1年は、24時間 x 365日 = 8、760時間である。
自動車を時速100kmで、1000時間連続的に走行させると、10万km走る勘定になる。
1000時間は、41.7日に相当する。1ヶ月と12日程度に過ぎない。
自家用車は、既に20万kmを大した交換・修理も無く乗れる時代になった。
いくら頑張って乗ったとしても、個人では30万kmがせいぜいであろう。
上の計算から、高々120日(4ヶ月)程度の寿命であることが判る。
しかし、この程度の寿命で、自家用車を十分日常生活に利用できるのである。
ほとんどの機械は、強度主体で設計すると実用上十分な寿命を得られるのであるが、
ある特定の機械に限っては、寿命を決めてから設計するものがある。
言い換えるならば、「寿命」を前提条件としないと設計できないのである。
その代表的な例の一つは、ボールベアリングである。
この場合には、先に寿命を設定して、設計を行っている。
有限寿命の設計、すなわちあらかじめ寿命が決まっているのである。
それ故、寿命に達する前に、新品と交換する必要があるが、交換すれば寿命は新品に戻るのである。
神様は、全ての生物を有限寿命に作られた。
これら有限寿命の生物が、時として必要とするのが、部品交換である。
人工臓器・人口筋肉・人口皮膚など懸命な開発がなされているようである。
これが完成すると、生き物である生物と機械の根本的な相違点の一つが解消することになる。
皆等しく自己の寿命が有限であることは認識しているが、
いつ寿命が尽きるかについては、ほとんど判っていない。
余命いくばくと宣告された人達を知る機会があった。
まづ悲嘆にくれ・気持ちの整理がつき始めると、
身辺整理・思いっきりしたいことをする等
人様々に残りの人生を過ごしておられた。
自分は、こうなったときどうするのかなと思うこともあるが、
有限寿命のことなどすぐ忘れて、
どこ吹く風と知らぬ顔で過ごしている。