12345・・・無限大  一粒の砂

「一粒の砂」の、たわごと。
無責任結構・ 中途半端・ちゃらんぽらん・ 出たとこ勝負、で参りましょう!

日月潭 台湾

2012年09月04日 00時20分51秒 | 


台湾最大、そして最も美しき湖……日月潭

霧が出ると水墨画のような雰囲気になる日月潭

朝夕には霧が立ちこめることもあり、日の出の美しさは格別。

こんなキャッチフレーズが見事に表現しているのである。

正直言って、良い所に来たと感じた場所だった。


「WIKI」からその概要を引用しよう。

日月潭は「国立風景区」に指定されており、人気の観光地となっている。日月潭から見る夕日は特に美しいと言われ、また「双潭秋月(日月潭で見る秋の月)」は台湾八景のひとつに数えられている。

湖の周りには8本の遊歩道があり、文武廟や慈恩塔などのいろいろな名所を回ることができる。また、約39kmある周回道路は、サイクリングや貸しバイクによるツーリングに適している。


湖上には、遊覧船が運航されている。手こぎボートの貸し出しもあり、湖の上からも風景を楽しむことができる。
また、台湾ではめずらしい魚が多数生息しているため釣り場としても有名である。


参考;

日月潭の由来;日月潭は湖の西側に浮かぶ拉魯(ラル)島を境に東が太陽、西側が三日月の形に似ていることからその名が付けられた。

ちなみに「拉魯(ラル)」とは原住民サオの言葉で祖先の霊が眠る場所という意味です。

繁体字: 日月潭
簡体字: 日月潭
拼音: Rìyuètán
発音: リーユエタン
英文: Sun Moon Lake
周囲長 37 km、最大水深 27 m、水面の標高 748 m

日月潭(にちげつたん/じつげつたん)は、台湾南投県魚池郷に位置する湖。台湾で最も大きな湖である(ダム湖を除く)。

湖の北側が太陽(日)の形、南側が月の形をしていることからこう呼ばれる。略称は明潭(みんたん、日と月の合字で明)。


日本統治時代 (1918年) に、当時台湾総督だった明石元二郎と高木友枝率いる台湾電力株式会社が水力発電所を建設するため、台湾で最も長い川である濁水渓から地下導水路で水を引く計画を立案。

翌年台湾電力株式会社を設立し建設を開始するが、途中資金不足や関東大震災による影響などで計画は中断。1928年に松木幹一郎が台湾電力社長に就任したことにより計画が再開され、1934年6月にダム湖と発電所が竣工した。結果、湖面の面積は4.55km²から7.73km²に拡大した。

この発電所は、戦後1948年7月に「大観水力発電所」となり、現在、発電量は台湾の水力発電全体の半分以上を占めている。

また日月潭周辺は台湾原住民のサオ族(邵族)の居住地であり、日月潭に浮かぶラルー(拉魯)島はサオ族の祖霊が宿る場所(聖地)とされている。

1999年に起きた台湾大地震で島の面積が縮小し、月下老人の像が押し倒されるなど大きな被害が出たため現在復興工事が計画されている。

乗合タクシー2回目体験

2012年09月04日 00時06分24秒 | 長寿

この新交通難民対策制度が発足して、今度で2回目の利用をした。
先日の1回目は、行きつけの病院へ往路のみの片道利用だった。(診察終了時間が予測不可能のため、帰りは通常の一般乗合バスを利用した。)

今回は、雨に降られるとの天気予報のためと、大きな額入りの絵を持ち運ぶ必要があったので、水墨画教室の往復ともこのタクシーを利用した。

午後1時半の教室に間に合うように依頼したら、1時の便が定刻に迎えに来た。全く順調で片道僅が百円で大きな額入り荷物も運べて実に楽で便利だった。

復路は、3時45分になっても迎え時間の連絡が携帯電話に掛かってこないので、こちらから行く迎えが来るのか問合せの電話を入れた。大変混み合っているようで、4時半頃の迎えだとの返事だった。

幸い待ち合わせ場所は「すこやかセンター」という公共の大きな施設なので、ひっきりなしに鳴る雷をあまり恐れずにしばらく座って待つことが出来た。

3時45分頃から4時15分頃まで約30分待って、迎えのタクシーが来て自宅に帰れた。

体の不自由な年寄りにはそれでも大変ありがたかった。(何時もより1時間くらい遅い夕食の仕度開始となったのに少し戸惑ったが。)

追記;
電動自転車に乗れないような雨の日等は、水墨画教室の往復は、このタクシーを利用することに決めた。

延平郡王祠 台南市

2012年09月03日 05時20分29秒 | 


台湾において「鄭成功」の果たした役割には大きいものがある。この祠は、台湾の民衆がこの民族の英雄を記念するために特に建てたもの。

正殿に、鄭成功が祀られている。
後殿には鄭成功の一族が祀られている。
(鄭成功の母親は日本人であることはよく知られており、彼は日本で生まれ、7歳まで日本で育ったといわれている。)

1662年に創建されたこの建物は、台湾でわずかに残る福州式の建築様式を今に伝えている。

 台湾を占領していたオランダ人を追い出し、台湾を漢民族の土地とした鄭成功の功績をたたえ、鄭成功が1662年に38歳で死去したその年に、民衆によって廟が建てられ、鄭成功が祀られた。当時は「開山王廟」と名付けられていたという。

 1875年には新しく福州式建築の祠が建てられた。日本が台湾を統治していた時代には開山神社と改称した時期もあったようであるが、終戦後、中華民国政府によって以前の祠が取り壊され、新しい様式の建物に建て替えられたという。




避難は本当に必要か?

2012年09月03日 05時12分31秒 | ボヤキ
9月2日は全国的にも、同時にこの地区も東海・南海トラフで起きると予想されている巨大地震とそれに伴う大津波を想定した避難訓練の日だった。

小生は敢えてこの避難訓練の参加を拒否した。なぜなら、その理由は単純明快である。「自分にとっての最大の安全は、 避難しないこと!」と信じているからである。


小生の団地は、小山の頂上を平に整地した海抜35m以上の平らな部分にある。そして、我々の小山はその周囲を150m級の外輪山に囲まれているという構造である。

ただし、外輪山と表現したが、正確にはそれは連続しておらず何箇所かの不連続箇所があり、そこから瀬戸内海に通じている。(この団地からは、瀬戸内海を越えて高松市を遠望できる。)

岡山県南部に位置する玉野市で最新の想定津波高さは、今の段階では伝達されていない。

しかし、太平洋岸の最大場所で津波高さ三十数メートルという報道からすると、瀬戸内海のこの地方では、到底小生の団地まで津波が届くとは考えられないのである。

今回2箇所指定され避難場所は、いずれも海抜十数mでしかない。こんなところに避難したら、改悪以外の何物でもない。

その上避難場所までへの道中では、海抜数mまで降りて低い道を歩き、次に海抜十数mの避難場所に登るという行程になる。

元気な人で10分くらいの道のりである。急な坂道もある高齢者ではこの数倍掛かるのではないだろうか?

避難場所へは、代替案として外輪山の内側をたどりあまり高度を下げないで済むルートが無くもない。しかし、このルートは急峻な山肌を水平に移動する道であり、地震による崩落の危険性が予想されるのである。

くどくど説明したが、一言で言って「自分の家に居ることが、一番安全!」だということなのである。


今回避難訓練でも、1mの津波・2m津波・・・・10mの津波・・・で、避難対象地域や避難場所も避難形態も、それぞれに適正なものがあるはずである。

今回の様な「十把一絡げの避難訓練」にはどうしても賛同出来なかった。国をはじめ県も市も、もう少しよく考えた避難計画を立案するべきではないだろうか。



災害には、大地震(+津波)、大火・大山火事、山崩れ・山津波、コンビナートからの火災や毒性ガスの飛散、更には、とんでもない伝染病、あるいはテロや暴動(最悪戦争)等避難を必要とする条件も様々である。

それぞれに、最適な避難計画があるはずである。そういった視点で考えることが必要なのではないだろうか。

(避難させない事も含めて避難計画を練ってほしいものである。)

赤崁楼 台南市

2012年09月02日 05時47分19秒 | 


赤崁楼(せきかんろう)は1652年にオランダ人によって創設されたもので、もとはプロビンティア城(オランダ語で永遠の意味)と言われていたが、のちに中国人に「赤崁城」、「番仔楼」、「赤毛楼」などと呼ばれるようになった。

赤嵌楼の敷地の中に、鄭成功の像が建てられている。 鄭成功は,台湾南部を占領していたオランダ人を追い出した英雄として崇められているので、このような像が建てられた。

オランダ人により占拠されていた時代から行政要所とされ、1661年に鄭成功がオランダ人を駆逐した後、プロビンティア城を首府に制定した。

 清代初期、台江が土砂で閉塞される前、赤崁楼のすぐそばまで波涛が達し、「赤崁の黄昏」は当時有名な台湾八景の一つであった。

赤崁楼の前には外地から運ばれ、清代に造られたという9基の石亀駄碑がある。伝説によれば石亀は龍が生んだ9人の子の一人で、重責を負わされていたため、亀の形にされたという。また、「断足の石馬」像は石馬が妖怪に化けて悪さをしに夜な街へ出てくるため、足を切られ現在の姿になったという話が伝わっている。


台南: かつて台湾南部はオランダに占領されており、台南はその拠点であった。当時、台湾北部はスペインに占領されていたが、オランダがスペインを台湾から追いだし台湾を支配する。

 オランダの植民地支配は、中国本土から渡ってきた「鄭成功(母は日本人。)」によりオランダ人が撃退された結果、1661年に終結する。その後、鄭成功は38歳の若さで死去し、政治は清朝が司ることになる。

 1885年に台湾の首府が台北に移るが、1661年から1885年までの224年の間、台南が台湾の首府であり、政治、文化の中心であった。台南は歴史のある古都であり、それだけに観光スポットも多い。

 台南は台北とは異なり、熱帯性気候に属する土地で、景観も台北とはかなり違っており、街の雰囲気は真に南国である。

次世代宇宙船・スカイロン

2012年09月01日 03時29分10秒 | Weblog



こんな夢のある記事があった、

退役したスペースシャトルの後継機として注目集める「スカイロン」。
ジェットエンジンとロケットエンジンの両方を持つSABREエンジンは、デュアルモード機能を備えている飛行機型スペースシャトルとでも言うものである。

次の2つのBBC報道が、判りやすい。(リンクが上手く出来ないので、ご面倒だがURLをブラウザーにコピー、ペイントして下さい。)


http://www.bbc.co.uk/news/science-environment-17874276



http://www.bbc.co.uk/news/science-environment-17864782

参考;
スカイロンは反応エンジン株式会社(REL)http://www.reactionengines.co.uk/ によって開発されている英国のHOTOLスペースプレーンの概念モデルです。再利用可能な航空機のような機体です。




時間の長さ

2012年09月01日 03時16分49秒 | 長寿

我々高齢者が毎日感じていることを、科学していくれているようである。

時間を有効に生かせる方策が、生まれることを期待している。

 

 

大人になってからたびたび感じることだが、少年時代の1日というのは、いま体感する1日よりも、もっとずっと長かった気がしてならない。・・・

 

・・・脳科学の世界ではどう考えられているのだろうか? オスロ大学・認知機能研究センターの末神翔先生に真相を確かめてみた。

 

「年を取るほど時間の経過が早く感じられるという感覚は、じつは50年以上も前から議論されてきたテーマです。これは国や文化を超えた感覚のようですね」

 

やはりこの不思議な感覚は、全国…いや全世界に共通するものなのだ。しかし、その奇妙なメカニズムは、いまだはっきりとは解明されていないのだと末神先生は語る。そのうえで、現時点で有力なのは次のような説だという。

 

「歳を重ねることは、身体機能や脳機能はもちろん、“過去の記憶”の量、社会環境や人間関係など多くの変化を引き起こします。

 

脳科学の世界では、これらの要因が複雑に影響し、主観的な時間の感覚を変化させるもの、と考えられています。

 

たとえば、加齢にともなって身体機能や脳機能が低下すると、どうしても一つ一つの判断や行動にかかる時間が長くなってしまいます。そうすると、1日の仕事や行動量が減り、相対的に1日が短く感じられるようになるかもしれません」

 

また、末神先生によれば、昨年フランスとアメリカが共同で行った研究で、

*人は体を使う課題に取り組んだ時は時間を長く感じ、

*頭を使う課題に取り組んだ時は時間を短く感じる

との結果が得られたという。これは真相解明に向け、大きなヒントになりそう。

 

今後の研究の進展に期待したいが、少なくともいまの11秒を大切にする意識だけは持っておきたいものだ。

(友清 哲)”

 

*頭を使う課題に取り組んだ時は時間を短く感じる・・・まさにこれは真理である。

小生の場合には、パソコンで遊んでいる時くらい、早く時間が過ぎることがないのである。



この記事の引用先。・・・http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20120806-00025287-r25