永平寺開山記 ⑨
そうして、道元禅師は、洛中洛外の老若男女の病苦を救い、仏法を説き聞かせたので、人々は、道元禅師を、釈尊のご出世であると、大変に尊敬されました。しかし、道元は、それで満足したわけではありませんでした。ある時、道元は道正に、こう言いました。
「かねてから、お前には話してきたが、これで修業が終わったわけでは無い。愚僧はこれより修業に出るが、お前は、ここに残って、衆生済度を続けなさい。」
そうして、道元は、諸国修行の旅に出たのでした。誠に有り難い限りです。道元は、東に下りました。宿場、宿場で布教を行い、様々な利益を与えながら、やがて鎌倉にやってきました。それは、もう日暮れ時のことでした。さて、ここらで宿でも借りるかと、宿を乞いますが、貸す所がありません。一人法師の宿泊は御禁制だというのです。道元は、
「よし、よし、このような邪険な国こそ、修業にはもってこいじゃわい。是非、ここで仏法を広めよう。」
と考え、由比ヶ浜の辻堂に籠もることにしました。
さて、その夜半のこと、そばにある井戸の中から炎が、ぱあっと上がると、二十歳ばかりの足の無い女が現れたのでした。女の幽霊は、辻堂で瞑想していた道元の前にふっと立ちました。道元禅師はそれをご覧になり、
「これは、不思議な有様かな。いかなる者であるか。」
と、問いました。女は、こう答えました。
「私は、笹目ヶ谷(ささめがやつ:鎌倉文学館付近)の者ですが、嫉妬の心が深かったので、夫に騙されて、この井戸へ真っ逆さまに落とされて、未だに成仏できません。二六時中に暇無く、身体より炎が出でて、五臓六腑を焼き払い、死ぬかと思えば、また生き返り、一時として安らぐことがありません。どうか、この苦しみから逃れさせてください。」
と、涙に暮れているのでした。道元は、不憫とお思いになり、
「さらば、お助けいたそう。」
と、法華経の開経を授けると、提婆品にて、懇ろに弔いました。すると、不思議なことに、明星天子(金星:太白星:虚空菩薩)が空より降りてきて、井戸の中に光線を放つと、幽霊は、たちまちに仏体となり、雲井遙かに昇天していったのでした。まったくもって有り難いことです。この井戸が、今でも「鎌倉の星井戸」と呼ばれるのは、この時が初めなのです。
(※星月夜の井又は星の井:鎌倉市坂ノ下、虚空菩薩堂)
道元は、幽霊女の成仏のため、虚空を拝んで猶も読経を続けていました。やがて、夜が白々と明けてきました。道元は、朝日を浴びて立ち上がると、すっくと立ち上がり、鶴ヶ岡に向かいました。
鶴ヶ岡に高僧が来て、尊い説法をしているという評判が、時の鎌倉副将軍時頼公の耳に入りました。時頼は、波多野出雲守義重(はたのいずものかみよししげ)を呼ぶと、
「聞くところによると、都より尊き沙門が来て、衆生に説法を広めているということじゃが、その教下別伝の志というものを聞いて見たい。すぐに、その修行者を連れて参れ。」
と、命じました。
やがて、道元がやってくると、時頼は、
「いかに、修行者。教下別伝の道理とはなんであるか。」
と、聞きました。道元は、
「言語、筆紙に述べ難し。瞼を閉じて、我と悟りを開くが故に禅法とは申すなり。悟る時は仏体。迷うが故に六道界。よくよく御思案あれ。」
と、はばかりも無く、ずばりと答えました。時頼は、その一言で、尊敬の念を抱きました。上座を立つと、道元の手を取って、道元を上座に座らせました。誠に驚きいったる計らいです。時頼は、
「今より御弟子となり申さん。開経、お授け給え。」
と、平伏しました。道元は、しからばと、菩薩戒(大乗戒)を授けると、そのまま御髪を下ろされ、戒名を最明寺と拝受しました。誠に殊勝なことです。
(※北条時頼:戒名 最明寺道崇 :墓 伊豆長岡 如意山最明寺)
つづく
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