深い人で、信田殿を見と、
「この子を、私に下さいな。酒をあげるから、助けて上げなさい。」
と、言いました。酒と聞いて人々は、叩くのをやめて退きました。女房は、信田殿を、
家に連れて行くと、様々と労りましたが、その頃、奥州から来ていた塩商人が、信田殿
を欲しがったので、塩と取り替えることになったのでした。
さて、信田殿は、塩商人に買われて、奥州へと下りました。しかし、奥州で信田殿は、
塩木を切って、塩釜の火を焚く仕事に、毎日こき使われるのでした。
ある日、この村の長である「塩路の庄司」は、月を愛でるために浜へと出ていましたが、
信田殿を見ると、
「おや、目の内の気高さは、きっと由緒のある人であるに違いない。私には、この年ま
で、子供が出来なかったので、我が子に迎えることにしよう。」
と、信田殿を養子に迎えると、塩路の小太郎と名付けました。信田殿は、人々から慕わ
れて、ようやく人並みの暮らしができるようになったのでした。
それはさて置いて、その頃、奥州へ新しい国司が下りました。三年の内に、国の政
を確固とするために、国内の長官を全員招集しました。右は、勝田の大夫。左は、柴田
の庄司。総人数は、三百余人。いずれも選りすぐりの武士が出仕したので、その晴れが
ましさは限りがありません。その中に、塩路の庄司は、老体を理由に、養子の嫡孫であ
る信田殿を出仕させたのでした。しかし、役人達は、信田殿を見て、
「お前は誰だ。ここへは入れぬぞ。」
と言うなり、座敷から引きずり出しました。国司は、これを見て、
「どうして、塩路は来ないのか。上を軽んじるならば、領地を召し上げるぞ。」
と、言いました。信田殿は、
『これは、なんという悔しいことか。いやいや、ここで、名乗らなければ、養父の恥となる。』
と思い。ここで、立ち去っては悔いを残すと、立ち上がると、かの巻物を取り出して、
国司の前に出したのでした。国司がこれを見と、こう書いてありました。
「何々、葛原の親王(かずらわらのしんのう:桓武平氏の祖)の後胤、平将門の孫、
相馬の実子、何某」
これを見た国司は、態度を一変させて、
「これに増したる、家系の証明は無い。」
と国司が認めると、今度は、国司の対座へと、招かれました。なんとも目出度い次第です。国司は、
「なんと、労しいことか。奥州の国司である我が、都へ上って、正しく領地を安堵させ
てあげましょう。」
と言い、座敷を立ったので、国中の侍達は、黙ったまま舌を巻いて、すごすごと、退
出したのでした。
信田殿の御威勢は、これ以上、申すこともない程の千秋万歳の喜びです。
つづく
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