計画していた「お伊勢さん参りウォーク(3)」に行くか、延期するか、前夜、ギリギリまで思案したが、とにかく朝、目覚めた時の状態で決めようと準備だけはちゃんとして寝た。
年末から血圧の偏差値が上昇気味、とくに早朝が高いので無理はしないように、朝、気分良く目覚めるかどうかに賭けたが、すっきりと起きられたので血圧を測るより先にもう行く気になって、そのまま食事もせず7時に自宅を出た。
地下鉄、近鉄奈良線を乗り継いで大和西大寺へ、遷都1300年祭で賑わった最寄駅で天理線に乗り換え西の京では薬師寺の五重塔を車窓から眺めながら9時前に近鉄天理駅に着いた。電車を降りると冷たい!朝食代わりに駅前のミスタードーナツショップへ、ここで温かいコーヒー二杯にドーナツ二個で身体も温まった。30分遅れて9時半にスタート!
今日はお伊勢さん参り第三回目、コースは、天理市から三輪ソーメンで有名な桜井市、長谷寺を経由して奈良県宇陀市の近鉄名古屋線榛原駅に16時ゴールの予定。しかしいきなり30分遅れでスタート、どうなることやら。まあぼちぼちと朝は無理しないこと。
天理から桜井までは、伊勢本街道と山の辺の道がほぼ並行しており桜井市では一部、重なる部分がある。道中には大きな天皇陵や最近とくに話題になっている箸墓古墳をはじめたくさんの古墳群が点在するまさに古代ロマンの詰まった道を歩くのだから楽しみには事欠かない。
天理をスタートして狭い街道に古い屋並みが続く、空は徐々に晴れ上がり正面から日差しがまばゆく逆光のため写真が撮れずしばらくは記録ができなかった。
郊外へすすむと左手にすぐ低い山並みが続く、その下を山の辺の道が続いている、天理駅で下りたリュック姿の人たちはそこを歩いているに違いない。お世話をしているW倶楽部の3月例会はその山の辺を歩くことが決定している。
しばらくすすみ体が温まってきたころ、3年半前の9月に寄った見覚えのある「大和神社」の前にきた、喪中なので今日は鳥居をくぐらないことにしているのでパス。
さすがにこの季節、伊勢本街道を歩いている人はいない、ひとりおしゃべりをしながら歩き続けた。
街道の角で不思議なお堂が目に入った。
あれ!なんや?
小さなお堂が太い一本の心柱の上に屋根が乗っているだけのお堂に「五智堂」と表示してあり傘堂とも呼ばれているそうだ、鎌倉時代のものらしく重要文化財に指定されている。ほんとに不思議なお堂でなぜこんな形のものを?
さらにすこし進んで左に入るとそこは「黒塚古墳」。3-4世紀の古墳らしく132メートルの前方後円墳、一角が公園になっており立派な資料館に出土品がたくさん展示してあった。所員の方に説明してもらった。池の中にある整備された古墳の頂上から周辺の景色が展望できた。
出土品の三角縁神獣鏡は、初期ヤマト政権のあり方や邪馬台国の所在論とも無関係ではないということで解明が待たれるとのことだった。
ふーん? 邪馬台国?
もしかして、邪馬台国にいるのかなあ・・・ますますロマン、興味がつきない。
ついでに伊勢本街道から東へ足を延ばし169号線のすぐ東にある崇神天皇陵へ寄った、高い階段を上るとそこにきれいな陵があった。
思わず“わー きれいやな!”全長240メートル、美しい濠に囲まれた前方後円墳、崇神天皇は各地の勢力を平定して大和朝廷を確立した10代目天皇といわれている。
この天皇陵の東側が山の辺の道でまた3月に寄るかもしれない。ここから少し南へ行くと大和古墳群では最大の「景行天皇陵」があるが、そこへは寄らずにもとの街道へ引き返した。そういえば前回のコースに陵があった垂仁天皇が11代だから1代前の天皇が崇神天皇ということになる。天皇陵を訪ねるウォークもやってみたいね。
近くで大勢のおじいちゃん、おばあちゃんがゲートボールをしていたのでしばらく見物、まだ一度もやったことのないゲートボール、やってみるか?と聞かれたら“いや結構です!”でも、おばちゃんとお友達になれるかもしれないしなあ・・・。動機不純×。
古い軒並みの続く街道をどんどんすすむと生垣に「柿本人麿公屋敷跡」の石碑が見えた。あの有名な万葉歌人がここに住んでいたのか、山の辺を散策しながら歌を詠んでいたのだろうか・・・そういえば山の辺には歌碑がたくさんあるからなあ。
JR櫻井線、巻向駅周辺で行く道に迷った、それでもガードをくぐり、ミラー、階段・・・なんとか進んでいると若い男性と出会ったので確認したら、駅に引き返して別の道を進めば次の「箸墓古墳」に行けると教えてくれた、素直?に従ったが、結局、自分が進んでいた道に合流したのでなんのことやら、でも、とても親切に教えてくれてその出会いのほうがうれしかった。
田んぼに囲まれた「箸墓古墳」は日本書紀に登場し、卑弥呼の墓とも言われる古代の謎とロマンに包まれた古墳だ。東側を伊勢本街道の古い民家が続いている、そばを一周してみたかったが、広くて一部を歩いて街道へもどった。
ここで休憩、お腹がへったので黒豆パンを食べて、時計を見ると12時18分、予定より30分遅れている。桜井市の街中に入った。ここからの街道歩きには四苦八苦した。こだわらなければ簡単に行かれるのにやっぱり地図通りに行きたい、もう、三輪ソーメンを食べることは二の次。
わずかな距離の中、三人の男性と女子高生らしい女の子に聞いた、伊勢本街道を知る人は二人だけだったがみんな親切に教えてくれた。とくに洗車中の若い男性は手持ちの地図を見ながらとても丁寧に教えてくれて教え方にもいろいろあるなあと感心た。
道を確認するために声をかけた洗車中の若い男性が手持ちの地図を見ながら丁寧に教えてくれたのでお礼を言って行こうとしたら“お気をつけて!”と言ってくれた。
“お気をつけて!”
街道歩きをしていてこの言葉ほどうれしいことばはない。こちらが年寄りだから心配して言ってくれたのだろうか?それはどうであれ、そういう言葉がかけられる若者がすばらしいと思った。
やっと複雑な桜井市の中心部から山の辺の道と重なる街道へ入った。ここまで歩いてきて観光コース化し整備された山の辺の道に比べ、標識もなにもない旧道のままの伊勢本街道とがまったく違った自然な顔を見せてくれた。
その山の辺の道と伊勢本街道が合流したあたりが、「海石榴市跡」(つばいちあと)と言われた地域、最初に寄ったのが海石榴市跡の観音堂、ここも三年半ぶりに訪れた。
200メートルほどすすむと初瀬街道と呼ばれる165号線に出る、すぐそばを大坂へ流れている大和川が広がる、、「海石榴市」(つばいち)という古代に市場が開かれていたところ、ここから陸路、山の辺方面、初瀬から飛鳥方面、大坂方面からの道が集結、大和川の舟便で大坂からも便利で、物資や人の集散地として賑わい、伊勢・長谷詣でが盛んになるにつれて宿場町として栄えた。
また、この付近が、難波津(大坂)から大和川を遡ってきた船運の執着地で、大和朝廷と交渉を持つ国々の使節が発着する港としての役割も果たしたところ。
大坂から船で遣隋使の小野妹子もここに上たという。仏教伝来の地でもあるらしい。
説明板の一部から・・・【仏教伝来の地碑】
仏教伝来の地碑は日本書紀に、大意「欽明天皇13年(552年)の冬10月に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)という王様からの使いがきて、お釈迦様の金銅製仏像、一光三尊の阿弥陀仏、百済大仏、幡蓋(はたきぬがさ)幾つか、經論何巻かを献上した」と記されているのを根拠に建てられたものです。
ここからは伊勢本街道、別名初瀬街道は、コースの大半を車の往来の激しい道をすすむ、これまで街道歩きをしてきて、一番神経を使うのが車、端に寄って歩くのだが向こうに寄ってこられてはどうしょうもないから、スピードアップして逃げるようにすすむ、山と山とが迫る間の165号線と古い街道を交互にすすむ、南側の山の間をひんぱんに行く近鉄名古屋線の電車が鉄道ファンには楽しい。
道中の有名な白山神社や十二柱神社も今回はみんなパス、14時36分に西国三十三か所の長谷寺へ通ずる長谷門前町に入った。
ここに来たのは5年ぶり、門前町の通りも不思議なくらい人影が少ない、長谷寺は参拝しないので「いせ辻」の石碑があるところから峠に向かう。たまたま石碑のたつお店のおばさんと目があったのでしばらく話し込んだ、すぐ峠道に入るが初めての道なのでいろいろ教えてもらった。
きびしい「化粧坂」という急坂を呼吸を整えながら上りきると今度は下り、再び165号線へ下り車の騒音の激しい道をゴールの榛原をめざす。ゴール予定の16時をオーバーするかもしれないが、あわてずに、安全に、安全に、歩こうと言い聞かせて。
それでも西峠までずっと緩やかな上りが続き、最後はさすがに疲れてしまった。
榛原の町に入るとここも昔の街道の面影を残していた。間違えないようにスローウォーク、道端のベンチに座っていたおじいさんに話しかけたら面白い人、82歳、愛媛県出身、なかなか歴史に詳しいおじいさんに脱帽! “気をつけて”と声をかけてくれた。“ありがとう”
近鉄榛原駅にゴールしたのが16時28分、58分の大阪上本町行きの急行に乗ることにして駅前のミスタードーナツショップへ寄った、今日はスタート、ゴールをミスタードーナツショップで、カードを一日に二度も使ったのは初めて。駅で大勢のハイカーたちと一緒になった。
約41,900歩。道探ししながらこの歩数、よく歩いた。
次回はいよいよ奈良県から三重県に入る、真冬になるが一歩一歩自分の歩きで行きたい。