阪神淡路大震災16周年記念日の前日16日、お世話をしているウォーキング倶楽部の1月例会で神戸を訪ねた。例会テーマは「震災モニュメント(慰霊碑)と神戸の歴史を訪ねて」、コースは須磨から三宮・震災記念の集いが開催される東遊園地までの20キロを歩こうというもの。
神戸にゆかりの平清盛一族と盛衰の跡がいまなお強く残る史跡を訪ねること、とくに来年の大河ドラマ「平清盛」を先取りして現地を訪ねておこう②大震災後の神戸の復興状況を足で見て歩き亡くなった人の慰霊碑を訪ねてお慰めをすることにした。
JR須磨駅に集合、今回は初めて参加(お試し)の男性が二人。9名で駅前から広がる須磨の海岸を歩いて須磨浦公園まで行った。
公園の西側のすみっこにある平敦盛塚へ、敦盛は平清盛の弟・経盛の末っ子で一の谷の合戦で源氏の熊谷直美と一騎打ち、その悲劇は「平家物語」でも有名。ここへは何度きたことやら、この後で須磨寺に行くとその一騎打ちの場面が見られる。
須磨浦公園一帯は源平の合戦のうち一の谷合戦の戦場となったことから「戦の浜」と呼ばれ、「源平史跡 戦の浜」と書かれた石碑が建っている。
公園を出て一路神戸方面へ2号線に沿って歩き続ける。源平にゆかりの深い須磨寺へ寄ったが、時間の関係で今日は中へは入らなかった。このお寺はゆっくりと見るにはかなりの時間が必要なお寺。
須磨寺正覚院のお地蔵さんたち、震災で行き場がなくなった地区のお地蔵さん達をここに引き取ったという。さまざまなお地蔵さんたちが丁寧に安置され静かに時を送っているように見えた。
ここに一の谷合戦の敦盛と熊谷直美との一騎打ちの場面を再現した源平の庭がある。当時16歳だった敦盛が源氏に追われ平家劣勢で海に逃れようとしていた時源氏の熊谷直美に挑まれ、勝った直美が首を斬ろうとすると敦盛であることがわかり、自分の子供と同じような年齢の敦盛の首を味方の武士に斬らせることはできないと涙を飲んで自分で斬る、この場面が歌舞伎などで演じられている。
山陽電鉄須磨寺駅横には平重衝とらわれの松の碑がある。うっかりすると見逃しそうな駅と往来の激しい道路わきにある。
源平合戦で敗走した平清盛の五男重衛がこの地で生け捕りにあい松の木に縛られたとある。
琵琶の名人の藤原師長がこの地で村上天皇の霊に琵琶の奥義を伝授したという村上帝社により、さらに関守稲荷神社へ向かった。
ここから鷹取駅方面を目指してどんどんすすむ、初参加の二人も問題なく歩いて行くのでひと安心、12時ちょうど、鷹取駅前へ来た。
JR鷹取駅前から16年前のあの時、火災で町中が火の海と化し、多くの犠牲者を出した鷹取商店街の今を訪ねた。商店街はしばらく古い建物が残り震災の傷跡があまり感じられない通りをすすんでいると公園についた。
実はこの公園にあるクスノキがこれから向かう全焼した商店街や住宅との防火壁の役目を果たし、いま歩いてきた通りへの類焼を防いだそうだ。今日の担当、ちゅうさんがここを皆に見せたかったらしい。確かに歩いてきた通りとこれから行く通りはまるで雰囲気が違う、どこにでもあるような公園が実は大きな役割を果たしたこと、そのクスノキは何もなかったかのように空に向かっているが、なにもかも知っているのだろう。
(↑正面に公園が見える-このあたりは古い建物が多い)
大国公園にあね倒壊した鳥居で作ったお地蔵さん。
公園を出ると焼けつくされた町はすっかり区画化され、きれいに立ち並ぶ新しい建物、そして商店街は異様な感じさえした。
そんな鷹取の通りを歩いていたら年配の男性に声をかけられた、それがすばらしい出会いになった。
その人は、Aさんというプロゴルファー、赤井英和さん主演の震災をテーマにして数年前に上映された映画「ありがとう」のモデルになった人だった。震災前からこの街に住み、あの震災を体験、がれきの下から11人助け出しながら、生きている人を火の海から救い出せなかった、助けて!という声がいまも消えないという。
地震と火災の怖さを伝えていきたいと400回を超える講演を行っているそうだ。寒い商店街の一角で震災体験者のAさんから真に迫る話を聞くことができてすばらしい出会いになった。
Aさん70才、同じ年齢なのに若さが違う、メンバーが二人で肩を組んでいる写真を撮ってくれた。握手して別れたが、家に戻ってきて実はAさんとつながりがあることがわかってびっくり。何気なく組んだ肩のぬくもり、つながっていた。一度、Aさんを訪ねたいと思っている。
若松鷹取公園、Aさんに教えられた合掌の地蔵さん、震災当日、ここにあった家から出火しこのあたりを火の海にしたらしい。
鷹取から同じく火災で町が焼けつくされた長田へ移動、ここも火災に包まれた町がテレビで映され続けた町、5年前に訪れた時とはかなり変わっていた。駅前は復興事業で大規模集合住宅や店舗が目立ち、表向きはここも新興の駅前、商店街。
昨年、突然現れた鉄人28号の像は復興の象徴のように力強く見えた。
行くぞ、おっ!
いつの間にか12時半を過ぎていたので新長田駅前の商店街で長田名物の「ぼっかけうどん」で身体を温めた。うわさ通りおいしかった。
長田でよく紹介されていた菅原商店街を訪ねた、商店街は集合店舗になり震災前とは町が一変していた。
よく紹介された菅原商店街だったと思われるところが「すがはらすいせん公園」になっているが、その公園に、天皇陛下、皇后陛下がお見舞いに来られたとき水仙の花束をお供えになったことで名づけられ、今日も可憐に水仙の花が咲き、花束を模したモニュメントもあった。
14時8分にJR兵庫駅前を通過。
駅前すぐ、西国街道の柳原えびす神社がある、ここが西国街道、これから行く兵庫城(跡)への西の入り口・柳原総門があったところ。
しばらく行くと兵庫大仏のある能福寺へ、日本三大大仏の三位。高さ18メートル。ここは来年の大河ドラマの平清盛に清盛役で出演するタレントが訪れたという新聞記事が張り出してあった。平清盛の供養塔があるからだろう。
「江」が始まったばかりなのに、もう、来年のことが始まっている、驚いた。
時宗の一遍上人の五輪塔、廟のある一遍上人がなくなった真光寺へも寄ってみた。
すぐ向かいの清盛の像と高い十三塔もあり、いかにも清盛が切り開いた兵庫津らしく清盛の史跡がいたるところにあった。
左・清盛像と右・清盛の甥の経正を祀る琵琶塚。
清盛塚、鎌倉時代の執権の北条貞時が平清盛の冥福を祈って建立した石塔。
兵庫運河にかかる大和田橋を渡ってみた、このあたりは数年前に方向は逆だが歩いたことがあるので記憶に新しい。橋の大きな飾り柱が倒壊しているのを見るといかに震災のエネルギーが大きかったか、想像もつかない。
新川運河のほとりが遊歩道・キャナルプロムナードという、ここはかって兵庫の港であった大和田泊、後に兵庫津(港)といわれたところ。それをすすめたのが平清盛、福原に遷都、そしてこの地、和田に和田京を思い、外国との交易を広げるために港の整備を行った。
そばに兵庫城跡の碑があった、兵庫城は、池田信輝、輝政父子が1581年(天正9年)にこの兵庫津(港)に築いた城で、海陸の要所として栄えた兵庫津をおさめた。初代兵庫県庁があったところ。ということは、初代知事の伊藤博文さんはここにいたのだろうか。
七宮神社まで来た、七宮神社は平清盛が築造した人工島(経が島)ゆかりの神社。人工島の工事が難航するのを不審に思った清盛が調べたところ土砂をとっていた塩槌山の神の怒りとわかり、山にあつた七宮神社を現在地に移したら工事は無事に終わったという。
七宮神社を過ぎると高田屋嘉兵衛本店跡の碑が建っていた。嘉兵衛は江戸時代後期、西回り航路から北をめざし北海道、やがてロシアと交易を発展させた人物として知られている。
コースはいよいよ終盤、寒さの中を歩き続け、さすがにメンバーの足が重くなったころ、神戸ハーバーランドについた。ここからが現在の神戸港一帯、あれなに?水陸両用車に遭遇した。しかし、この水陸両用バスさん、なんや、頼りなかったなあ・・・。
崩れた岸壁をモニュメントにしているメリケン波止場へ、ここに去年の1月17日、福島県から震災の日を訪ねてきた親子ウォーカーさん(親子)を案内したことを思い出した。そして、勝海舟と龍馬の神戸海軍操連所跡の碑前を通り最終目的地の東遊園地へ急いだ。
ゴールの神戸市役所南側、東遊園地は、明日「震災から16年 阪神淡路大震災1.17の集い」が開かれるメイン会場になる。地下室に亡くなった人の名前が刻まれている復興のモニュメントへ行ってみた、関係者なのだろう、刻まれた名前の前でじっと佇む人、名前にそっと手をやる人、そこは鎮魂の静けさが漂っていた。
●365日、消えることなく灯り続けている希望の灯かりへも行った。ここでもうれしい出会いがあった。17日のイベントを中心的にサポートしているNPOの初代理事長で、いまなお中心的な存在でいる友人のSさんに会った。あの震災で大学生だった息子さんを亡くしたSさんは、定年退職後、被災者の心の復活のためNPOを立ち上げ、神戸に限らず、国内外の震災にかけつけ心のケアに生涯を捧げている。
久しぶりの再会。
6年前のあの日、ウォーキング倶楽部で半年間折り続けた千羽鶴6433羽を希望の灯かり前でSさんに届けたことを懐かしく思い出した。はるかのひまわり活動もSさんのNPOが中心でやっている。
最後に震災記念日のメイン会場をのぞいてみたら、すでに多くのボランティアたちが明日のため竹筒で1.17の文字にして、水を入れる作業をしていた。多くの男子中、高校生が寒さの中を一生懸命に動いているのを見ながら手伝いもせず会場をあとにした。
公園北側、MARINA像の時計は、あの日から16年間も5時46分を指したまま。
公園を出るころ日も隠れ、寒風に冷えた体を温めたくてJR三ノ宮駅前のホテルでコーヒーを飲みながら楽しいひとときを過ごして解散した。ほんとうに寒い中をよく歩いた。
2002年に立ち上げたW倶楽部もついに10年目になり開催してきた例会は100回を越えた。みんなの手作りで例会を運営してきたからこそ、ここまで続けることができたので一人ではとてもできないこと、最近、とくに入会希望が多くなったので抑えてきた会員を増やすことにした。
誰も途中でやめることなく20kmの道のりを最後
まで歩いていただき感謝しています。
特に大国公園と菅原市場跡はぜひ見て欲しかった
所です。
地震そのものの怖さもありますが、水が出なく
なると大火に襲われる恐怖を実感いただけたかと
思います。
追悼行事の行われる時間と場所一覧や、慰霊碑の場所が地図で紹介されていて、その数に驚きました。
市役所で震災写真展を見ましたが、あの神戸新聞社ビルだった場所でも写真展は行われたようですし、地下街や元町の商店街、西宮や宝塚、もちろん淡路島でも写真展はあったようです。
地方にいるとそのような情報は無く、本当に一部の神戸(主に東遊園地)しか見ていないわけで・・・
1.17の神戸へ行くのに15年かかりました。
それでもほとんどカメラは向けられず、自分で撮影して画像が残っているのは地震発生時間前5時40頃の東遊園地での竹筒を写した3枚と、ランドセルさんと合流した後に撮影した「希望の灯り」2枚の合わせて5枚だけです。