言わなければならない事は言わないと前には進まない

生活する中において言わなければならない事や、他の記事で共感したことなどを中心に。今その時の思いを表す。

[現場から] 干ばつの米国穀倉地帯 トウモロコシ無残 実らず飼料用へ (2012年07月15日):日本農業新聞記事です

2012-07-16 20:23:21 | 言いたいことは何だ
[現場から] 干ばつの米国穀倉地帯 トウモロコシ無残 実らず飼料用へ (2012年07月15日)





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          米国が四半世紀ぶりとされる深刻な干ばつに襲われている。中でも乾燥が目立つ穀倉地帯の中西部を訪れ、生産の現状を報告する。(米国インディアナ州ポール・クエック)

http://www.agrinews.co.jp/uploads/fckeditor/2012/07/16/uid000354_20120716143456db4ab639.jpg インディアナ州中部のマリオン郡。農場主のデービッド・クラインさん(57)が、トウモロコシ畑に分け入る。受粉期は過ぎているが、3分の1の茎には実がついていない。無造作にちぎった実をむきながら「粒はあまり入っていないようだ」。

 クラインさんは130エーカー(1エーカーは約0.4ヘクタール)のトウモロコシと240エーカーの大豆を経営。受粉期前後の激しい干ばつで実がつかなかった。5月以降の降雨量が平年の1割にも満たない状態で、さらに連日の38度を超す高温が追い打ちをかけた。

 最終的に1エーカー当たり50~60ブッシェル(1ブッシェル約25キロ)くらいは収穫できるかもしれないとクラインさんは考えるが、平年の200ブッシェル近い収穫量とは比べられない低水準だ。

 もともと比較的雨が多く高収量で知られる同州の場合、米農務省の最新の作柄調査でトウモロコシの12%だけが「良好」「優秀」と分類され、60%以上は「良くない」「とても良くない」だ。現時点の収量予測は前月の1エーカー当たり166ブッシェルから、133ブッシェルまで引き下げられた。

 1988年、米国の中西部は激しい干ばつ被害を受けた。しかし今回の方が被害の範囲が広い。アラスカとハワイを除く米国48州の面積のうち、47%の干ばつは初めての記録。インディアナの他、オハイオ、ケンタッキー、イリノイ、カンザス州など多くの中西部は特に乾燥が目立つ。

 トウモロコシと大豆の最大の生産量を誇るアイオワ州は、作柄の進みが遅くこれから数週間が勝負。適度な雨が降れば最悪の事態は避けられる。

 中西部で車を走らせると、ほんの一部だけを残しトウモロコシを刈り払っている畑が目につく。収穫を諦めた農家が、作物保険の損害検査員の確認用を残し、飼料用に回すところが増えている。

・米国の記録的干ばつ 契約 農家の足かせに 国際価格上昇は必至

http://www.agrinews.co.jp/uploads/fckeditor/2012/07/16/uid000354_20120716143609467fe491.jpg 干ばつで収量の先行きが不透明な中、多くの農家が直面する課題は、販売だ。「作柄が悪化しても高価格で販売できれば損失の一部は埋め合わせできる」という単純な話ではない。

 クラインさんは今、頭を抱えている。今シーズンが始まる前、一部のトウモロコシについて、先渡し契約を結んだ。値決めを事前にする契約栽培に近い。相場が値下がりしても、価格を契約しておけば、決められた水準で代金を受け取ることができる。

 しかし、不作で事情ががらりと変わった。収穫時点で十分な数量がなければ、「当初の契約価格よりもずっと高いトウモロコシを、自分で手当てして納めなくてはならない」(クラインさん)ことになったからだ。当然、差額は自分の持ち出しとなる。

 先物や先渡し契約は価格変動のリスクを下げる効果が期待できるものの、不作の時には逆に首を絞めかねないというジレンマがある。先高になれば差額負担はさらに膨らむ。農家の中には、先渡し契約分のトウモロコシを先物市場で買って、損害額を最小限に抑えようという動きも出ている。

 干ばつ被害の一部は作物保険でカバーされるが、全量を保険に加入している農家は多くはない。

 トウモロコシの大幅な減産が見込まれる中で、「トウモロコシを(非食用の)バイオ燃料に回すのはおかしい」という議論も出始めた。しかし、米国の法律で車燃料は一定量のエタノール添加が義務付けられている。作柄にかかわらず、50万ブッシェルがバイオ燃料向けに確実に回る仕組みだ。

 「残りの少ないトウモロコシを、その他の需要者が奪い合うことになるだろう」とパーデュー大学のクリス・ハート教授は解説する。その場合、国内の需要者だけではなく、日本を含めた輸出先も買いに入るため、一層の価格上昇は間違いない。

 「今はみんなが固唾(かたず)を飲みながら、作柄がどこ まで低下するかを見ている状態だ」とハートさんは指摘する。


暑くてもやらねば進まない

2012-07-16 20:12:14 | 言いたいことは何だ
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 ようやくキュウリの定植が出来た。あとは水の管理、暑さ対策。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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雨で外仕事ができなかったので、知人に運んでもらった堆肥を散布。あとは耕い込む。
土づくりを十分やらないと後が大変だから今のうちにやらねばならぬことをやっておかないと。「あとで」はできなくなってしまうから。
 
 
 
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ズッキーニの天日干し。
形状がよくなかったり、不十分な成長になったり、黄色が緑色とのまだらになったりするのが出る。
そうしたものをどうしようかと悩んでいたら「干物」に行きついた。
 
 
 
 
 
 
 今年も変な気候でどうなる事やら。農業新聞には「アメリカが干ばつで穀物生産は絶望だ」というような記事が出てたが、そうなると家畜のえさとなるものが供給量不足になって値上がりするか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

奪われるな!誇りと歴史☆<福島県 田村郷 三春町>☆三春と自由民権運動

2012-07-16 13:50:21 | 言いたいことは何だ
 
 
 
http://blogs.yahoo.co.jp/katsurao120/5724662.html
↑より学びました。何も知らずにごめんなさい。
 
福島県では
多くの命が 自由と民主主義のために立ち上がられた
輝かしい先進的ご活動に
改めて 祖先の生きられた歴史を
大切に尊敬をもち
謹んで仰ぎたいと思います(礼) 
 
 
私も父によく聞かされました。「オッペケぺー」とか
父もよく 中ノ島公会堂へ演説を聴きに言ったそうです。
 
先人のみなさまの 想いが 
「いのち」を愛してやまぬ情熱が
 
先人が生きられた「事実と足跡」そのものが
 
 
 
そっくり奪うのが【原発】です!
 
国が滅ぶことは、
祖先の偉業も歴史も日本語も
失われます!
 
こんな愚かな原発を断固、やめましょう!
 
 
 
http://www.town.miharu.fukushima.jp/site/rekishi/minken.html
↑福島県 田村郷 三春町ホームページ より抜粋転記(画像も拝借)↓
 

三春と自由民権運動



明治時代初めの政府は、
鹿児島県・山口県など、
明治維新をなしとげた地域の人々を中心とする専制政府でした。
 
明治政府は、社会のしくみを変える改革を次々に進めましたが、
多くの人々の生活は良くなりませんでした。
 
また、当時の日本には国会・憲法がなかったため、
国民の自由を守り、権利を主張する場もありませんでした。
 
 
このような時代の中で、自由民権運動は、
人々が国政に参加し、
自由と権利を獲得することを目的としてはじまり、
全国的に広がったのです。
 
 
三春町出身の河野広中(こうのひろなか)は、
多くの同志たちと民権運動に参加し、
三春に政治結社「三師社」、
青年活動家を養成する学塾「正道館」を創設し、
数多くの運動家を育てました。
 
 
また、関東・東北地方では例のない
政治雑誌「三陽雑誌」を発刊しました。
 
 
このような活動により、
三春は東北地方最大の
自由民権運動の中心地となったのです。
 
 
河野らの活動は、
福島県内にとどまらず、
わが国最初の政党「自由党」の結成には
代表を送り、党の活動にも積極的に関わりました。
 
このような動きに対し、
明治15(1882)年の秋に起こった喜多方事件を好機として、
 
明治政府の力を背景とした福島県令
三島通庸は大弾圧を強行し、
河野広中・田母野秀顕ら、三春町出身者10名を含む
、58名の運動家を逮捕しました。
 
この事件は「福島事件」と呼ばれ、
逮捕された人々は、
国家に対する罪を犯したとして裁判にかけられました。
 
そして、河野と田母野ら10名が有罪とされたのです。
 
 
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加波山事件志士遺徳顕彰碑「自由の魁」(大町・磐州通り)
 
 
福島事件以後、自由民権運動は全国的に激化しました。
福島事件により弾圧を受けた県内民権運動家は、
 
明治17年、
栃木県令に就任していた三島の暗殺を志しましたが、
最終的に茨城県の加波山で挙兵決起することとしました。
 
「加波山事件」と呼ばれるこの運動に参加したのは
わずか16名でしたが、その中には河野広中の甥広体、
琴田岩松ら、5名の三春町出身者がいたのです。
 
 
しかし、この挙兵は失敗し、
参加した16名を含む130名もの人々が逮捕されました。
 
 
そして、三春出身の山口守太郎が獄死し、
琴田を含む7名が死刑、
河野広体ら5名が無期徒刑となるなど、
多数の人が処罰されたのです。
 
 
このような運動の高まりの結果、
 
明治政府も
国会の開設、
憲法の発布を検討するようになりました。
 
 
明治22年、大日本帝国憲法が発布、
翌年には第1回の衆議院選挙が行われ、
帝国議会が成立したのです。
 
 
福島・加波山事件を通じ、
多くの県内自由民権家が逮捕・処罰されました。
 
 
その中で三春出身者が多数にのぼったことからも、
三春町が
自由民権運動に積極的に関わったとして知られるのです。