韓国のお寺参りを発願したのが、昨年だった。このために必要なこととして、旅行に必要な最小限の韓国語をマスターすることだった。
今年になって、「地球の歩き方」というガイドブックを購入して知ったのが、「韓国 三十三観音霊場巡り」であった。小生が独自で選んでいたお参り先の大半が、この霊場めぐりと一致しているが、そうでないものも幾らかある。
少しずつ巡礼を重ねて行く予定であるが、小生の寿命や体が言うことをいつまで聞いてくれるかが問題である。要するに、くたばるのが先か、巡礼の満願が先か、それが問題なのである。
ヨロッパ各国のようにアルファベット表記の国では、解らないなりになんとなく安心できたし、中国でも簡体字はろくに解らないがそれでも漢字である、解った気になっていた。
しかし、15ヶ月前までは、ハングルが全く判らなかった。このため、これまで仕事や観光で何度か韓国を訪れていたのだが、文盲(この文字は差別用語で使えないのだろうか?)の悲哀を嫌というほど味わってきた。
しかし、今回の5月の旅は全く別の気持ちで過ごすことができた。僅か1年の勉強では何ほどのことも判るわけでは無いのだが、「ゼロでない、調べれば判る」という安心感が非常に大きかった。
釜山の人達が話していることにも僅かながら単語が聞き取れたし、あちこちの看板や表示板なども少しは解ったのである。そして、地下鉄で何人かの人と会話をしたが、少しはと言うよりは僅かながら通じたのである。
「ゼロと、僅かでもプラス」とでは雲泥の差であった。少し通じただけで、安心感と大変大きな親しみが湧いたのである。
この調子であと数年も勉強を続けると、もう少し内容のある会話ができそうだと思っている。
問題は、小生の寿命が何時までかである。くたばるのが先か、韓国語を流暢に使えるようになるのが先か、まさに一大競争となってきた。
追記;
韓国の昔の有名なお医者さんの小説「ホジュン」を読んだ。そして大変惹きこまれたので、現在「ホジュン」と題する韓国ドラマをYouTubeで見ている。
生憎と日本語字幕の無料版が無かったので、やむなく英語字幕版を見ている。それでも、小説を読んでいたので、英語字幕でも大体の内容は理解出来ている。(医学用語と薬草や薬の単語を除くと、7・8割くらいは分かっているような気がしている。・・・やはり長年付き合ってきた英語だけのことはあるようだ。)
悲しいかな、最も判らないのが韓国語のセリフである。数%程度しか聞き取れないのである、まだまだ、勉強しないといけないのである。